記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
「藤田嗣治の戦争画 東京国立近代美術館 無期限貸与」は、私が以前にネットにあげたpdfファイルであるが、なかなかその全14点を見ることができななかった。
1.南昌飛行場の焼打 1938-39: 再掲。 大きくて明るい戦争画で、人間よりも機械類に焦点が絞られている。こういった作品が第二次大戦の進展とともに暗い戦争画に変質していく。 2.武漢進撃 1938-40: 再見。 これは単なる海洋画といっても通じるすこぶるおとなしい戦争画である。実際にこの画は1941年の第5回海洋美術展に出品されているものである。1943年に藤田が描いた《アッツ島玉砕》は狂おしい戦争画であるが、この2年間で藤田をこのように大きく変わらせたものは何だったのだろうか。 3.哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941: 再見。 横長の大きなキャンバスには緑の草原が描かれている。しかしよく見ると、その草むらを日本軍(関東軍)の兵士が匍匐前進している。その相手はソ連の戦車である。 これは1939年5-10月に起こった「ノモンハン事件」の画である。満州国とモンゴル人民共和国の間の国境紛争であるが、実際にはそれぞれを応援した日本とソ連の戦いであった。 草原の彼方でも黒煙が上がり、戦車に数人の兵士がよじ登り、銃剣を突きつけている。実際には、日本軍はこの人対戦車の戦いに惨憺たる敗北を喫したとされているが、ここには勇敢な兵士の姿だけが描かれている。もちろんこの画からこの戦いの最終的な勝敗が分かるわけもないが、軍部は国民に対して敗北の事実をひた隠しにしていたという。 近藤史人著の《藤田嗣治「異邦人」の生涯》によると、藤田は、この戦いに参加した陸軍予備役中将・荻州立兵から「ノモンハン事件」の実相を聞かされ、戦死した部下の霊を慰めるために画を描いてくれと依頼されていたというのである。そのため藤田は満蒙国境を訪れ、この画を描いて1941年7月の第二回聖戦美術展に出品し、非常に高い評価を受けたのである。 ところが、藤田は同名の画をもう1枚描いていたのである。それを実際に見た荻州中将の息子・照之によると、ソ連の戦車からは発射される銃弾によって、死体が累々と積み重なっていく画だったという。この画は美術評論家の藤田韶三も見ており、藤田はレアリスムの傑作だと自賛していたとのことである。この画はその後に藤田の描いた《アッツ島玉砕》と繋がるものだったのなのだろう。このようにして、藤田は憑りつかれたように戦争画にのめりこんでいくのである。 4.十二月八日の真珠湾 1942: 再見。 アメリカ人はこの真珠湾攻撃を”Remember the Pearl Harber”として 絶対に忘れないだろう。一定の年齢以上の日本人にとっても、十二月八日という日は特別な意味を持っている。その朝には、国民学校の「奉安殿」の前に整列し、校長先生の読む「教育勅語」を聞いていた。 これは戦争画について語る時に常に出てくる「藤田嗣治」のその画である。なんとも暗い画である。あちこちに火や煙が見える。観光名所のダイアモンドヘッドも右奥に見えているが、目を凝らさないと見えない。 5.シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942: 再見。 藤田はまもなく現地を訪れ、日本でこのパノラマ的な「戦争記録画」を描いた。 6.ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943: 再見。 この戦争画は、ルーヴルにあるドラクロアの《地獄のダンテとヴェルギリウス》やジェリコーの《メデュース号の筏》と同じく、人間の極限状態を描いた歴史画である。 近寄ってみると、雄々しく立ち上がって闘う気持ちを示している米兵は1名だけで、他の米兵は、皆、来たるべき運命を甘受しているように描かれている。波立つ海には鱶の群れが描かれ、一匹は海面からはね上がっている。 画面の左下には題名と署名と皇紀が書き加えられている。その題名は《ソロモン海戦に於ける敵の末路》となっている。しかしながら、キャプションはなぜか《ソロモン海域に於ける米兵の末路》に変えられている。GHQを恐れた当時の関係者がこのようにしたのだろうが、その経緯を明らかにしてほしいと思う。 7.アッツ島玉砕 1943: 再見。 藤田の《アッツ島玉砕》では、この時の肉弾戦の様子が描かれ、立ち上がって号令をかける日本の指揮官、米兵に銃剣を刺す日本兵が描かれている。 米軍の捕虜となってアッツ島から生還した佐々木一郎氏の証言では、「圧倒的に性能の良い米軍の鉄砲に向かって突撃していっただけで、とても肉弾戦といえるものではなかった」とのことである。 昭和18年5月30日の大本営発表は、「山崎部隊は増援や補給の依頼を全く行うことなく、全員玉砕した」と伝えた。「全滅」に対して「玉砕」という美化した言葉が使われたのは、この時が最初である。 藤田は20日余りで、まったく想像でこの画を描いた。「戦地に赴かなくても、ちゃんとした絵描きならチャンバラは描ける」と豪語していたとのことである。 三か月後に、上野でこの画が公開された。画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。藤田は軍装で、直立不動の姿勢で画の傍に立っていた。何かが乗り移ったようだったとのことである。藤田は、自分の画が拝まれたことを見て、「これこそ快心作だ」といったともいう。 東京国立近代美術館の蔵屋美香美術課長は「藤田がフランスで描いていたのは、乳白色の肌の裸婦像だったが、戦争が歴史画の格好の画題であることから、西洋で位の高いとされている歴史画に挑戦してみたかったのだろう」と解説されている。 「山崎部隊合同慰霊祭」では、2638名が「軍神」として祀られ、アッツ島玉砕が紙芝居や顕彰国民歌のテーマとなった。 藤田が想像で描いた《アッツ島玉砕》は、全国を巡回展示し、「玉砕を美化する」という軍部のプロパガンダの一翼を担ったのである。 笹木繁男氏は、「軍部は何かそこに光明がないと困るので、この戦死者を軍神に祀り上げ、さらなる戦意を鼓舞したのであり、その結果、藤田のこの画は戦意高揚を企図した教科書的な絵画となったのである」とされている。 8.○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943 : 初見。 「ニューギニア戦い」の詳細は、こちらに詳しいが、藤田が描いたのは、日本軍のポートモレスビー攻略の前線基地であったニューギニア島東岸のブナにおいて1942年11月~1943年1月に行われた連合軍との過酷な戦いであり、その詳細は以下のようである。 ポートモレスビー作戦の拠点とするため、1942年7月21日、日本軍がブナに上陸した。ここからポートモレスビー攻略部隊が出発したが、その作戦は失敗に終った。9.血戦ガダルカナル 1944: 再見。 太平洋戦争開戦後の緒戦の勝利のあと、将来の反攻拠点となりうるオーストラリアを孤立させる米豪遮断作戦が計画された。この作戦の遂行にあたって前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。しかし、アメリカ艦隊をおびき寄せるべく実行されたミッドウェー攻略作戦では、日本海軍は逆に主力空母4隻を失うこととなり、米豪遮断作戦の実施は一時中止されることとなった。 しかし、ソロモン諸島に航空基地を建設する必要を感じていた現地海軍部隊はガダルカナル島での飛行場建設を決定し、7月上旬から海軍設営隊約2600名が建設作業を行っていた。設営隊がこの地に赴いた当初、日本軍は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、当地においても戦闘能力のある人員は設営隊と海軍陸戦隊を合わせても600名足らずであった。 しかし、アメリカ軍は早くも7月4日以降ガダルカナル島への爆撃を開始し、8月7日早朝に上陸した。日本軍はアメリカ軍の攻撃に圧倒されて背後のジャングルに逃げ込み、完成間近の飛行場はアメリカ軍の手に落ちた。 その後日本軍の行ったガダルカナル島奪回作戦には、一木支隊2400人、川口支隊約4000人が、丸山師団(第二師団)20,000人以上が投入されたが、いずれも撃退された。 次に佐野師団(第三十八師団)がガダルカナルに派遣されたが、待ちかまえていた米艦隊との間で海戦(第三次ソロモン海戦)となった。この海戦で、日本軍は大きな打撃をこうむったため揚陸に成功した兵力は、兵員がわずか2000名、重火器はほとんど皆無、食料が4日分という惨状で、第三十八師団はとうとう米軍に対する攻撃すら行うことができなかった。 その後、大型輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦が夜陰に乗じて高速で島に接近し、細々と補給を行うことしかできない状況に陥った。このようにガダルカナル島での戦いはすでに日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、日本軍は撤退に向けて動き始めた。しかし、実際の撤退決定までは1ヶ月以上もの時間を要し、その間にも多くの将兵が餓死していった。 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31404人、うち撤退できたものは10652人、それ以前に負傷・後送された者740人、死者・行方不明者は約2万人強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5000人、残り約15000人は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。 一方、米軍の損害は、戦死約1000名、戦傷約4000名であった。国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。 藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」はこの戦闘の地獄絵である。藤田は、勝者と敗者との区別もつかないこの殺戮の場面を、歴史画家のまなざしで描ききっている。 藤田にとっては、レオナルドの素描やバチカンにあるラファエロ原案、ジュリオ・ロマーノ他の壁画《ミルウィウス橋の戦い》などのような虐殺画を描く絶好の機会であった。 藤田自身はまったく気付いていないことかもしれないがが、この画は「普通の人間が、相手を殺さなければ自分が殺される」という戦争の本質を伝える教材として活用できる可能性がある。 10.神兵の救出到る 1944: 再見。 大東亜戦争は、アジアの植民地解放を旗印として「聖戦」と呼ばれていたが、藤田のこの画の「神兵」はその象徴なのである。 11.大柿部隊の奮戦 1944: 初見。 「大柿部隊のバクリ付近の戦闘」については、こちらを参照されたい。 12.ブキテマの夜戦 1944: 初見。 藤田が参考にした可能性がある歴史画としては、ヨハニナのパーシャ・アリに夫を殺され、自分たちが辱めを受けることを恐れて崖の上から飛び降りる決心をした妻たちの姿を描いたルーブル美術館所蔵のアリ・シェフールの《スリオート族の女たち》が挙げられる。 藤田は、歴史画としての戦争画を実現しているのであり、この場合にも反戦画とはとてもいえない。同じ死者を描いても、ピカソの《ゲルニカ》が無差別空爆に対する抗議であったのに反し、藤田の《サイパン島同胞臣節を完うす》は非戦闘員の悲惨な自決に対する抗議ではなく、むしろその美化であった。 藤田は、軍部に守られ、観るものに感動を与えたいという画家としての願望に従って「戦争歴史画」を描き続けていたのである。 しかし敗戦間近のこの時期に至れば、犠牲を美化する軍部の考えに反発する厭戦的な心情が国民の間に支配的となっていたので、この画は国民感情から完全に乖離していた。 戦後、彼は戦争画を描いたことを由なく非難されたとして、日本を憎み続けていた。これは彼が多くの同胞を失った日本国民の心情を理解するに至らなかったからであろう。 「臣節を全うす」という題名に違和感を抱くのは私だけではあるまい。 14.薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945: 再見。 「薫空挺隊」とはレイテ島に強行着陸した日本空軍であるが、台湾の原住民(当時は高砂族と呼ばれた)が日本兵(高砂兵)となっていたことでも有名である。「薫空挺隊」のことは、こちらのサイト①、サイト②に詳しい。 非常に暗くて、一見何が描いてあるのか分からないが、よく見るとジャングルでの遊撃戦であることが分かる。目を凝らすと、恐ろしい状景が見えてくる。遠景に火が見えるが、これは突っ込んだ戦闘機が燃えているのだろうか。白襷の日本兵が1人こちらへ歩いてくる。。 ちなみに、この作品は昭和20年4月に東京都美術館で開かれた「戦争記録画展」に出展されている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2015-09-24 09:06
| 戦争画
|
ファン申請 |
||