米国の主な美術館には浮世絵を所蔵していることが多く、日本への里帰り展も何度も開かれている。フィラデルフィア美術館にも多数の浮世絵が所蔵されていることは、今回初めて知ったが、今年の夏は暑すぎるので出足が遅れ、後期だけを見ることになった。予想外に混んでいたので、会場ではさらっと見るだけとし、図録を購入して家でじっくりと読むこととした。
以下、後期あるいは通期の作品を中心に、お気に入り作品をあげていく。
第1章錦絵以前:浮世絵版画のはじまり: 浮世絵は、初め肉筆だったが、一般人が購入できるように、版画として売り出されるようになった。草創期の浮世絵版画は、墨板だけで摺られた「墨摺」だったが、やがて筆で彩色する「丹絵」・「紅絵」・「漆絵」が現れた。浮世絵版画を大量生産するために、板で着色する「紅摺絵」が考案された。紅摺絵が好評だったため、さらに色数が多い「錦絵」が誕生した。
・二代鳥居清倍《二代目市川団十郎の不破の伴左衛門と初代瀬川菊次郎のぶれいの一かく》享保19年(1734): 細判紅絵(漆絵)。衣装や紅葉に施された紅が美しく、羽織の膠入り墨彩の漆のような光沢が目立つ。
・二代鳥居清倍《今やうやくしゃふう》寛保(1741-44)期: 細判紅絵。筆彩色時代の珍しい大首絵。
第2章 錦絵の誕生:春信の浮世絵革命: 江戸時代は陰暦であったため、年によって、1ヶ月が30日の大の月と29日の小の月が変化した。そのため、その年の月の大小を知らせることが暦の最も重要な役割であった。明和2年(1765)、江戸の趣味人たちの間で、意匠を凝らした大小の絵暦の交換会が盛んに行われるようになった。これら絵暦の過半に関与したのが絵師の鈴木春信である。絵暦には紅摺絵より進んだ木版多色摺の技法が用いられたが、まもなく、それは錦のように美しい「錦絵」と命名されて一般に売り出された。錦絵は絵師だけではなく、彫師、摺師の技術が加わったものである。
・鈴木春信《若侍の身支度》明和2年(1765): 武士の左襟に「大二三五六八十」、右襟に「メイワ二」とある。裃の紋みは「大」、袖には白抜きの紋「乙酉」と干支が入っていることから、本作は明和2年の大の月を表した「絵暦」であることが分かる。
・鈴木春信《やつし芦葉達磨》 明和2-4年(1765-67)頃: 達磨が芦の葉に乗って水を分かって立っている状景を表している。
美人の衣の濃い紅、薄い紅、精緻な模様とこの部分だけでも3版以上が使われている。輪郭線に墨が用いられておらず(無線摺)、水面には墨線を用いずに凹凸を付けた部分があり(空摺、きめ出し)、背景の馬連跡も目立つ(ごま摺)。
・鈴木春信《夜の訪れ》明和4年(1767)頃: 留袖の年増の女性が戸を開くと、縁側には黒い袖頭巾を被った若侍が立っている。見立絵であるが、男性を曽我五郎と説や牛若丸とする説がある。
・鈴木春信《風俗四季哥仙 五月雨》: 梅雨の季節、雨が斜線で表され、竹の雨樋から水が流れ出ている。傘を開こうとしている子供と相合傘の二人は肩に手拭をかけているから銭湯への行き帰り。画中の雲形には「風俗四季哥仙 五月雨 ふりすさぶ とだへはあれど 五月雨の 雲は晴れ間も 見えぬ空かな」とある。
第3章 錦絵の展開:清長・歌麿・写楽-みずみずしい美人と個性的な役者たち 春信が描く女性たちは華奢で可憐で、決して生々しさを感じさせないが、錦絵の購買層が飛躍的に広がったことを受けて、描かれる人物たちは次第に現実的な雰囲気のものとなった。18世紀末には、八頭身美人の群像を得意とした「鳥居清長」、大首の美人画を考案した「喜多川歌麿」、デフォルメした役者大首絵を描いた「東洲斎写楽」など、浮世絵黄金期の到来であった。
・鳥居清長《吉原の花見 天明5年(1785): 吉原の遊女3人、扇屋の鳰照、松葉屋の哥姫、丁子屋の千山を中心に、振袖新造や禿の一行を描いている。中央で桜の枝に手を伸ばしているのは松葉屋の禿「このも」。足元に筥提灯があるので夜桜見物と分かる。
・初代喜多川歌麿《高名美人見立車引》寛政5年(1793)頃: 「菅原伝授手習鑑」の「車曳」の場面の見立絵。菅丞相(菅原道真)を陰謀によって左遷させた藤原時平(富本豊雛)の牛車を梅王丸(立花屋おたつ)と桜丸(高島おひさ)が襲うが、松王丸(難波屋おきた)に阻まれる場面。
・東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の江戸兵衛: 黒雲英が美しい。「恋女房染分手綱」の一場面で、江戸兵衛は凄味の利いた顔で威嚇し、開いた両手で大金を狙っている。
・東洲斎写楽 四代目岩井半四郎の重の井: これも黒雲英が美しい。「恋女房染分手綱」の「重の井子別れ」の場面。
第4章 錦絵の成熟:北斎・広重-旅への憧れ・花鳥への眼差し 19世紀の「化政文化」の時代、錦絵は更に成熟していく。「渓斎英泉」が描く美人たちには、現実感あふれる妖艶さが漂う。さらに天保期に入ると、美人画と役者絵が主流であった浮世絵に、風景画が加わった。「葛飾北斎」や「歌川広重」によってシリーズ版画も数多く刊行された。花鳥画・武者絵・戯画・風刺画など作品も多様化し、錦絵は爛熟の時を迎えた。
・葛飾北斎《富嶽三十六景 凱風快晴》天保元~3年(1830~32)頃: 線や絵具の状態から見て、比較的初期の摺りの「赤富士」。
・魚屋北渓《諸国名所 武蔵野》天保5‐6年(1834‐35)頃: 大きな月の中に雁の群れが下降している。馬に乗った三人の人物は向うの集落に向かっているようだ。「武蔵野は つきの入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ」という歌をイメージしている。
・岳亭《一陽連江戸名所見立十二支 戌 目黒》文政(1818‐30)後期: 摺物。目黒不動の瀧泉寺には、急な石段と独鈷の瀧があり、境内に犬の石像があるところから「戌」に関連付けている。「名物餅花」とは、餅を小さく丸め、彩色して細枝に付けたもの。
・初代歌川広重《東都名所 亀戸天満宮境内雪》天保3-5年(1832-34)頃: 亀戸天満宮の太鼓橋の雪景色だが、梅の枝に紅い花が咲いている。
第5章 上方の錦絵:流光斎・長秀-ありのままに描く 浮世絵の主流は江戸だったが、京都・大坂でも、土地の嗜好に合った独自の役者絵が生み出された。江戸と異なり、役者を美化せず、ありのままの姿に描かれた。大坂で錦絵が誕生するのは寛政3年(1791)、「流光斎如圭」による役者絵であった。それ以前は、着色したい部分に合わせて渋紙を切り抜き、上から刷毛で塗る「合羽摺」が用いられていた。江戸ではほとんど用いられなかった技法であるが、京都では19世紀に入っても制作され続けた。「有楽斎長秀」は合羽摺を最も多く手がけた絵師で、今日でも人気が高い。
・流光斎如圭《二代目助高屋高助の黒船忠右衛門》文化2年(1805)頃: 江戸役者の高助は、三代目市川八百蔵を名乗っていた寛政元年(1789)から大坂の舞台に立ち、翌年には江戸に戻っている。「黒船忠右衛門」は上方で馴染みの侠客で、頭巾と下駄がトレードマーク。
・有楽斎長秀《二代目沢村田之助のこし元千鳥》 文化4年(1807): 京都で上演された「ひらがな盛衰記」の通称「源太勘当」に取材。八角形の団扇絵で、合羽摺で着色。上方の「合羽摺」とは、渋を引いた厚紙を切抜いて、刷毛で絵の具を摺付けて作るもの。
今回の浮世絵展は「春信1番、写楽2番、長秀3番」だった。
美術散歩 管理人 とら
【参照1】
鈴木春信 @「東京国立博物館
【参照2】
写楽 @東京国立博物館