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![]() シャルフベックの回顧展を見るためである。 シャルフベック (1862-1946)はフィンランドを代表する女性画家ということだが、その作品を見るのは初めてである。 画家の画風が画家の生涯ととともに変わっていくことは当然であるが、84点の作品を見おわって、彼女の場合には特にその感が強いと思った。 シャルフベックは3歳の時に事故で左足が不自由になり、生涯杖を放せなくなっていた。 小学校に通えず、家庭教師から絵の才能を見出され、11歳でフィンランド芸術協会の素描学校に入学した。 1877-79年、アドルフ・フォン・ベッカーの画塾で学び、 1880年に描いた歴史画《雪の中の負傷兵》(↓)が、フィンランド芸術協会のコレクションとなり、これによって奨学金を得て、芸術の都・パリに赴き、官学のエコール・デ・ボザールが女性の入学を許さなかった時代だったので、私立のアカデミー・トレラとアカデミー・コラロッシで画を学んだ。 また、1883-94年には、ウィーン、サンクトペテルブルク、フィレンツェで古典絵画の模写を行い、自分の技術を磨いた。 ![]() ![]() ![]() ![]() そのショックからようやく立ち直った頃に描かれたのが《回復期》1888年で、病気から回復しつつある子供と自分自身を重ね合わせている。この作品は、1889年のパリ万博で銅メダルを獲得し、 シャルフベックは国際的な名声を手に入れることとなった。 ![]() ![]() ![]() この間も、国際的な美術雑誌を定期購読しており、トゥルク美術協会の展覧会にはしばしば出品していた。 1913年には、画商のヨースタ・ステンマンがシャルフベックから何点かの作品を直接購入し、生涯にわたるシャルフベックの支援者となった。 《赤いりんご》は、1915年の作品で、ヒュウヴィンガー近くで採れた林檎を描いた明るい画である。 ![]() 《未完成の自画像》1921年は、その時の作品で、顔面左側のはひっかき傷は彼女のフラストレーションの証しである。 ![]() 《アイトクーネから来た少女Ⅱ》1927年(↓左)の明るさと《諸島から来た女性》1929年(↓右)の暗さは対照的で、彼女の内心の明暗が表れているように思える。 ![]() 《天使断片(エル・グレコによる)》1928年は、シャルフベックが美術雑誌でエル・グレコの再評価を知って、そこに掲載されていた白黒写真の図版を基に描いた作品で、エル・グレコの模作というよりも彼女の「再解釈作品」の一つであるというべきものである。 ![]() そこで描いたのは、死に向かって衰えていく自分の自画像であった。 ![]() ![]() ![]() ある女性画家の「魂のまなざし」という展覧会の副題が正鵠を射ていることを確認した気持ちで会場を出た。 この日は、二つの展覧会をゆっくりと見たため、夕食は外で済ませることになった。東京文化会館内の精養軒フォレスティーユで頂いた「シーフード チーズ マカロニ グラタン」は結構美味だった。 帰りは「JR上野駅公園口」の側の坂を下って「銀座線上野駅」まで歩いたが、途中にいくつもある「バル」が若者で満員の盛況だったのにはいささか驚いた。 佳い「上野美術散歩」の半日だった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2015-07-07 00:44
| 国外アート
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