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これは、2015年1月4日に放送され、1月11日夜に再放送された番組のメモである。
ゲスト出演の傅益瑤女史は、中国から1980年に来日し、仏教や日本をテーマに作品を作り続けている水墨画家で、延暦寺国宝殿の壁に飾られている《仏教東漸》は彼女が制作したものとのことである。 室町時代に活躍した「雪舟等楊」は、わが国では画聖と呼ばれる水墨画の巨人だが、その雪舟が水墨画の本場である中国で最近注目されている。 2014年6月には、浙江省の杭州工商大学で「雪舟シンポジウム」が開かれ、多くの研究者や画家が「雪舟は、これからの中国やアジアの美術が発展していく上で非常に重要な存在」と評価した。中国水墨画の神髄を受け継ぎ、革新的な作品を生み出した雪舟を研究しようという機運が高まっているのである。 中国では、急速な経済成長の中、美術市場が活況を呈し、美術オークションでは「南宋水墨画」が高値をよんでおり、「趙孟頫」の水墨画が1億5000万円で落札されたりしている。 傅益瑤女史によれば、「中国の水墨画の歴史は文化大革命によって一時中断されていたが、最近になってその反動で水墨画の重要性が認識され、雪舟が注目されてきた」とのことである。 台湾で雪舟についての講演を行っている島尾新・学習院大学教授は、「雪舟は東アジアの絵画史の中に位置付けられる」という高い評価である。 1127年に建国された南宋では、杭州に都が置かれた。経済が潤うなか、皇帝が芸術を奨励したため、唐時代に始まった水墨画がこの時期最盛期を迎えた。南宋水墨画を代表する画家「夏珪」は、大胆に余白を使うことによって余情を醸し出すとともに、輪郭線を引かず墨でぼかす表現方法をとった。 この南宋は元に滅ぼされたため、南宋水墨画は散逸し、名品が日本にも辿り着いた。雪舟が「梁階」や「夏珪」(↓)の画を模写していたことは、これらの南宋画家と雪舟の二人の署名のある画が後年の画家・狩野常信によって再模写された作品として残っていることから分かる。なお、この狩野常信が模写した《流書手鑑》は東博蔵で、その12画像をこちらで見ることができる。 傅益瑤女史によれば、「雪舟の国宝《秋冬山水画》(↓)に描かれた天まで伸びる黒い線は、実際に描けば画面の外にまで出てしまうような非常に高い峯を描くことなく、観る者の想像に委ねるという手法であり、南宋画では見られない雪舟独自のものである」とのことである。 これに対して、雪舟が若き日に描いた《溌墨山水図》は(←)、細やかさとは程遠いもので、山は感情そのままに表現され、崖のたもとで禅問答にふける人物もさっと筆を走らせたような描き方である。 このような雪舟の画は都の好みに合わなかったので、35歳の雪舟は、周防の大内氏の誘いを受けて都から離れた。この地で殿様の肖像画や寺の仏画などを描いて過ごしていたのである。しかし雪舟のこの「都落ち」が、彼ににとっての大きな転機をもたらすこととなった。 1467年に、大内氏が仕立てた遣明船に、48歳の雪舟が同乗し、遣明使の一員として中国を訪れることになったからである。 片道1500Kmの「寧波―北京」(※)の長い船旅の間、雪舟は金山寺・揚子江・宝帯橋などのスケッチを丁寧に行い、伝雪舟《唐土勝景図巻》317mの大作を仕上げている(↓はその部分)。この絵は京博蔵で、こちらで25画像が見られる。 「戴進」の作品(←)を見た雪舟は、岩の表現が荒々しく、細かさよりもダイナミックな躍動感に溢れていることに気付いた。このような本場の画のほうが自分の画風に近いことを知ったことは、雪舟にとって大きな自信となった。 このことについて、島尾新・学習院大学は「その時、雪舟は "これだ!!!、本場の中国の画の方が自分の画に近い!!!" と思っただろう」と述べておられた。 北京にやって来た雪舟は大きな仕事を任された。中国で描いた雪舟の《四季山水図》(↓)を見た宮廷の人々がその腕に驚いて役所を飾る大作を依頼したのである。 【註】 松邨賀太著「日本留学生列伝」文芸社刊 p.179 によると、「依頼者は、明国政府高官・礼部尚書姚公。依頼内容は、科挙試験会場である北京礼部中堂の壁画制作。雪舟が描いたのは《龍図》。その出来栄えは、時の第九代皇帝憲宗に「稀代の珍宝」と云わせたほどだった」とのことである。雪舟が中国で制作した《四季山水図》には、「日本禅人等揚」という雪舟の署名がなされている(↓)。中国で描かれたこの作品は、現在は東博にあり、重要文化財に指定されている(参照)。 寧波(※)の天童寺の壁には、雪舟の肖像画が掛っているが、その右側には「天童第一座」という中国で得た称号が書かれており、左側には「日本画聖僧」と書かれている(↓)。 帰国後の雪舟は、九州や岐阜を旅した後に山口に庵を結んで、中国で学んだ成果を基にしながらも、独自の画風を探求して、数々の傑作を生み出していった。毛利博物館に残っている国宝《山水長巻》(↓)もその一つである(参照)。 その最初は「春の景」である。ここに描かれている人物は雪舟自身かもしれないし、これを見る我々かもしれない。いずれにせよ、その行く手には大きな岩、湿った空気に包まれた霧にかすむ家々、水辺の漁村の人々の暮らしなどが描かれている。次は「夏の景」で、舟に干した洗濯物、ゆらめく水面、静かな人々の暮らしが描かれており、次の「秋の景」では、山間の村にたつ市、カラフルな人物たち、薄く色付いた木々や岩が描かれている。「冬の景」としては静かな雪山が描かれ、最後は緑の松を描くことによって廻りくる「春の景」に繋げている。この《山水図巻》を見た汪永江・杭州工商大学教授は「雪舟は先人の技を受け継ぐだけでなく、自らの個性を打ち出している」と絶賛しておられた。 最後に登場したのは、雪舟が76歳になって描いた《破墨山水図》(↓)である。 なかなかの好番組だった。 美術散歩 管理人 とら 【※】 アナウンサーが「寧波」のことを慣用の「にんぽう、発音:ニンポー」ではなく、「ねいは」と読んでいたことに抵抗を感じた。ちなみに中国語「宁波」の発音は[Níngbō]であり、英語でも [Ningbo]と書いている。この伝でいくと、北京は慣用の「ぺきん」や英語の[Beijing]ではなく「ほくきょう」と読まねばならないことになってしまう。
by cardiacsurgery
| 2015-01-12 16:18
| 東洋アート
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