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外国美術館からのルネサンス関連の国内展覧会としては、ルーヴル美術館やエルミタージュ美術館のものは多いが、ウフィツィ美術館からのものは少ない。私の見たのは、2001年5月に国立西洋美術館で開かれた「イタリアル・ネサンス‐宮廷と都市の文化」展(絵画・工芸・写本など178点)、2004年1月に東京都美術館で見た「フィレンツェ‐芸術都市の誕生」展(絵画・彫刻・工芸など120点)の二つの他は、2010年10月に損保ジャパン東郷青児美術館で開かれていた「ウィフィツィ美術館自画像コレクション」展くらいのようである。前置きはさておき、数少ないウフィツィ美術館展なので、期待して初日に見に行ってきた。展覧会のサブタイトルは「黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅイーノまで」となっており、出展数は75点だが、72点が絵画で、その他の3点が綴織りであった。以前の図録を調べてみると、国内で開かれた前2回の展覧会で見ている作品は3点だけのようだった。 以下、例によって、章ごとにお気に入り作品をあげていく。 第1章 大工房時代のフィレンツェ: フィレンツェでは中世以来、美術家は組合に属し、工房を構えて作品を制作していた。とくに1470年以降のフィレンツェでは、従来の家族や親族による共同経営から、多くの徒弟、助手、共同制作者を抱えて、幅広い注文に応じる大工房が発展した。ヴェロッキオ工房、フィリッポ・リッピ工房、ボッティチェリ工房やペルジーノ工房がその好例である。1490年頃、フィレンツェで最も評判が高かった画家は、ボッチチェリ、フィリッピーノ・リッピ、ペルジーノ、ギルランダイオだったとのこと。・ギルランダイオ《聖ヤコブス、聖ステファヌス、聖ペテロ》1492-94年 アカデミア美術館: ・ペルジーノ《悲しみの聖母》1500年頃 ウフィツィ美術館: ・ボッティチェリの周辺《聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルとガブリエル》1485年以後 パラティーナ美術館: ・ボッティチェリ《聖母子と天使》1465年頃 捨て子養育院美術館: ・ボッティチェリ《ロッジャの聖母》1466-67年頃 ウフィツィ美術館: 開廊(ロッジャ)を舞台とした聖母子像。マリアの肩は「聖ベルナーディの文様」で飾られ、太陽光線を表す波線が取り巻いている。イエスの光輪には、赤い十字架が描きこまれ、放射状の波線も見える。額縁上部のルネッタには、聖霊を表す鳩が正面向きに描かれている。 ・フィリッピーノ・リッピに帰属《老人の肖像》1485年頃 ウフィツィ美術館: 第2章 激動のフィレンツェ、美術の黄金期の到来: 華麗なパトロネージを展開したメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニフィコの時代に、フィレンツェは黄金時代を迎えた。ロレンツォ・イル・マニフィコが1492年に没した後、メディチ家は外交政策の失敗により、1495年にフィレンツェから追放された。サン・マルコ寺院の聖ドメニコ会修道士だったサヴォナローラが、預言者的な行動で民衆を扇動し、政治に介入して、彼が俗悪とみなす書籍や絵画を焼却した。サヴォナローラの影響を受けたボッティチェリは、その後異教主題の作品を止め、激しく宗教感情をあらわにした宗教画を描くようになった。このサヴォナローラの過激な行動はローマ教皇の憤激を買い、1498年にシニョリーナ広場で処刑された。サヴォナローラの処刑後にサン・マルコ寺院の聖ドメニコ会修道士となったフラ・バルトロメオは、当時フィレンツェにいたラファエッロのやわらかな陰影表現や優美な様式を取り入れて「サン・マルコ派」を形成した。・ボッティチェリ《パラスとケンラウロス》1490-85年頃 ウフィツィ美術館: ・ボッティチェリ《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》1495-1500年 パラティーナ美術館: ・ボッティチェリ《東方三博士の礼拝》1490-1500年 ウフィツィ美術館: ・フラ・バルトロメオ《ボルキア》1490年代 ウフィツィ美術館: 第3章 「マニエラ・モデルナ(新時代様式)」の誕生: 16世紀初めのフィレンツェには、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロが滞在していたが、1508-06年にそれぞれミラノやローマに向かった。1480年代から1490年代にフィレンツェで生まれたアンドレア・デル・サルト、ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーナらは、これらの巨匠の滞在中のフィレンツェで青年期を過ごし、サヴォナローラの神権政治後のソデリーニの解放的な共和制の中で絵画技法を成熟させていった。彼らは「アヌンツィアータ派」と呼ばれ、初期のルネサンス様式が甘美・上品・優雅なイタリア様式であったのに対し、デューラー版画のドイツ様式やヘレニズム芸術の影響を受けた「新時代様式=マニエラ・モデルナ」(ヴァザーリ)を確立していった。ちなみに、ポントルモやロッソ・フィオレンティーナは、以前には「マンネリズム」と近縁のかなり否定的な意味合いを持つ「マニエリスム」という名称で呼ばれていたが、時代とともに再評価されてきているようであった。・アンドレア・デル・サルト《ピエタのキリスト》1525年 アカデミア美術館: ・ロッソ・フィオレンティーナ《男性の肖像》1512-15年 ウフィツィ美術館: アヌンツィアータ聖堂に描かれたロッソの壁画《聖母被昇天》における使徒たちの鼻の描写や聖ヒロエニムスとの類似がロッソへの帰属の根拠となっている作品。 15世紀から16世紀のフィレンツェ美術は、ロッレンツォ・イル・マニフィコらのメディチ家と深く結びついていた。16世紀に入り、メディチ家は不安定な政情の中で、フィレンツェからの追放と復帰を繰り返した。1537年にコジモ1世は公爵の称号を、1569年には大公の称号を授かり、君主に相応しいパトロネージを展開した。 宮廷画家ブロンズィーノを重用し、ヴァザーリに対してウフィツィ総合庁舎やヴェッキオ宮-ピッティ宮間の廻廊の建設を依頼したのはその最たるものである。コジモ1世の後を継いだフランチェスコ1世は、ウフィツィ美術館の原型となる八角形トリブーナと回廊ギャラリーを整備し、大公コレクションの展示に着手した。・ブロンズィーノ《公共の福祉の寓意》1565-70年 ウフィツィ美術館: ・メディチ家タピスリー製作所、ブロンヅィーノ下絵《春(プリマヴェーラ)》1546年 パラティーナ美術館: ・ヴァザーリ《無原罪の御宿りの寓意》1542年 ウフィツィ美術館: ヴァザーリの《無原罪のお宿りの寓意》は、ラフェエロの《キリストの変容》とほぼ同一の上下関係の構図を取っているが、これはバロックの巨匠ルーベンスの《聖母被昇天》にも繋がっていく構図である。 ・ヴァザーリに帰属《羊飼いの礼拝》1550年ごろ ウフィツィ美術館: ・アッローリ《受難の象徴をともなう嘆きの聖母》1581年 ウフィツィ美術館: フィレンツェにおける14世紀末の大工房の意義を強調し、15世紀の新しいマニエラに対する近年の再評価に光を当てた良い展覧会だった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2014-10-13 20:09
| ルネサンス
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