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これは、本日、2014年7月23日(水)午後7時30分~8時43分に放映された番組。とても良かったので、急いでメモを取った。
【補】 2014年9月6日(土)午後9時~10時29分にNHKザ・プレミアムで「圧巻!京都・祇園祭」が放映された。これは上記の番組の焼き直しのようなものだったが、前回には放映されなかった箇所もあったので、この記事に青字で追加した。 祇園祭には、33基の山や鉾と呼ばれる山車が出る。目を引くのは山鉾を飾る豪華絢爛な「懸装品」で、その多くは数百年前に海を渡って京都へやってきた東西の一級の美術品であり、祇園祭は「動く美術館」とも呼ばれている。 この番組は、7月23日の「宵山」の夜を生中継しながら、「山鉾の至宝」に秘められた謎を解いていくというもので、出演は、女優の栗山千明とアナウンサーの三宅民夫などであった。 ↓は、蛤御門の変で焼失したものを再建し、今回150年振りで巡行した「大船鉾」である。 1.鯉山鉾の欧州絵画タペストリー: 参考 ・まず登場したのは、「鯉山という名前の山鉾。左甚五郎作と伝えられる「鯉」の向こうに映っていたのは「御山四番」という番号が付いてたタペストリー。これはどうみても洋風のもの。このタペストリーはレプリカで、本物は町屋の奥まった部屋に展示されていた。これを見ると山鉾に付いていたものは、1枚の大きなタペストリーを9分割したものの一つだったということが分かる。 ・このタペストリーは1973年の京都奉行所の記録に「天竺織」と記載されているところから、江戸時代から残っているものだということが分かる↓。 ・この「鯉山」タペストリーの修復時に、周りの赤羅紗を外すと、”BB“という文字が出てきた。これはブリュッセル-ブラバントの頭文字↓。 ・ベルギー王立歴史博物館のベルナルド氏の意見では、タペストリーの縁飾りの構図は、①鳥(空)、②動物(大地)、③古代の神と魚(海)であることから、1600-1620年代に作られたものであり、図像的には「トロイア戦争」がテーマであるとのこと。氏は、さらに一歩踏み込んで、これは5枚連作の1枚と考えられ、他の4枚とともに日本に渡っているのではないかとの考えを表明された。 また、このタペストリーでは縁が切れているため作者名が入っていないが、作風からみてニカシウス・アエルツ(~1627)が制作したものに間違いないと鑑定された。 この写真によって、増上寺にあったタペストリーは祇園祭の鯉山と類似のテーマであったことが判明した。 ・石川県に残っているタペストリーは加賀前田家所蔵のもので、これは徳川家から下賜されたものと考えられる。 【追記】 このタペストリー(タピスリー)に関する最近の情報をこの文章の文末に赤字で補足した。 ・京都祇園祭のもう1枚のタペストリーは「鶏鉾」に付いているが、これには切断して補修した痕跡があり、その切断された相手は滋賀県の長浜曳山祭の山車に使われている。こちらにも切断して補修した痕跡が残っていて、補修部を取り除いて両者を重ねてみると、ピッタリと符合することが判明した。すなわち、この2つは元来1枚のタペストリーだったのであるが、なぜか一方は京都の祇園祭に、他方は長浜の曳山祭に使われているのである↓。 また、大津に残っている文書には、京都の豪商「三井本店」すなわち越後屋の名前があり、三井文庫収蔵の文書では、「紀州徳川家」に34万両(200億円以上)の「貸方」があることになっている。ちなみに、京都では「三井家」と「伊藤屋」は通りを挟んで向かい合っていた。 ・こうやって見ると、オランダから徳川幕府に渡った5枚のタペストリーが、増上寺・加賀藩・尾張藩・紀州藩などに移り、さらに一部のタペストリーは借財を背負っていた藩から京の町衆へと流れたという道筋がおぼろげに見えてくる。 2.南観音山鉾や月鉾のタペストリー: 参考① 参考② ・南観音山鉾の前懸「中東連花葉文様」は17世紀ペルシャ・サファヴィー朝の王侯貴族のために織られた下地に金銀を入れた絨毯である。 この前懸は、退色が著しかったため、今回山形県山辺町のオリエンタルカーペットの職人たちによって復元された。職人たちは、現代よりもはるかに精緻な織り方で作られていたことに感嘆したと話していた。 ・話は安土桃山時代に飛ぶ。「洛中洛外図」の中の南蛮寺の西の本能寺辺りに、虎の皮を袴に付けた織田信長が現れ、「虎の皮」を付けた山鉾を指しているというアニメが出てきた。 4.江戸時代の町衆: ・ここで話は江戸時代中期に飛ぶ。まずは「三井家」の話。三井家では、55万両もの金を大名たちに貸し付けていた。町衆は単に金持ちというだけでは京都では尊敬を受けず、「目利き」であることが要求されており、祇園祭の山鉾に対する目配りもその一つだった。 ・呉服商の「西村家」では、「開物成務」という家訓があり、新しいものへの目配りが必要とされていた。 ・「鶏鉾」や「船鉾」は現在の価格に直すと数千万円もしていたが、上記のような町衆の今日でいう「メセナ」のような気持ちから出たお金で支払われていたようである。 5.長刀鉾のタぺストリー: 参考 ・ここで、話は現代に戻り、長刀鉾のタぺストリーに関する奇跡の物語となった。 ・大きな星模様の絨毯は、ヤン・ステーンの《アントニオとクレオパトラの宴》の足元に描かれているが、この模様のタペストリーは、当時、オランダの商社によってイスラム圏から輸入されていたもので、現存はしていないものと考えられていた。 ・幻の絨毯が祇園祭の長刀鉾の懸装品として残っていたことが偶然に見つかった。 メトロポリタン美術館の梶谷宣子研究員が京都で撮影した山鉾の写真の中にこれが写っており、これを見たメトロポリタン美術館の専門家が、「これは世界中で探してい幻のタペストリーである」と指摘したのである。 欧州ではタペストリーは日常品だったため捨てられていたが、日本では美術品として扱われたので、文化のタイムカプセルとして残ったのである。 この幻のタペストリーは何時、何処で制作されたかということについての調査が進められている。長刀鉾のタペストリーは2点の対作品であるが、一方には中央に梅の樹が、他方には中央に幾何学文様が描かれ、両者ともにその周辺は幾何学文様となっている。色彩は地味で赤は使われておらず、触るとゴワゴワとしている。 ・メトロポリタン美術館の元アジア美術部長ジェームス・ワット氏によると、周囲の幾何学模様は古いアラビア文字である「クーフィー体」であり、絵は中国のものらしいということである。これによって、モンゴル帝国によってイスラム文化圏と中国文化圏が交流した時代のものであるという可能性が大きくなった。 ・さらに、ロンドンの絨毯専門誌発行者・エバレス氏は、チベットでこれと類似のタペストリーを発見しており(↓右)、こちらは炭素の同位元素測定によって、制作年代は13世紀ないし15世紀末であると判明した。 【追記1】金沢美術工芸大学卒業論文要旨: 野口真季「江戸時代初期に渡来した連作タピスリー―トロイア戦争に関連する主題の考察」(論文要旨全文) 財団法人前田育徳会が所蔵し、現在は石川県立美術館に寄託されているタピスリーは、連作のタピスリー の中で唯一使用されず秘蔵されてきたため、完全な形で保存されている貴重な作例である。このタピス リーの外縁の左下には「B・B」のイニシャルのマーク が織り込まれており、この「B・B 」はブラバント (Brabant)(現ベルギー)のブリュッセル(Bruxelles)で 織られたことを示すと同時に、高品質の保証を意味す るものである。また、同じく外縁の右下にある「AERTS」 を意味するモノグラムから、ニカシウス・(ニケイズ)アエルツ[Nicasius (Nicaise) Aerts] (?-1627)とい うブリュッセルの大手名門織場出身の職人によって制作されたことが判明している。「B・B」のイニシャルは、 祇園会の鯉山懸装品であるタピスリーにも見られ、一 連のタピスリーが連作であることや渡来の経緯に関 して、重要な手掛かりとなりうるものである。 【追記2】 「加賀前田家百万石のの名宝」展 2015年4月24日~6月7日 2015年6月まで石川県立美術館で開かれていた「加賀前田家百万石の名宝」展に、上記のタピスリーが重文『アエネアス物語図毛綴壁掛』ニカシウス・アエルツ作として出展されていた(出品リスト)。
by cardiacsurgery
| 2014-07-23 23:14
| 映画・写真
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