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マネの《ロシュフォールの逃亡》は、今回の展覧会の掉尾を飾っているものであるが、2007年のオルセー展@東京都美術館以来の再見である。
マネは、1864年に、南北戦争中にブーローニューの冲で北軍のケアルサージュ号が南軍のアラバマ号を沈没させた海戦図《ケアルサージュとアラバマの戦い》1864年 フィラデルフィア美術館蔵↓を描いているが、マネはこのような同時代的主題の海戦図も歴史画とみなすことが出来ると考えていたようである。 彼は1871年に起こったパリ・コミューンでも一定の役割をはたしていたため、1873年にニューカレドニアに国外追放となった。 彼は、1874年に、4人の仲間とともに月夜に小舟を使ってここから脱出し、オーストラリアの船で米国に渡った。下の二つの画は、その脱出時の状景である。 マネは6年後の1879年1月に、上下院で共和派が多数を占め、1880年7月に大赦が発令され、ロシュフォールがパリに戻ってきた時を待って、彼に関わる3点の作品の制作を開始した。 モネがマラルメに1880年12月に書き送った手紙には、「マネの体調は良さそうだった。サロンで物議を醸しそうな作品を計画してえらく忙しそうだった。一面の海に浮かぶボートに乗って逃亡するロシュフォールの画だ」と記されている。 同じ1881年に、マネは《ロシュフォールの肖像》ハンブルグ美術館蔵 を描いている↓。 Juliet Wilson-Bareau 編集の’Manet by Himself’ を読むと、1883年1月1日にこの’Rochefort’ は他の4点のマネの作品とともにマネのコレクターであるフォール(バリトン歌手、Faure)に11000フランで売却されている。 これに対して、2点の《ロシュフォールの逃亡》は、最後までマネの手元に置かれていたという。 歴史画を最高位に置くサロンのアカデミズムから長年にわたって差別的な扱いを受け続けていたマネとしては、古代の物語や神話に限られていた今までの歴史画を人々の記憶に残っている最近のテーマに拡張することに成功したことを最高の誇りとしていたのであろう。 以上は、アカデミズムの守旧派と生涯対決していたマネの苦闘の掉尾を飾る物語である。 彼の傑作を落選させてきたサロンの審査員たちは、この作品をマネからの痛烈なリベンジと感じたであろうか。あるいはそうとは感じないほどに不感症に陥っていたのであろうか。 蛇足であるが、共和派の代表者だったロシュフォールは、マネの死後には変節してナショナリストとなり、ドレフュス事件の際には反ユダヤ主義を標榜するようになったのだから皮肉なものである。 美術散歩 管理人 とら 【参照】 ・第1報 モネ《草上の昼食》 ・第2報 バジール《家族の集い》 ・第3報 マネ《ロシュフォールの逃亡》
by cardiacsurgery
| 2014-07-20 13:01
| 印象派
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