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裕福なブルジョワ階級の家に生まれたフレデリック・バジール(1841-70)は貧窮に悩むパリに住む印象派の画家たちを支援していたことで有名であるが、バジール自身もパリに素晴らしいアトリエを持っていた。
ただし、バジールは休暇には必ず南仏モンペリエの実家に戻って制作していた。1867年の夏もバジールはモンペエリエ近郊の一家の別荘で過ごした。この別荘には見晴らしの良いテラスがあり、母カミーユと叔母アドリエンヌ・デ・ウールを中心に家族が集まり、マロニエの木陰で夏を過ごす場所となっていた。 ![]() ![]() この画に先立つ1865年と1866年には、バジールのパリのアトリエを使用していたモネが、前報に記したように《草上の昼食》と《庭の女たち》という「戸外人物画」の大作に取り組んでいた。バジールは《草上の昼食》においてモデルを務めており、サロンに落選した《庭の女たち》を購入して所有していた。バジールのこれらのモネの作品についての経験と知識が、自分の「集団肖像画」を戸外で制作することへの示唆となったものと思われる。 この作品は、モネの作品のような光の生み出す効果には無頓着で、人体の堅牢な表現と画面構成に集中しており、全体に固い感じがする。モネの《庭の女たち》やバジール自身の《メリクのテラス》(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)が1867年のサロンで落選し、本作品が1868年のサロンに入選したことは、このような画面効果と関係があると考えられている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() すなわち、バジールはマネの指導下で新しい絵画の創造を目指し、アカデミズムに対抗しているモネやルノワールらのグループに属していたのである。 残念ながら、バジールは普仏戦争に志願し、1870年、29歳の若さで戦死した。もしバジールがもう少し長生きしていたら、モネたちとともにに印象派絵画を描き、1874年の第1回く印象派展に出品していたであろうか。 「歴史は元には戻らない」という当然至極の物語である。 美術散歩 管理人 とら 【参照】 ・第1報 モネ《草上の昼食》 ・第2報 バジール《家族の集い》 ・第3報 マネ《ロシュフォールの逃亡》
by cardiacsurgery
| 2014-07-19 13:21
| 印象派
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