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これは、1月24日のこと。厳寒から暖冬へと早変わりして快適な美術散歩だった。ちなみに、前期の「観山展」のブログ記事はこちら。
第1章: 狩野派の修行: 下村観山(1873-1930)は幼い頃から狩野芳崖に狩野派の絵を学んでおり、今回の展覧会に出ている10歳で描いた紙本墨画の《東方朔》や11歳の頃に描かれた《騎虎鐘馗》という紙本彩色の画稿を再見した。 後期には14歳の時に描いた《鷹の図》↓が登場していたが、もう一人前の作品である。子鷹も描かれていた。 ![]() 第2章: 東京美術学校から初期日本美術院: 1889年、観山は大観らとともに東京美術学校の第1期生として入学し、翌年2代目校長として着任した岡倉天心の薫陶を受けた。 1894年の卒業制作《熊野観花》↓には、平宗盛の愛妾・熊野が病母に面会することを許されず、落胆して牛車を下りるところが描かれている。これは、2014年1月15日~2月11日の期間限定展示だったので、見られたのは僥倖だった。 ![]() ![]() 滋賀県立近代美術館蔵の《鵜鴎図》の波濤、東京芸大蔵《納涼》の影絵のような表現、水野美術館蔵の《宇治山》の鹿が印象に残った。 第3章: ヨーロッパ留学と文展: 1901年、観山は美術学校に教授として復帰し、その2年後に渡欧して西洋画の研究や模写を行っている。 大英博物館にある模写を写したとされるラファエロの《椅子の聖母》、ウフィーツィ美術館で写した《まひわの聖母》の模写、ミレイの《ナイト・エラント》の模写は再見。 後期に登場したのは、ギリシャの哲学者《ダイオゼニス》東京、近美蔵と貼付屏風《椅子の聖母子・巖上の鵜》東博蔵。 一方、1903年、日本美術院の活動は経済的に立ちゆかなくなり、観山の帰国翌年の1906年には五浦に拠点を移すことなり、観山は大観、春草、木村武山とともに五浦に移住した。 1907年に設立された文展で高い評価を得た《木の間の秋》が後期に出ていた↓。これは五浦の雑木林に取材した風景画であるが、濃彩で、空気遠近法が巧く使われていた。 ![]() 《大原御幸》東京近美蔵は後期に登場したのであるが、後白河法皇の姿の部分だけが広げられており、賢礼門院の姿のところが見られなかったのは残念だった。置いてあった図録には両者が載っていたが、本物を見に来ているのだからこれではちょっと困るのだが、以前に近美でも見ているし(ブログ)、画像はこちらで見られるので良しとしよう。 今回の展覧会の大目玉である《小倉山》は前期より続いて出ており、再見を楽しんだ。同行した家内に小さく描かれているリスの位置を教えた。 東博蔵の《魔障》は、一部に金が使われているがほぼ白描で、お化けゾロゾロの面白い画だった(参照)。 東近美蔵の《唐茄子畑》の唐茄子とはカボチャのことだが、現在は南瓜と書くので分かりにくい。《鵜と猫》とも呼ばれるとされていたが、それも片手落ちである。実際は、右隻に鵜と立葵、左隻に猫と南瓜が描かれた余白のある金地の屏風だった。画像はこちら。 第4章: 再興日本美術院: 1914年、文展に不満を持った大観や観山らは、前年に天心が歿したことを契機にその意志を引き継ぎ、東京で日本美術院を再興した。翌年の天心の一周忌に開院式が行われ、第1 回再興院展が開催された。 この第1回展に観山が出展した《白狐》や第2 回展に出展した大画面の《弱法師》東博蔵は後期には見られなかったが、代わりに双幅の《弱法師》横美蔵を再見することができた。 ![]() その後、観山は次第に地味な宋元の道釋画などに傾いていった。 ![]() 青の馬に白の車を挽かせて、老子は幽かに坐つてゐた。はてしもない旅ではある、無心にして無為、飄々として滞らぬ心、函谷関へと近づいて来た。ああ、人家が見える、馭者は思はず車を早めたが、何をいそぐぞ徐甲よと、老子の微笑は幽かであつた。相も変らぬ山と水、深い空には昼の星、道家の瞳は幽かであつた。《竹林七賢》茨城近美蔵は金屏風。 わが子・捨(鶴松)を抱く《豊太閤》東博蔵↓。 ![]() 最後に前田青邨の《下村観山居士像》が出てきた。上部に経文、下部に死の床に横たわる観山の上半身が描かれていた。合掌。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2014-01-24 23:17
| 近代日本美術
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