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これは、1月4日 18:00〜20:30に放映された長時間番組の視聴メモ。
司会は久保田祐佳さん、プレゼンターは高橋克己さん、ゲスト出演者としては片岡鶴太郎さん、鶴田真由さん、松村邦洋さんの他に、平井聖・昭和女子大学特任教授などの専門家も登場していた。 幕末に焼失した江戸城本丸御殿の高精細3DCGによる復元プロジェクトが話題の中心である。 以前に見た「江戸城 本丸御殿と天守」@東京国立博物館 ミュージアムシアター(東京都江戸東京博物館・凸版印刷株式会社制作)↓もこれと同じテーマだったが、今回の復元映像はそれからどの程度進化したものなのかということに興味を持って視聴した。 ![]() Ⅰ.建造復元までの道のり 東京都中央図書館所蔵の600点以上の「甲良家伝来 江戸城造営関係資料」の中に、3.6X5.1m(11畳分)の1/65縮尺の図面も残っている。今回使われた図面は1860年に最後に再建された際の平面図ならびに立面図、合計377枚である。これを現代の建築図面に書き落として、今回のプロジェクトで使用された。 Ⅱ.障壁画復元までの道のり 東京国立博物館所蔵の狩野派絵師によって描かれた264巻の「伺下絵」を基に復元作業が行われた。↓は大広間の伺下絵。 ![]() ![]() ![]() また、襖の引手、違い棚の散(ちらし)、御簾の吊金具まで現存しているものを参考に再現した。 Ⅲ.再現された本丸御殿 1.表玄関: 大名や朝廷の使者が通る玄関。その他に、身分によって使用される中之口や納戸口、御三家専用の風呂屋口がある。表玄関は、高さ9.8m、屋根幅16.6m、柱一辺33cm・周囲1.3m。 2. 虎の間: 玄関を入って左折した広い廊下の突き当りを右折した先が「虎の間」。金箔の襖に7頭の虎と竹が描かれている。虎は武威の象徴で、暗い部屋なので虎がより不気味に見える。 3.大広間: 長さ60m、約500畳で、千畳敷の半分の広さである。大広間は、段差がそれぞれ21cmもある上段之間、中段之間、下段之間からなっており、近くには二之間、三之間、四之間もある。 大広間「上段之間」の障壁画は高さ4mで、広がった枝の長さが12mに達する巨大な常緑の松と長寿の象徴である鶴が何羽も描かれ、徳川幕府が未来永劫に続くことが祈念されている↓。ここには、釘隠しも再現されている。 ![]() この辺のことは上述のトーハクの映像でも見ているので、それほど新鮮味はなかった。 段差を作ったため、床下のスペースが広くなり、安全面を考慮して、上段の床板は厚さ35cmの二重構造としていた。ちなみに、中・下段の床板は厚さ14cmの一枚構造だった。 ここでは、年賀の挨拶(立礼)が行われ、将軍は立ったまま「いずれも目出度い」という短い挨拶をするだけだったが、その間お目見えの大名たちは中段、下段、廊下で将軍の顔を見ることもなくひれ伏していた。 将軍と一対一で面会することは「独礼」といわれるが、その際、伊達家は下段の後ろから二枚目の畳、毛利家は下段の一番後ろの畳、南部家に至っては廊下に坐ることとされていた。伊達家の場合には、将軍の「それへ!」との言葉に対して、膝行して前進するが、南部家の場合には、将軍が「これへ!」との言葉を発した場合でも、身体を揺らすだけというしきたりとなっていた。 大名たちは「懐中図」という江戸城内の地図を携行して粗相のないようにしていた。 4.松の廊下: 全長55m、ほぼ五重塔の高さに匹敵する。ここの障壁画には、100本近くの松、金色の雲、千鳥が描かれている。その突き当りは「白書院」である。松の廊下の外側の障子や板戸は締切りで、上の明かり取りからの自然光も屋根でさえぎられており、昼でも暗かった。 元禄赤穂事件の浅野内匠頭はこの暗さを利用して、上野介の背後1.5mに近づき、背後から一太刀、顔面に一太刀、さらに二太刀、短い殿中刀で斬りつけたのである。その日の江戸の天気は曇りあるいは小雨と推定されており、なおさら暗かったのだろう。 この「松の廊下」の復元映像はトーハクでも見ているが、今回、その暗さが映像で実際に表現されていたことはひとつの進歩であると思った。 5.黒書院: ここも挨拶を受ける場所である。ただし、将軍との距離は大広間にくらべると近い。室内装飾は、墨画の山水・花鳥の押絵であり、金をあしらってはいるが、落ち着いた空間に仕立てられている。 6.中奥: ここからは将軍の生活空間である。「御休息之間」には、金沢八景(野島)・江の島・富士山などの名所絵が描かれており、一人こもって将軍が考える「中奥小座敷」にはごくわずかの装飾しかない。 7.大奥: 入口の扉は内部から閉まっており、入口の紐を引くことによって、40m先の詰所の鈴を鳴らして開けてもらう仕組みである。 ここの「対面所」は、前将軍の正室・天璋院(篤姫)が皇女・和宮の上座に座布団を敷いて坐ったことで有名である。ここは、月の宴など平安貴族の華やかな画で飾られている。 「大奥小座敷」は、将軍がくつろぐ場所。将軍のお相手がオネダリなどすることのないよう、この寝所の両隣りには「お添い寝役」が不寝番をしていた。 最近、大奥には、男性用の厠が三か所もあり、将軍の大奥滞在時間が意外に長かったのではないかと推察されている。 大名や役人の願いは正式には「表」の「老中」を通してなされたが、個人的な願い(内願)は「奥」の「老女」を通してなされた。また、大奥は、当時の女性の知的レベルの向上に役立っていた。 Ⅳ.江戸城と現代の東京 ・大手門: ここで下馬して主人が城内に伺候している間、待ちくたびれている下僕たちがする話を「下馬評」といい、大きい「大手門」から「大手企業」という言葉も派生した。中の門跡の石には「切り込みはぎ」が付いており、巨石が隙間なく積まれている。百人番所は、警備のため。 ・本丸御殿跡: 松の廊下跡の石碑が見られる。また、加賀藩が瀬戸内から取り寄せた美しい花崗岩で作った44.8mの日本一の天守台の石垣が残っている。石の表面には「すだれ」が見られ、「亀甲積み」や「角の石材に色の異なる石を使ってアクセント」をつけた跡を見ることができる。 ・江戸城が残した遺産: 内堀・外堀・運河は、現在の周回道路、高速道路などに役立っており、武家屋敷跡も東京国際フォーラム(土佐藩)・上智大学(尾張藩)・六本木ヒルズ(長府藩)・東京大学(加賀藩)・国会議事堂(彦根藩)として有効活用されている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2014-01-05 00:07
| 国内アート
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