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これは岡倉天心生誕150年・没後100年記念展ということになっている。
![]() しかし、私としては、最近の「江戸の狩野派」展と「狩野派と橋本雅邦そして日本画」展の続きとしての「下村観山」展を見に行ったつもりだった。 今回の展覧会の展示リストは、作品名・所蔵先・展示期間だけしか書かれていないものだったので、制作年・形状・技法については会場でメモするしかなかった。 また、展示期間が通期・前期・後期だけでなく、さらに細分されていて、全作品を見ることはたいていの観客にとっては不可能のように思われた。 以下、4章に分けられた章別に作品を見ていく。 第1章: 狩野派の修行 下村観山(1873-1930)は幼い頃から狩野芳崖に狩野派の絵を学んでおり、今回の展覧会にも1883年に10歳で描いた紙本墨画の《東方朔》が出ていた。これは狩野派の粉本を模したものだが、10歳とは思えぬ成熟した描き方である。この画には芳崖から与えられた「北心斎」の号が付されている。 虎に跨る鍾馗様を描いた《騎虎鐘馗》↓という紙本彩色の画稿は、1884年の作であるから11歳の頃に描かれたものであるが、既に「懸腕直筆」で(筆を垂直に持ち、腕や肘を机から離してあげ、さらに 肘を脇から離して)見事な線を描いている。 ![]() 第2章: 東京美術学校から初期日本美術院 1889年、観山は大観らとともに東京美術学校の第1期生として入学し、翌年2代目校長として着任した岡倉天心の薫陶を受けた。 「観山」の画号は、美術学校入学の頃に使い始めたとされおり、この年に《信実 三十六歌仙絵巻》佐竹本の模写を行っている。 美術学校では、再び狩野派の筆法の修練から始めたようであるが、紙本彩色の《観音菩薩半跏像》や紙本墨画の《文殊之獅子座 模写》は穏やかな色彩と卓抜した線描で描かれている。 1890年制作の紙本彩色の《雨の芭蕉》に留まる5羽の雀や1892年の《辻説法》↓の日蓮にも見るべきものがある。 ![]() 観山は1894年の卒業後、ただちに助教授に抜擢されているが、助教授時代に日本絵画協会第1回絵画共進会に出品した《仏誕》も同期間の出展とのこと。 ![]() ここでは、当時の観山が大観や春草とともに取り組んでいた空気や光線などを表すため、輪郭線を用いずにぼかしを伴う描写を用いた朦朧体の技法を基本として描かれている。 1898年、美術学校内の確執によって天心は校長の職を追われ、観山は天心に殉じて、大観や春草らとともに美術学校を去り、天心や大観、春草たちと「日本美術院」を創設した。 今回、観山が第1 回日本美術院展に出品した《闍維》↓を見ることができた。 ![]() 観山は、一方で朦朧体を実験的に試みるかたわら、このような古典的な傾向の作品も制作するという堅実な制作態度をとっていたのである。 第3章: ヨーロッパ留学と文展 1901年、観山は美術学校に教授として復帰し、その2年後に渡欧して西洋画の研究や模写を行っている。 ![]() 一方、1903年、日本美術院の活動は経済的に立ちゆかなくなり、観山の帰国翌年の1906年には五浦に拠点を移すことなり、観山は大観、春草、木村武山とともに五浦に移住した。 1907年に文展が設立されると、五浦の雑木林に取材した《木の間の秋》を出品して高い評価を得たが、この作品は後期の出展となる。 また、文展の開催に伴って、新派の「国画玉成会」が天心を会長として設立されると、明治41年の第1回展に《大原御幸》を、翌年の研究会展に1909年の「国画玉成会研究会」に《小倉山》を出品した。 この《小倉山》は、横浜美術館が誇る観山の古典研究の代表的成果で、今回の展覧会のメインビジュアルとなっている。両隻の水平線がずれている不思議な構図である。右隻に描かれた人物の視線を意識したのだろうか。 ![]() ![]() さらに、「小倉山」というのは、この美術館のカフェの名称となっている。見終ってから、ここでココアを飲んだ↓。 ![]() 1913年末、観山は実業家・原三溪の招きにより、横浜本牧の和田山に新居を設け、それ以降、三溪の支援のもとで制作した。 1914年、文展に不満を持った大観や観山らは、前年に天心が歿したことを契機にその意志を引き継ぎ、東京で日本美術院を再興した。 この際、観山は文展審査員を辞して、在野を貫く決意を示した。 再興日本美術院の創立同人には、他に木村武山、安田靫彦、 今村紫紅、小杉未醒(放菴)がいた。 翌年の天心の一周忌に開院式が行われ、第1 回再興院展が開催された。 観山は《白狐》(1914年、第1回展)↓や《弱法師》(1915年、第2 回展)↓↓といった高い精神性に満ちた大画面を制作・出品して、その芸術の頂点を極めたのである。 ![]() ![]() この作品では、彼岸の中日に、摂津の四天王寺で、西に沈む太陽を拝して、極楽浄土を観想している俊徳丸の姿が描かれている。これが父と再会する機縁となった。 その後、観山は次第に地味な宋元の道釋画などに傾いていき、天心に似た道士の姿はマンネリでちょっと飽きるが、以下はその時代でのお気に入り作品である。 ・帰去来 1916年 水野美術館蔵↓ ![]() ・酔李白 1918年 北野美術館蔵 ![]() ・獅子図屏風 1918年 水野美術館蔵↓ ![]() ・張果老 1921年 横浜美術館蔵↓ ![]() ・老松白藤図 1921年 山種美術館↓ ![]() ・魚籃観音 1928年 西中山妙福寺蔵↓ ![]() 三人の男と犬を周到に配した三幅対であるが、魚籃観音の顔を留学中に模写したレオナルドの《モナ・リザ》の容貌を下敷きとしたことが、当時議論を巻き起こしたとのことである。 一人の画家の回顧展は、一人の画家の人生を追い掛ける展覧会であり、それなりに勉強になる。今回もその例外ではなかった。 また、狩野派の遺伝子が芳崖・雅邦・観山と連なっていく美術史の流れもよく理解できた。 美術散歩 管理人 とら 【追記】 後期のブログ記事はこちら。
by cardiacsurgery
| 2013-12-14 16:25
| 江戸絵画(浮世絵以外)
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