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8月に入って異常な猛暑が続いているので、「美術散歩」はほとんど中止状態で、TVでの高校野球観戦と美術番組鑑賞で熱中症をクリアしている。
この記事は、2013年8月4日朝に放送された「日曜美術館」のメモである。 番組は、品のある老紳士があるアトリエのベルを押すところから始まる。紳士の名前は銅版画家・中林忠良氏(1937年生れ)、熊本のアトリエの住人は版画家・彫刻家の浜田知明氏(1917年生れ)である。以下、敬称略とさせていただく。 中林忠良の銅版画が自宅に一点ある。その経緯については、大分前にHPに書いた(こちら)。 一方、浜田の有名な銅版画《少年兵哀歌》などは今までにも見ており、HPやブログにも書いている(①、②、③、④、⑤)。 まずは、浜田知明が外国でも評価されている作家であることの証しとして、アルベルティーナ、大英博物館、ウフィツイなどで開かれた個展のポスターが出てきた。 ウフィツイの個展(Chimei Harada The donation to the Department of Prints and Drawings of the Uffizi December 14, 2007-January 27, 2008)についてはネットにも載っている。 また、ごく最近MoMAで開かれた展覧会(Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde November 18, 2012–February 25, 2013)にも浜田の作品が出展されていたとのことである。 1937年の日中戦争勃発により、浜田は中国北部山西省に出陣することになる。1939年、東京美術学校を卒業して入隊したばかりの浜田の写真が出てきた。凛々しい青年である。 ここでの経験をもとに戦後に制作された「初年兵シリーズ」が以下のように何点も紹介された。画像へはリンクを張っておいた。 ・初年兵哀歌 (銃架のかげ) 1951: 描かれたイモムシは初年兵。ピンで留められている。1944年にこのイモムシを描いたスケッチが出てきたので、浜田は戦時中から準備していたことが分かった。 ・初年兵哀歌 (歩哨) 1951: 一見シュールな画の中をよく見ると首つり死体がぶら下がっている。だまし絵的である。 ・初年兵哀歌 (ぐにゃぐにゃとした太陽がのぼる) 1952: 空には巨大な太陽。地には人馬が進む。軍歌「麦と兵隊」を想起させる状景である。 中林忠良が訊く。「戦後の4年間に30数点も制作した動機は何だったのですか。」 浜田答えて曰く。「これが日本軍が中国でやっていたことである。すべての矛盾が初年兵に乗っかっており、事あるごとに理屈抜きで殴られた。兵隊は人間扱いされず、イモムシみたいに扱われた。とにかく、自由がないことがやりきれなかった。」 ・初年兵哀歌 (歩哨) 1954: 銃を首に当て、足で引き金を引かんとする初年兵。その眼から一筋の涙がこぼれている。番組の中で、浜田は次のように語っている。 隣りの中隊の兵隊が自殺した。そこで自分でポーズをとってみた。あれは自画像です。・初年兵哀歌-風景 (一隅) 1954: 民家の前に死体が散乱している。これが戦争の実態! ・初年兵哀歌 (風景) 1952: 女性自身に槍が突き刺さっている。遠くには去っていく兵隊の一群。浜田は「見たままを描いた」とのこと。 ・絞首台 1954: ミケランジェロの彫刻のような殺人。 浜田の故郷・熊本市の県立美術館には浜田の版画が多数残っている。メモでは345点となっているが、そんなに多いのだろうか。 中林忠良が訊く。「油絵科を出たのに、油絵ではなく、銅版画にしたのは何故ですか。」 浜田答えて曰く。「画がと大げさになり、どうしてもロマン派みたいになってしまう。銅板の方が木版よりも冷たい感じが出るし、白黒のほうがスッキリとする。」 ここで、1981年に制作された日曜美術館「昭和39年、熊本に帰って銅板制作に励む浜田知明」の映像が紹介された。 以下は、その頃の作品なのだろう。 ・副校長D氏像 1956 ・群盲 1960 この頃から、人間の真実が暗い面ばかりでなく、明るい面にもあるというように浜田の考え方が変わってきた。そしてそれに応じてモチーフも変わっていった。 このことに対して、中林忠良は「それは人間に対する愛情ですね」と聞いたが、浜田は頷いただけだった。 確かに、浜田のそういった優しいまなざしは、次の何点かの作品には注がれているようでもあった。 ・愛の歌 1957: 空には口紅を塗った二つの唇。山は女性のヌード様。水路のボートの中には二人。レズビアンの風刺作品のようでもある。 ・月夜 1987 ・家族 一方、現代社会の暗い面を鋭くえぐる作品も制作された。以下がその例である。 ・ボタン(B)1988: 核戦争はこのようにボタンを押すことで勃発する。「厳しい文明批評だが、この中にも人間に対する愛情が秘められている」という番組製作者の意見には同意できなかった。 ・取引 1979: ロッキード事件。 ・いらいら (A) 1974 ・いらいら (B) 1975 版画から彫刻に発展したことについては、「版画で制作したものを粘土で簡単に作れたからである」と話していた。その例として、版画「アレレ・・・」から彫刻「アレレ・・・」への発展の例が挙げられた。 ・アレレ… etching, aquatint 1974 ⇒・アレレ… bronze 1989 ・二人 bronze / 1983 もこのような版画からの進展だった。 彫刻は全部で73点制作しているとのこと。以下のような例が紹介された。 ・晩年 1999: 「若い女性の裸婦ばかりが美しいのではない。本当の美、すなわち真実を造っていくのは芸術の仕事で、これはおばあさんの華のない裸の木の美しさです。」という話だった。 ・幽界を覗く人 2010: 骸骨となった将来の自分の姿。 ・飄々 2003: 人間のオカシサ! ・風景 1995: 原爆の図。 ・忘れえぬ顔B 2008: 窓の中には、浜田の友人の日本兵に犯された少女の顔が描かれている。去っていく日本軍の中には浜田もいた。 最後に登場したのは、新作の《つえをつく老人の像》という自刻像。 ここで浜田の口から「会者定離」という言葉が飛び出してきた。「そういうテーマで作品を造りたいが、どうやったらできるか分からない」とのことだった。まだまだ前進を模索しているこの95歳の芸術家には精神的な老いは感じられなかった。 戦争の時代をある程度知っている私にとってもいろいろと勉強になる番組だった。 特に、「戦争は人間を異常にさせる」という事実をこの番組で再確認した。 戦争体験のない世代がこの国を動かしている現在、この「版画家・彫刻家・浜田知明95歳のメッセージ」を是非聴いてもらいたいと思った。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2013-08-13 13:33
| 現代アート(国内)
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