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文晁は関東南画の大成者とされてきたが、実際には狩野派、南蘋派、四条派、土佐派、さらには西洋画まで研鑚した非常に幅の広い画家である。 今回は以前に板橋区立美術館で見た「谷文晁とその一門」の図録で予習したうえで、六本木に出かけた。今年の日本は異常に暑い。 前後期に大きく分かれているのですべてを観ることはできないが、それでも文晁の作品が沢山展示されているので、ジックリ見ていくと相当に時間がかかる。 安村敏信氏によると、谷文晁の画は、制作年代によって以下のように大別されているが、同時期においても画風の幅が広い。 ①山東文晁: 文晁20代半ば前後の「山東谷文晁」と署名している作品会場に入ると、いきなり金地でド派手な色彩の衝立《孔雀図》が登場する。説明では文晁の晩年の作となっており、展示リストの順番は128番目となっている衝立がショッパナに出てくるのは「人寄せパンダ」ならぬ「人寄せクジャク」なのだろう。 今回の展覧会は、序章から第4章までの5章立てとなっており、以下の記事は章別に書いていく。 序章 様式のカオス: この展覧会の企画者は、多様な画法を自家薬篭のものとした「八宗兼学」ともよばれる文晁の幅広い様式を「様式のカオス(混沌)」としている。 この序章に展示されていた文晁の作品は、画題によって以下のように分類される。 1.中国風山水画: ・《連山春色図》1797年、静岡県立美術館: 文晁35歳の作。「寛政文晁」の代表作である。 画面下部に小さな人物を凝視しているうちに、一瞬、自分が画の中に居るような気持ちになってしまった。時間と空間を超えたシュールな感覚である。 ・《千山万水図》1807年、田原市博物館: 明清風の「浅絳山水」。 ・《渓山樵夫図》1826年: 「披麻皴」による北宋風の作品。 2.和風水墨画: ・《李白観瀑図》1826年、田原市博物館↓: どっぷりと墨を使い、筆跡も生々しい豪快な日本の水墨画であり、「烏文兆」の逸品である。この絵は再見。 《ファン・ロイエン筆花鳥図模写》: オランダ油彩画を日本の顔料で紙に模写した作品。実際には、徳川吉宗が長崎のオランダ商館にあったこの画を石川大浪・孟高兄弟に模写させ、それを谷文晁が重模写したとのことである。 ・《慈母観音図》山形美術館: 左に瀧、右に善哉童子と竹やぶ、中央に観音。観音の腕にかかるレース模様が細かく描かれ、群青の色彩が美しい。唐の呉道玄の絵の模写とのこと。 ・《仏涅槃図》大統寺、1802年: 5.大和絵: 歌仙図《柿本人麿像》1806年 第1章 画業のはじまり 1.加藤文麗に入門: 10歳頃に入門し、狩野派の手ほどきを受けた。文晁が13歳(1775年)に描いた《水墨山水図》が出ていたが、力強い筆さばきで、なかなか上手い。栴檀は双葉より芳しい。 2.渡辺玄対に師事: 17、18歳頃に師事し、南蘋派や南宗画・北宗画の折衷様式を学ぶ。21歳時に明清浙派の「狂態邪学」作品を写した《三聖図 文晁画稿》や《秋山孤亭図》という文晁筆の中國画の版本も出ていた(田原市博物館蔵)。 一番最初に出ていた衝立《孔雀図》も、晩年の作とはいえ、細かい孔雀の描写はこの渡辺玄対の影響であり、粗い岩の表現は加藤文麗の影響なのだろう。 3.寛政文晁 ・《山水図》 根津美術館蔵 寛政6年(1794年): 瀟洒な作品。 ・《夏渓新晴図》 東京藝術大学 寛政11年(1799年): 北宋風山水画 4.寛政文晁から烏文晁への移行 ・《鍾馗・山水図》 文化9年(1812年) ・谷文中《谷文晁像》: これは孫が描いた文晁60歳代の肖像。養子・文一が描いた文晁像の額に皺を描きこんだものとのことである。 第2章 松平定信と『集古十種』―旅と写生 天明8年(1788)、文晁は「田安徳川家」の奥詰見習となり、寛政4年(1792)には老中松平定信(1758-1829)に認められて近習となった。 定信は、徳川吉宗の次男・田安宗武の子で、白河藩主・松平定邦の養子となって白河藩主を継いだ後に、老中首座の要職を勤めた。 ・《松平定信自画像》鎮国守神社: 有名な画だが初見。老中就任にあたって藩に残した肖像画である。端正な顔立ちで、書もきっちりとした楷書。寛政の改革を実行した定信の性格が現れている。 文晁は、寛政5年(1793)、定信が海防視察のために伊豆・相模の海岸を歩いたのに随行して、《公余探勝図》のような西洋画風の風景スケッチも描いている。以前に、東京国立博物館でその巻二を観ることができた。下の画像はその時に撮った《熱海港》である。正確な遠近表現や立体感を示す彩色法が用いられている。 また、寛政8年(1796)、文晁は定信の命を受けて、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を調査し、1,859点もの文化財の模写と記録を行い、これが刊本「集古十種」85巻となった。今期は、鞍馬寺にあった義経が使ったという鎧らしき武具の細密な模写図が見られた。このような名品模写は、文晁の以後の画業に大いに役立ったと思われる。 文晁が還暦の際に「田安徳川家」から依頼を受けて描いた《楼閣山水図》は、キッチリと描かれた彩色画である。胡粉・緑青・群青を惜しみなく使っている。主家へ届ける画ともなれば、このように肩に力の入った作品となるのは無理もない。 第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」 松平定信は、古文化財の保存・整理分類からさらに一歩進めて、過去に失われた作品の復元に着手している。 《石山寺縁起絵巻》は正中年間(1324-26)に七巻本として企画されたものだが、江戸時代に至るまで、巻六・七は詞書のみが存在し、絵を欠いていた。 文化2年(1805)、石山寺座主の願いに定信が応え、そのお抱え絵師である文晁によって2年をかけて補完された↓。 第4章 文晁をめぐるネットワーク―蒹葭堂・抱一・南畝・京伝 文晁の養子・谷文一の《柏樹若鷹図》、後妻との子・文二の《山水図》も再見。前者はとても上手い。後者は下手ということになっているが、努力のあとが認められる。 文晁の弟・島田元旦の《諸国名所図》は鳥取県立美術館で2010年に開かれた「因幡画壇の奇才 陽谷と元旦」展の図録で見ている。今期に見られたのは、そのうちの《小山宿》と《裏見瀑布》。ナカナカの出来栄えである。 文晁は《集古十種》の編纂のために訪れた大坂で、木村蒹葭堂と出会っている。文晁は後に蒹葭堂の肖像を描いており、親しい交流が続いていたようである。 今期は、酒井抱一・大窪詩仏・谷文晁合作の《歳寒三友図》、酒井抱一や谷文晁の画のある八百善四代目・栗山善四郎著のグルメ本《江戸流行料理通》を楽しんだ。 文晁が画家として加わった「奉時清玩帖」には、今期は木村蒹葭堂の《山水図》と伊藤若冲の《寒山図》が、「棲鷲園画帖」には若冲の《墨梅》と松村景文の《桜に小禽》が描かれており、これらの画家とのコラボレーションの画帖だったことが良く分かった。 文晁は教育者としても優れており、渡辺崋山など、多くの門人たちを育てた。崋山の作品としては《鯉図》が出ていただけだったが、以前にも見たことのある《文晁一門十哲図》には、中央に文晁、左に谷文二、左後ろに「登」という名で渡辺崋山が描かれていた。 谷文晁は自分が教鞭をとった塾では、「まずは模写をして優れた人の絵を学びなさい、次に自然のもの・目の前にあるものを忠実に描きなさい、そして、やっと自分の個性を探るスタート地点に立つことができるのです」と教えていたとのこと。 会場には雪舟・牧渓・玉澗などの「写山楼画本」が出ていたが、これらはすべて弟子の模写のためのものだった。 谷文晁は自分自身いろいろな画風の画を描いているが、写山楼に集う弟子たちにも自由に描かせてようであり、「文晁一門」とは比較的自由な職人集団であったようである。それは民間の絵師としては、注文主の要望に応じて描きわけていかざるをえなかったという事情に対応していたのであろう。このような画風の多様性は「様式のカオス(混沌)」ではなく、「様式のフリーダム(自由)」と捉えるのが良いのではないかと考えた。 最後に、文晁が描いた屏風がいくつか出ていた。 ・《水墨山水図屏風》: 高山の酒造業・二木長嘯の求めで描かれたこの屏風は天保9年(1838年、文晁76歳)の作であるが、柔らかな雅趣のある作品だった。 ・《富士山図屏風》静岡県立美術館蔵: 天保6年(1835年)、文晁73歳の時に描かれたこの屏風は、シャープな群青の稜線が印象的だった。 展覧会の担当者は、150点もの数の文晁の真筆作品を集めるのには大変苦労されたのではあるまいか。文晁は自分の印を弟子が勝手に使うのを容認していたとの話も伝わっている。それだけ弟子思いだったのだろうが、そのことが文晁作品の鑑定を難しくしているようである。 恐らくは、山水画、水墨画、仏画などそれぞれに基準作を設け、それ以上のレベルの作品を文晁の真筆とされたのだろうが、弟子が文晁よりも上手い画を描く可能性もあるのだから大変である。非侵襲的な科学的調査によって、文晁が使用した岩絵具の特徴が見つかれば、この真筆確定の援けになるだろうと考えてみた。 後期にももう一度見に行く必要がある。帰る頃に土砂降りの雷雨となってきたので、来た時とは違う経路で帰宅した。 美術散歩 管理人 とら 追記: 7月16日の「ぶらぶら美術館」に登場された担当学芸員・池田芙美、上野友愛両氏の説明はポイントをついていてとても良かった。しかし「おぎやはぎ」の一人の低レベル・コメントはどうにかならないものだろうか。頑張っている山田五郎氏が御気の毒だった。
by cardiacsurgery
| 2013-07-15 22:25
| 江戸絵画(浮世絵以外)
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