それほど広くない館内は合計53枚の歴史画で一杯である。画中の文章がすべてパネル表示されていたので、時間をかけて勉強してきた。
・目録
展示品に目録には、下段の巻物の画の左側に、番外の揚州周延の《板額女》と《ちか子》のタイトルを書いた紙片が、貼りつけてあった。
1.月岡芳年《伊企灘》:
伊企灘は欽明朝の武将。新羅軍に捕えられた伊企灘は、袴を脱がされて尻を日本に向け「日本の将よ、わが尻を食らえ」と大声で叫べと強制されたが、伊企灘は「新羅の王よ、わが尻を食らえ」と絶叫して処刑された。
2.小林清親《上毛野形名》:
形名は舒明朝の武将。蝦夷征伐の際、蝦夷に包囲されて敗走しようとした。これに対し、形名の妻は夫を酔わせて寝かしつけ、夫の剣を佩き、弓を張って、女達に弓弦を鳴らさせた。そのため蝦夷は大勢の軍勢が残っていると誤解して退いた。味方の兵をまとめ上げた形名は蝦夷を打ち破った。
3.小林清親《小野道風》:
嵯峨朝の書家。大極殿の門の「大」の字が「火」と読めると云っていたが、治承4年4月28日に、大極殿は火災で灰燼に帰した。
4.井上探景《大納言行成》:
一条朝の公卿。宮中で中将実方に罵倒され冠を庭に投げ捨てられたが、冠を付け直して、冷静に対応した、これを評価した天皇は、行成を蔵人頭に昇格させ、実方を陸奥に左遷した。御簾の陰に天皇の姿が透見できるような気もする。
5.小林清親《小式部内侍》:
中納言定頼に丹後にいる母・和泉式部からの手紙に書かれた歌を自分の歌としていると考えて、「丹後の使いは帰ってきたか」と皮肉ったのに対し、小式部内侍は「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」と返した。
6.井上探景《赤染衛門》:
平安時代の女房・女流歌人。住吉の神に、病の娘の身代りになるから娘を治してほしいと祈願したところ、娘の病は治癒した。
7. 小林清親《菅原道真公》:
大宰府に流された道真。捧げる御幣には「此度は ぬさもとりあえず手向け山 もみじの錦 神のまにまに」と書かれている。
8.井上探景《兆殿司》:
兆殿司は、室町時代の画僧・吉山明兆の通称。「釈氏妙澤は慶安年間の人にして夢窓国師の徒弟なり。常に画図を好むを以て国師しばしばこれを呵責すれども聞ず、ますます画事に耽り、ことに不動の像を巧にゑがきて其精神感得せしか自から画く不動の図中より火焔を発せしより国師も其筆力精妙なるに感じ終に許して呵責せざりし」と書かれている。
探景の画の不動明王の周りからは焔が出ており、これが画僧の影とともに襖に映っている。
9. 月岡芳年《藤原在衡》:
風雨の朝も宮廷への朝参を欠かさなかった超まじめ人間。
10 井上探景《高倉帝仕丁》:
高倉天皇は大切な楓の木を藤原俊成に守らせていたが、仕丁たちが、これを切って薪にして暖をとりながら酒を飲んだ。これを報告した俊成に対し、帝は「林間煖酒 焼紅葉」という唐歌を引いて、風雅なこととして仕丁たちを責めなかった。
11.小林清親《源義家》:
義家は、出羽・金澤の戦で部下から「飛雁行乱は伏兵の徴」という言葉を引いて進軍を諌められた。画には、乱れ飛ぶ雁の群れが描かれている。
これによって危地に入ることを免れた義家は、おのれの無知を恥じ、その後、大江匡房に兵法を学んだ。
12.小林清親《袈裟御前》:
源渡の妻。盛遠に懸想され、計を案じて盛遠に自らを討たせて貞節を守った。
13.井上探景《佛御前》:
先に清盛から袖にされた祇王祇女の許を訪れ、自身も仏門に入る佛御前。その際に詠んだ歌は「萌出るも 枯るるも同じ 野辺の草 何れが秋に あわではつべき」
14.小林清親《佐藤嗣信》:
屋島の戦で、教経の矢を自らの身体で防いで義経を守った忠臣・佐藤嗣信の遺言をその病床で聞く義経。
15.井上探景《静御前》:
鎌倉・鶴岡八幡宮の頼朝の前で舞わされた義経の妾・静御前。辞する術なく「吉野山 峯の白雪踏みわけて 入りにし人の 跡絶えにけり」と詠う。
16.水野年方《丹後局》:
頼朝の子を宿した丹後局は、政子の嫉妬によって由比ヶ浜で白刃の下に置かれた。「ゆく水はに ツミの思ひを 流しやらハ 心はすみて 鈴けからまし」とう歌に感動した侍は、丹後局を逃がしてやる。詞書きには、丹後局は島津家の祖となったと書いてあった。
17. 井上探景《曾我兄弟》:
兄・一萬は弟・箱王に空行く雁の中には、雁の父親も母親もいるというと、箱王が自分の父親はどうしていないのかと訊く。そこで一萬は箱王に父の無残な最期を教える。
18.水野年方《佐野常世》:
雪の中に一夜の宿を頼んだ最明寺時頼に暖をとらせるため、愛玩していた鉢植えの梅・松・桜を囲炉裏にくべる佐野常世。謡曲「鉢木」で有名な物語。
19.井上探景《青砥藤綱》:
滑川に十文の銅銭を落とした藤綱が、五十文の銅銭で篝火を購入して、十文の銅銭を探して拾い上げた。理由を聞かれた藤綱は「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。五十文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて六十文の利は大きい」と答えた。これは鎌倉時代の「アベノミクス」。
20.小林清親《北条泰時》:
危険を冒して弟を救った泰時に「大事の前の小事」と批判した者に対して、泰時は「弟を救うことは、自分にとって小事ではない」と答え、周囲のものを感服させた。
21.水野年方《楠正成》:
四天王寺に蔵されている識文・日本一州未来記(聖徳太子著と伝えられる預言書)を僧に頼んで見せてもらったところ、「第99代後醍醐天皇は、一度遠くに移られるが、まもなく元の皇位に復帰される」と記されていたので、大いに喜び、このことを全軍に伝えて、勇気を奮い立たせた。
22.井上探景《村上義光》:
護良親王が熊野へ逃れる道中、敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇したが、親王は錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗りきった。遅れてやってきた義光は、そこに錦旗が翻っていることを見て激昂して錦旗を取り返し、錦旗を持っていた下人を投げとばした。
23.水野年方《名和長年》:
後醍醐天皇の近侍。足利尊氏との戦いに敗れ、宮中に向かって涙する長年の姿が描かれている。
24.水野年方《児島高徳》:
後醍醐天皇の宿の桜の幹に、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の句。
25.小林清親《菊地武光》:
懐良親王を擁して奮戦する菊地武光。
26.水野年方《楠正行》:
四条畷の戦に出発する前に、 後醍醐天皇廟の如意輪堂の壁板を過去帳に見立て、徒党143名の氏名を書き残した。その奥に書き付けた辞世の句は「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
27.井上探景《毛利松壽丸》:
松壽丸とは、毛利元就の幼名。連れの者が、松壽丸が「毛利の主となること」を祈ったと云ったのに対し、「日本国の主となること」を祈るべきだと述べた。
28.小林清親《上杉虎千代》:
幼き日の上杉景虎。逃亡の途中、米山の上に立ち、将来仇を討つ際には、ここに陣取るのが良いと述べた。
29.水野年方《山内一豊ノ妻》:
夫が馬を買う資金を、鏡の裏から取り出して役立てた。
30.小林清親《徳川竹千代》:
10歳、今川の質となっていた頃の話。端午の石戦を見て、少数のほうが力を合わせるので、大勢のほうに勝つと予言した。
31.月岡芳年《富田信高》:
戦いの際に自分を援けた美女は、自分の妻・浮田と判明した。
32.小林清親《織田信長》:
奇異な服装で行列してくる信長とこれをを見て大した男ではあるまいと思う齋藤道三が描かれている。後刻、正法寺で対面した際には、信長は衣服を改めて現れ、「道中、我を笑った曲者に貴殿は似ていた」と話し、道三を驚かせた。
33.月岡芳年《羽柴秀吉》:
毛利の使者と対面する秀吉の手には和議の盟書が描かれている。
34.小林清親《越前少将》:
海内随一の阿国の舞を見て、いまだその域に達していない自分が悔しくて、見物席で悔し涙をぬぐっている豊臣秀康。
35.小林清親《細川幽斎》:
敵馬の乗下がまだ温かいことを知った従者に、「君はまだ 遠くハ行かじ 我袖の 涙かわき果てねば」という古歌のように「敵はまだ遠くに行かじ」と教えられ、幽斎は学問の重要性を痛感した。
36.水野年方《片桐正一》:
大坂城を退去する片桐旦元。木村重成になぜ城を出るのかと聞かれ、馬上で泣きながら「いざというときには真田幸村に援けを求めよ」と言い残して去っていった。
37.豊原国周《秋色》:
菓子屋の娘でありながら、俳句の才を認められて二品親王の殿中にも呼ばれていた秋色(しうしき)。大雨の際に、自分に用意された駕篭を父親に譲る孝行娘の姿として描かれている。13歳の秋色が上野の花見の際に詠んだ句は「井の端の 桜あぶなし 酒の酔」。
38.水野年方《農弥作》:
こちらは母親孝行の農夫。徳川光圀が褒美を与えたが、「これは天から降ってきたもの」といい、金を頭に載せた。
39.小林清親《惣徂徠》:
上総に流されていた貧しい父と暮らす荻生徂徠が所持していたのは「大学諺解」一冊のみ。これを十二分に研究した。
40.水野年方《大石義雄》:
花街で遊び耽り、仇討の計画をカモフラージュしている大石義雄。
41.歌川国明《友千鳥》:
相撲取りの「谷風」は、評判の悪い同僚の相撲取りにも良いところがあると考えて、引き立てており、勝を譲ったりした。この善行のためか、翌年、幕内に昇進した。
42. 小林清親《塙保己一》:
盲目の教師・塙保己一は、蝋燭に火を点ける弟子たちに「眼開きは不自由なものよ」と喝破した。
43.水野年方《新井白石》:
白石は幕府に召される際に、あらかじめ幕府から勤めの用具を下賜されるほど困窮していた。
44. 水野年方《高杉晋作》:
長州から筑前に逃げた高杉晋作を迎えたのは、野村望東女。
45.水野年方《高山彦九郎》:
高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家。足利尊氏の行動に怒り、本を投げ捨てる彦九郎が描かれている。 尊氏憎けりゃ、本まで憎い!
46.小林清親《徳川慶喜》:
「慶喜の決断が正しかったかったからこそ、今の日本がある」との考えを述べている。「国のため 民のためとて しばし身を 忍ぶ岡に スミぞめの袖」という歌も書き入れられている。
47.小林清親《福地源一郎》:
幕末から明治時代にかけての幕臣・ジャーナリスト・作家・劇作家。国外の知識が深く、日報社社長を務めた。
48.水野年方《木戸翠香院》:
西京の芸妓・竹松が、桂小五郎を匿っているととろが描かれている。その後、竹松は木戸孝允夫人となった。
49. 井上探景《田中鶴吉》:
田中鶴吉は、幼時両親を失い横浜で商船のボーイをしていた。ある時、米国汽船長ウィルソンが「汝、吾とともに米国に住むべし」と云ってみたところ、鶴吉は強く希望して船に乗り込み遂に桑港に着いた。田中は、米国で製塩業を学び、7年後に帰国して製塩業を始め失敗したが、それにもめげず他の事業を起こした。
50.水野年方《三条実美公》:
尊皇攘夷派の公家。描かれているのは、「七卿落ち」の舞台となった妙法院で、血気に逸る諸士を廊下から諌めて、防長に落ちていった。
・揚州周延《板額女》:
越後における坂額の甥・城資盛の挙兵(建仁の乱)の際、反乱軍の一方の将として奮戦した大剛の勇婦。捕虜となって鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将たちを驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に願い出て彼女を妻として貰い受けた。
・揚州周延《ちか子》:
加賀・銭屋五兵衛の孫娘。罪に問われている五兵衛の無実を訴えて入水。
美術散歩 管理人 とら