記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
BUNKAMURAのトイレの傍のこの部屋に入ったのは初めて。見回すと150名ぐらいだろうか。満員の盛況である。 今回は、いきなり芳澤勝弘花園大学教授の登場である。 前回、神田の学士会館で開いた白隠シンポには150名定員のところ多数の参加希望があって、250名が入る部屋に変えたが、それでも断らざるを得なかったので、今回の続・白隠シンポを行うことになった。 今まで日本でも白隠展が開かれなかったわけではないが、自分としては物足りないものだった。このため「白隠の禅画には現在を超えるものか含まれていることを示したい」と思い、浅野研究所の広瀬麻美さんと明治学院大学の山下裕二教授の援けを得て日本で本格的な白隠展を開くことを考え始めた。そこで、テストケースとして、ニューヨークで2回の「白隠フォーラム」を行ってみた。ここには作品は出なかったが、大きな反響があったので、日本での展覧会の計画が実現することとなった。 日本での展覧会は、「上野の森」で行うような従来型のものでは白隠の迫力は伝わらないと考え、他方、「欲望の街・渋谷」ならば白隠に相応しいと考えた。 白隠が良く描く布袋和尚はいつも町中へ出て、通行人の肩を叩いては「お金ちょうだい」とやっていた。布袋すなわち白隠の「十字街頭の禅」は、スクランブル交差点のある渋谷の「超・十字街頭」で展開するのが最適と思った次第である。 展覧会が始まって3日ぐらい後に、Twitterに「渋谷の街で途方にくれているお坊さんを見たら、BUNMAMURAに連れて行ってあげてください」という若い女性のツブヤキを見た時に、この展覧会は成功したと確信した。 スライド1《動中工夫》: 賛は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍」と読む。 つい先だって朝日新聞の広告欄に小野ヨーコさんの言葉が載っていた。「日本人は仕事をしていても食事をしていても瞑想する傾向があるが、アメリカ人はお金を払って瞑想する」とのことである。外国から日本を観る感性豊かな小野ヨーコだからこそ、日本人の心が分かるのだと思った。 スライド2 《眼一つ達磨》: 正直、自分ではこの画の賛が読めなかった。ところが1週間前に、名古屋大学文学部の塩村耕先生からアドバイスを頂いて、読めるようになった。 小生「とら」のつぶやき: 数日前、Twitterに芳澤勝弘先生のツブヤキが4本あるのに気が付き、早速リツイートしておいたのがこれだったのである! それを以下にコピペさせていただく。 1. 白隠「眼一つ達磨」の賛の解釈。禅語に「眼の眼を見るが如し、心の心を見るが如し」とか」「人能く自知すれば、己が眼の眼を見るが如し」とある。という次第で、会場で芳澤教授の説明をニヤニヤしながら聞いていたのは私だけだったかもしれない。 というのはウィークデイの午後の時間にこの会場に来ていたのはTwitterとは縁のなさそうな中高年の方々が多かったからである。 この間、芳澤教授は、自分の目を見ている画を描いたエッシャーが自殺したことから、「皆さん、あまり自分の目を一生懸命見つめない方が良いですよ」とジョークを飛ばしたり、「如眼見眼 如心見心」とか「人能自知 如己眼見眼」といった関連の禅語を紹介されたり、「この画はゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじに似ている」との感想も述べられていた。 最後に、「この賛を解読できて、本当に『眼から鱗が落ちる』気持がした」と正直に話された。 スライド3《芋洗》: 賛は白隠60代の筆跡であるが、二段に書かれている。 上段は蘇東坡の「前赤壁賦」にある「少焉月出於東山上」(しばらくして月東山の上に出)で、この蘇東坡の精神世界(月の形は変るが、月の本体は不変であるように、万物も自己も尽きることはない)は、江戸時代の人には良く分かっていた(参照)。 賛の下段は「賊(ぬすっと)をとらえて縄や月のいも」。 「盗人を捕えて縄をなう」という言葉が「すでに遅い」という意味であることことは今でも通用しているが、ここで「すでに遅い」というのは、十五夜の晩だけは他所の畑の芋を盗む「お月見泥棒」・「十五夜泥棒」は許されるという風習が下敷きになっている。 蘇東坡の観月は旧暦7月16日のことだったから、「十五夜泥棒」はOKだが、「十六夜泥棒」は駄目だと云っているのである。 画には丸い月が描かれている。これは「芋名月」で旧暦8月15日の中秋の名月のこと。ばあさんは「お婆どの粉引き歌」の象徴である「主心お婆」で白隠の化身。この場合の童子はわれわれ「衆生」。すなわち白隠おばばの芋洗いをわれわれが手伝っている状景が描かれているのである。 衆生は白隠を見つめ、白隠は月(心月孤円)を見つめている。この月の光は万象を包む光である。 この画を貰った中津・自性寺の和尚は、白隠の許で10年近く修業していたのだから、この画と賛の意味を理解したに違いない。 スライド4《布袋とメビウスの環》: 表から書いた賛は「在青州作一領」、裏から書いた賛は「布衫重七斤」。これは「碧巌録」四十五則「趙州万法帰一」の公案(万法は一に帰す、一は何れの処にか帰す)。「万法」すなわち「一切の存在」は「唯心所造」であって、すべて「一心」からあらわれたものである。つまり、「一切の存在」と「一心」は可逆的、すなわち、メビウスの環のように表が裏で、裏が表なのである。 スライド5(複数)《布袋》。「何のある所ぞ、常に大袋を曳く」、「やれやれ重たいぞ」「嚢裏無一物、是福寿無量」などと書かれた《布袋図》があるが、これらは「無一物中無尽蔵」すなわち「空虚である場所からすべてが生れ出る」ということを暗示している。 今回出展されている《布袋解開》↓に書かれているのは「壽」という一字のみ。これは「空虚である場所からすべてが生れ出たもの」が「永遠の生命(壽)」であるということを意味している。 ここで、大島信美氏から寄せられた白隠禅画の模作が紹介された。中央に白隠の姿、右には「上求菩提」(はてしない悟りを求める)、左には「衆生下化」(人々を救う)と書かれたもので、大変見事な禅画になっていると褒められた。白隠の下に三人の童子を加えれば、最高であるとも云われた。 ここで、向って左側の壁に同様な白隠禅画の模作が数枚張られていることに気付いたので、休憩時間に近寄ってその賛を読み、写真を撮ったりした。賛はともかく、画としては良くできていた。 白隠は菩提心をもった菩薩たちが釈迦の周りに楽しそうに集まっている仏国土の画を描いている。仏国土は菩薩によって荘厳されている。 白隠の禅画は、まさに「白隠劇場」。白隠の心を代表している人物だけが、この指の形に描かれている。 次は、遅れて到着された臨済宗僧侶・作家の玄侑宗久氏の登場である。この「続・白隠フォーラム」は当初は芳澤教授だけの賛の説明会として計画されたようだったが、玄侑氏がこれに参加されることがメールでアナウンスされていたので、私もこの講演に期待していた。 玄侑氏の話の出だしが面白かった。曰く「このコアな場所に来て、ちょっと怯えている」、曰く「今回、寝た子を起してしまった」、曰く「賛は読み切れない。洗った芋が月だと云われても考えてしまう。ちょっと言い過ぎ?」のようである。お坊さんの説教のイントロは流石である。 白隠は当初、仏心にあぐらをかき、努力を怠っている輩への教え(指心というサービス)だけをなさっておられたようだったが、晩年になればなるほど菩薩の威儀や仏国土を仰っていくようになられた。 白隠は特定の人に向けて禅画を描いているが、自分の場合にも、特定の人に読んでもらいたいと思って小説を書くことがある。 透析を受けている患者さんのことを思いつつ書いた本については、患者さんがその本を自分の棺に入れてほしいと云われており、奥さんがそのようになさったという話を聞いている。このように、キッカケはごく身近なところにある。 白隠の場合にもそういうことが多く、画や賛の意味も本人にはちゃんと伝わっていた。無関係なわれわれにその意味が伝わるのは難しいが、今回、芳沢先生のお仕事で分かるようになってしまった。 ここで「講談」に出てくる白隠の話が一つ登場。 白隠が30歳で寺に戻ってきてからちょっと経った頃の話。ある大店の主人に娘がいた。この娘が番頭だか手代だかとねんごろになり、子供ができた。娘は母には打ち明けたが、父が許さず、困った娘は白隠の寺の門前に子供を置いていった。そこで白隠は乳の出る人を托鉢することになった。これが評判になり、困り果てた娘は、子供の父親は白隠だと嘘をついてしまう。娘の父は寺に怒鳴り込み、町中の噂となってだんだん遠くまで乳もらいにいかざるをえなくなる。そこで娘が父に本当のことを告げて謝った。父は白隠に「謝っても謝りきれない」というと、白隠は「そんなこともあったのかな」と答えた。芳澤教授が「あれは別人の話!」と云われたが、玄侑氏はすかさず「呆然!」と返され、満場拍手のうちに玄侑氏の講演は終わった。 ここでなんと山下裕二明治学院大学教授も参加。三人の鼎談が始まった。それぞれの持ち味が出た良い討論だった。以下、メモからその様子を伝えるが、完全には把握しきれていな部分もある。文責は私「とら」だが、自分のメモに誤りがあるかもしれない。その場合には、非公開コメントで連絡していただければ訂正いたします。また、発言者名は敬称略とさせていただいた。 山下: 玄侑さんには地獄体験はありますか。 玄侑: 影響を受けたことはありますが、それで出家したわけではありません。 芳澤: 地獄は白隠の大きなテーマですね。ただ11歳での地獄体験と云うのはもう少し小さな時ではなかったのかと思います。 芳澤: 《観音》のスライドを出し、前回のフォーラムと同じ内容の説明(こちら)。 玄侑: 確かに三途の川は日本にはなく、中国の広い河のイメージですね。 山下: 白隠はこのような北宋絵画を知っていたのですね。 芳澤: 白隠の画に風景画が入っているものは沢山あります。荘厳な場所、厳粛な場所を描く必要があったのではないかと思っています。 芳澤: 白隠が子供の時に恐れた地獄と晩年の地獄とは違っていますね。晩年の地獄は裏表の一面です。 玄侑: 白隠は天神信仰にも興味を持っていますね。天神によって禅を日本化させたともいえます。一方、丑の刻に生まれたなどとゲン担ぎもしていますが。 芳澤: 白隠の生まれた場所の近くに「天神様」の幼稚園がありますが、白隠の思想の中に天神が貫いています。梅のマークもそれですね。天神は、中国へ行って、経典を貰って帰ってくることになっていますが、この話は時間と空間を超えたものです。天神さまはこのようにして漢字だらけの思想を日本化させたことになっています。 山下: 《渡島天神像》はフィクションですが、画は多数描かれています。これは宗門を続けるために必要だったのでしょうが、神仏習合という概念が既に受け入れられていたため、禅と神さまの融合にも抵抗がなかったのでしょう。 芳澤: 白隠は岡山のお寺で天照大神の像を描いています。伊勢の大御神が参禅したという話も残っています。 山下: 無準師範賛でその弟子・牧谿筆の《渡唐天神像》がありますね。 芳澤: 江戸時代の寺子屋では読み書きを教えていますが、天神は寺子中の神像になりました。今も受験生が湯島天神にお参りしていますね。 玄侑: 寺子屋では一人一人教科書も違っていたのですね。7000~8000種類の教科書が残っています。 山下: 子供には一人一人分かるように教えていました。白隠が禅画を渡すときにも、その人に相応しいものを渡していたのですね。 芳澤: 門前の桶屋の倅には、割った板1000枚を注文する手紙のひな形を与えています。旅籠の子どもには、宿代の受け取り証文ですね。 山下: 実用的ですね。 芳澤: 江戸時代に学んだのは一科目だけです。数学もないし、英語もない。あるのは日本語と漢語のみです。こうなると発想も湧いてくる。現代の教育は、はたして進んでいるのでしょうか。 玄侑: 僧堂に行って初めて学んだことは、人とすれ違う時は、右手を背中に回して、他意がないことを示すことだけだったですね。このことは、昔は寺子屋で学んでいます。また、歩いていて横から水を掛けられた人は、「水を撒こうとしている時に出てきて悪かった」と謝ったそうです。昔はすごかったですね。 山下: 玄侑さんの修業について教えてください。 玄侑: 合掌も最初はプレッシャーでした。坐禅も利きました。「軟酥(なんそ)」といって頭にバターのようなものを塗るのですが、これが溶けてくる。バターが届くころにはそこの痛みは取れているという次第です。 山下: イメージトレーニングですね。 芳澤: わたしは18歳の時に、お寺を下宿と思って入ったのですが、まったく違っていました。掃除、草引き、読経が毎日。なるべく小さな声で経を読んでいました。今では、当時の自分の出来の悪さを反省しています。ただ順番があるのですね。「学んで、自分の光にして、他人に教えなさい」という順番ですね。 玄侑: 順番を変えても不可能は不可能ですよ。ただ、「箸は垂直に、茶碗は水平に」と教えられましたが、無理をめざすことは美しいですね。だから、今の憲法もあれで良いのです。集団的自衛権も必要ありません。 山下: 禅寺の食べもののことを教えてください。 玄侑: 朝は薄い粥。20人分で2合の米を使います。起床は4時前で、朝食は5時です。昼食は10時過ぎで、2~3割の麦飯です。一汁と一品ですね。だから近所の寺から差し入れがあるととても嬉しかったです。魚などを食べないのは殺生をしないということではありません。動物性のものは消化に時間がかかるので、朝起きられなくなってしまいます。大体、精進という考えは、農耕をやっていた中国で出来た概念で、インドでは虫を殺すという理由で農耕ができなかったのです。 芳澤: 白隠は甘いものが好きでした。酒も召し上がっていました。ただ酔って描くことはなかったようです。 芳澤: 白隠は近世美術に大きな影響を与えていますね。大田南畝は白隠の墨蹟を持っていました。「鮎は瀬に棲む、人は情けの下に住む」という白隠の句を皮肉って、「白隠は鮎を食えなくて残念!」と云っています。 玄侑: 仙厓や良寛にも影響を与えていますね。 山下: 白隠の後への影響としては、池大雅が有名ですが、大雅を通して蕭白や蘆雪にも影響を与えています。ここらの研究は、今後の学位論文の世界です。 芳澤: 27歳の大雅の画に81歳の白隠が賛を入れていますが、このようなことは現代ではありえないことですね。何年か後には、筆もたった大雅が白隠の語り口の代筆をしています。 芳澤: 白隠は小説も書いていますね。西鶴も顔負けのものです。玄侑さんより先に芥川賞をとっていたかもしれません。 この後、会場よりの質問が受けられたが、完全に禅問答のようなQ&Aになってしまった。 禅の内容にそれほど深い関心を抱いていない聴衆多数が腰を浮かしかけたが、それでは演者に失礼となるので、禅問答終了まで、皆さん座席についておられた。 これについては、別の司会者が質問を受けて、同じ人が二度も三度も質問を繰り返すことがないようにしたほうが良いと思った。 このフォーラムでは、本当に多くのことを学ばせていただいた。 これで参加費無料とは文字通り「有難い」ことです。関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。 【参考記事】 ・シンポジウム「白隠フォーラム:白隠禅画の面白さ」@学士会館 ・白隠展ブロガーナイト 白隠の魅力に開眼せよ!! @Bunkamura ・白隠展 @Bunkamura ・白隠「隻手の音」展 @ニューヨーク・ジャパン・ソサイエティ 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2013-02-13 16:16
| 江戸絵画(浮世絵以外)
|
ファン申請 |
||