記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
この番組を視聴したのは、2013年2月20日であるが、これは1月23日の番組の再放送。
番組のサブタイトルは「芸術と信仰のはざまで苦悩する画家」で、衝撃的な「イーゼンハイム祭壇画」が主題である。 TV番組ではコマーシャルを入れる都合上、《イーゼンハイム祭壇画》の各面の説明の間に、グリューネヴァルトの《キリストの哀悼》や《シュトゥバッハの聖母子》、 この画家の人生や関連の土地、さらにはマルティン・ショーンガウアーの《バラの生垣の聖母子》などの話題が挿入されていたが、ここでは最初にイーゼンハイム祭壇画をまとめた記事からを書きだすこととする。 グリューネヴァルトの代表作であるこの《イーゼンハイム祭壇画》(1511-1515年)は、ドイツの国境近くに位置するフランス・アルザス地方のクリスマスツリー発祥地として名高いコルマールの「ウンターリンデン美術館」に収蔵されている。 しかし、元来これはコルマールの南方20kmほどに位置するイーゼンハイムの「聖アントニウス会修道院付属施療院礼拝堂」にあったもので、修道会の守護聖人聖アントニウスの木像を安置する彩色木彫祭壇に属するものであった。 この祭壇画がイーゼンハイムに置かれていた時には、祭壇の本尊である聖アントニウスの彫像を中に納めた「祭壇の扉」になっていたわけで、この扉が閉じられている状態が第1面(平日面)、観音開きのように開いたものが第2面(日曜面)で、この面をもう一度開くと厨子が拝めるようになっており、開かれた扉の裏面に描かれた画を含めて、全体として第3面を構成している。 これらの3種類の面は季節や行事によって変えられるようになっているが、祭壇画の最大幅は5m、高さ2.65mである。 「聖アントニウス会修道院付属施療院礼拝堂」に置かれていたこの祭壇画の3種類の面の関係は、これらを縦に並べてみると分かりやすい。↓の図は、その目的で作成したものである。 中央イメージ「キリストの磔刑」の十字架上のキリスト像は、凄惨で生々しい描写で、キリストの肉体にはまったく理想化が加えられていない。十字架上のキリストの肉体はやせ衰え、首をがっくりとうなだれ、苦痛に指先がひきつっている。 この画には十字架上のキリストの左右に聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネ、洗礼者ヨハネなどが配されている。失神した聖母マリアを使徒ヨハネが支え、マグダラのマリアは手を上げて祈っている。 この時にはすでに斬首されているはずの洗礼者ヨハネも描き入れられており、右手に開いた福音書を持って、左示指でキリストを指さしている。 左パネルには、何本もの矢が刺さった聖セバスティアヌスが描かれている。聖セバスティアヌスはペスト(黒死病)患者の守護神であった。 右パネルは聖アントニウスの像を表している。聖アントニウスは「聖アントニウスの火」という麦角中毒の患者の守護神である。聖アントニウスの持ち物であるT字型の杖は、エジプト十字の形をしており、古代エジプトにおいては不死の象徴であった。 プレデッラには《キリストの埋葬》の場面が描かれている。聖母マリアの顔は、ヴェールで覆われて見えない。 B イーゼンハイム祭壇画(第2面)↓: 第2面は、⑤左パネルの「受胎告知」、⑥中央イメージの「天使の奏楽」パネルと「キリストの降誕」パネル、ならびに⑦「キリストの復活」から成っている。 「受胎告知」には聖母マリアと大天使ガブリエル、「天使の奏楽」には古楽器を演奏する天使が描かれているが、宙に浮かぶ異形の存在も描かれている。その意味不明とのこと)だった。 「キリストの降誕」の聖母子には金色の光が直接注ぎ、幼子イエスは聖母マリアのロザリオで遊んでいる。 「キリストの復活」の下部に描かれた兵士たちは寝込んでおり、光り輝くキリストは誰の目にも触れることなく昇天している。 C イーゼンハイム祭壇画(第3面)↓: 中央の厨子には、左から右に「聖アウグスティヌスの立像」、「聖アントニウスの座像」、「聖ヒエロニムスの立像」が並んでいる。 これらの木像はニコラス・フォン・ハーゲナウ(1445頃-1538)の作である。プレデッラの部分にはキリストと十二使徒の彫像があるが、この部分の作者は異なっているとのことである。 ⑧左翼のパネルは「隠者パウルスを訪れる聖アントニウス」であり、白い衣を着た隠者が聖パウルスである。 ⑨右翼のパネル「聖アントニウスの誘惑」は恐ろしい画であるが、上部に描かれたキリストの光↓によって聖アントニウスは救われるのである。 ↓の画の左下の男はこの麦角中毒患者特有の症状を呈しているが、この患者もキリストの光によって救済されるのである。この祭壇画のあった「聖アントニウス会修道院付属施療院」はいわゆる「聖アントニウスの火」すなわち医学的には「麦角中毒」 Ergotism」と呼ばれる「ライ麦パンに寄生する麦角菌による中毒」の患者の救済を主な任務としていた。 イーゼンハイム祭壇画は現在、コルマールのウンターリンデン美術館の一室にあり、各面ごとに分割された状態↓で展示されている。 •《キリストの哀悼》↓: 横長の画にキリストが横たわり、聖母マリアの組んだ手、梯子、十字架が描かれている。これはイーゼンハイム祭壇画より10年後の画家40代に描かれたもので、より大胆な構図となっている。 グリューネヴァルトに強い影響を与えたドイツの画家・版画家としてマルティン・ショーンガウアー(1448頃 - 1491)が紹介された。 •油彩《バラの生垣の聖母子》↓: 二人の天使が聖母マリアに冠を被せようとしている。薔薇の雄蕊、小鳥の羽毛、髪の毛の一本一本まで描き分ける写実性におどろかされる。 マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald)の本名はマティス・ゴートハルト・ナイトハルト(Mathis Gothart Neithart / Mathis Gothardt Neithardt)で、「グリューネヴァルト」という名前は17世紀の著述家が誤って名付けたもので、これが誤りであることが証明されたのは20世紀に入ってからである。 グリューネヴァルトは生年もはっきりしないが、活動歴から1470/1475年頃、ヴュルツブルクの生まれと推定されている。 彼の生涯については断片的な事実しか伝わらないが、1509年頃までにはマインツ大司教の宮廷画家となっていたことが知られている。1511年にはマインツ大司教治下のアシャッフェンブルク城の再建監督に任じられている。 グリューネヴァルトの代表作として知られる《イーゼンハイム祭壇画》は1511年‐15年に制作された。近くにある鉱山から採れた鉛や銀、さらにワイナリーで生産される葡萄酒がもたらした富がこのような豪華な祭壇画を生み出す財源となっていた。 この祭壇画の完成後はマインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(在位1514-1545年)に仕えている。マインツにはグーテンベルグの印刷所があったので、これを利用してアルブレヒト免罪符を多発していた。 グリューネヴァルトは、1522年頃、アルブレヒトの命でハレの美術建築顧問となるが、1524年には解職されている。 これは、その頃発生したドイツ農民戦争において、グリューネヴァルトがルター派に身を投じたためだといわれている。ルターは、聖書には「領主に従う義務」は書かれていないとして、社会改革を進めていたのである。農民戦争は2年間続き、17万人の死者を出した。 グリューネヴァルトは農民側に加担したとして追放され、その後はフランクフルト・アム・マインで製図工、薬の販売人などをして生計を立て、1527年再びハレに戻るが、翌1528年にペストで死去した。50歳代半ばであった。 デューラーやクラーナハとともにドイツ・ルネサンス3大巨匠の一人に数えられていた彼の名はその死後、完全に歴史の闇の中に消え失せてしまっており、再評価されるようになるのは19世紀末頃からであった。グリューネヴァルトが一時忘れ去られてしまっていたのは、彼の激しい生き方と関係があったのである。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2013-01-21 13:21
| ルネサンス
|
ファン申請 |
||