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山下 清は「裸の大将」・「日本のゴッホ」とも呼ばれ、映画・ドラマ・芝居などの主人公になった超有名人だが、不思議なことに私が山下の作品を実見するのはこれが初めてである。山下が活躍していた時期と私自身が学業や仕事に忙殺されていた時期とがかなり重なっていることがその主な理由なのだろう。
![]() 会場構成は、 第1章: 少年期の山下清そして放浪、 第2章: 芸術家としての挑戦、 第3章: 初のヨーロッパへの旅と遺作・東海道五十三次 となっており、大体において年代順になっていたが、一部にはそれにとらわれていない配列のところもあった。 山下は1922年3月生まれ。1925年に、重い消化不良にかかり高熱にうなされる日々が続き、軽い言語障害となり、さらに知的障害となったということだが、原疾患は何だったのだろうか。最初は普通の学校に通っていたが、いじめにあって、1934年に市川の養護施設「八幡学園」に入園した。 会場で上映されていた映画「はだかの天才画家山下 清」によると、ここの教育がとても良かったらしい。これには八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎の指導があったようで、上述の映画も式場隆三郎指導となっていた。式場はゴッホの研究家であり、バーナード・リーチや柳宗悦などとも親交があった医師であって、山下が大成した陰には式場の支援があったに違いない。 とにかく山下には画才があったらしく、学園で習った「千切り絵」が彼独自の技法による「貼絵」に発展していく。最初は、虫などの静物ばかりをテーマとしていたが、次第に友人が出来たらしく、貼絵の中に学園生活の友人たちや先生が登場してくるようになった。 その作品は、展覧会でかなり評価されていたが、1940年、18歳の時に突然、学園から姿を消し放浪の旅に出てしまった。その理由は必ずしも詳らかではないが、徴兵検査を嫌ったこともその原因だったらしい。しかし、家に戻った際に母に無理やり徴兵検査を受けさせられ、その結果は不合格だったのだから、逃げなくてもよかったともいえるのである。 ![]() ![]() 1953年に、アメリカの雑誌・ライフが清の作品を見て驚嘆して、放浪中の清を捜し始め、翌1954年(32歳時)に鹿児島で見つかって、弟が迎えに行き、清の放浪生活が終わったのである。会場には、「もう放浪しない」という本人の誓詞が展示されていた。 お気に入りは、色彩鮮やかで花弁が盛り上がっているような《金せん花》(↓絵葉書)と有名な《長岡の花火》(↓↓絵葉書)。後者には、「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて 起きなかったんだな」という本人のコメントが付いていた。 ![]() ![]() ゴッホの《花咲くアーモンドの枝》を想起させる《ぼけ》(絵葉書↓)は、「いまだ油彩の技法に慣れていない」との説明があったが、その色彩はゴッホの作品にくらべて明るく、わたしはこちらの方が好きである。 ![]() 陶器の絵付けも行っていたが、これも見事な作品ばかりだった。陶器の中ではバーナード・リーチ風の作品が良かった。とくに小鹿田窯で制作した大皿2点が素晴らしかった。チラシ裏面・中段左↑の《ヨーロッパの壺》やタイル画《富士山》もなかなかである。山下が、このように本当に多芸の人だったということを今回初めて知った。 1961年にヨーロッパ他9カ国を訪問。この時には御伴が付いているせいか、画のテーマは有名地ばかりである。しかし、その出来栄えは見事というしかない。例えば、貼絵では《ロンドンのタワーブリッジ》1965年(↑下段・中央)や《スイス風景》1963年↓、水彩画では《パリのエッフェル塔》1961年↓↓。 ![]() ![]() この55点が並んだ会場は壮観である。また各作品に付いている山下のコメントがとても面白い。例えば、「出発点の日本橋はゴチャゴチャしていて絵にならないので皇居にした」とか、「中に住んでいる天皇は戦争に負けたのでもう威張っていない」などといった山下の正直な話が出ているのである。字が大きくて読みやすかったので、全てのコメントを読んでしまった。 「東京タワーがかすんで見えないのは空気が汚れてしまったためだ」という直球コメントをつけながら、ぼんやりとした東京タワーもそれなりに描きこんでいる。 「古い寺や復元された城ばかりを描かされてうんざりした」といった嘆き節もあった。名声と収入を得た代償として、完全なる自由を失った山下の正直な感想である。 「東海道五十三次」でのお気に入りの一つは、《牧の原(金谷)》の茶摘み風景(↓絵葉書)。 ![]() 山下 清の展覧会を既にご覧になった方も少なくないと思うが、最後に登場した連作《東海道五十三次》が圧巻で、一見の価値は十分以上である。 同じ7階の旧館の方では、「匠の技」の実演展示即売会が開かれていた。ここには、福井の船箪笥、長崎の鼈甲細工、箱根の寄木細工、愛知のつげ櫛など、素晴らしいものが沢山出ていた。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-12-28 09:00
| 国内アート
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