記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
平成24年6月の「歴史秘話 ヒストリア」に出てきた、「立花誾千代」と「吉岡妙林尼」の話はとても面白かったので、メモを取りながら見ていた。
そのメモを捨ててしまうのが惜しいので、ここにその概略を記事として残しておく。なお、漢字「誾」(ぎん)は、門がまえに言。 第一の「立花誾千代」は、この番組のエピソード1「誕生!戦国最強の女城主」とエピソード3「誾千代と宗茂 別れと絆の物語」に登場。 立花誾千代は、1569年、肥後の立花道雪の娘として生まれた。道雪は大友家の庶流で重臣。道雪には男子が生まれず、主家の大友家からも養子を取れと繰り返し促されていたが、わずか7歳の誾千代が福岡の山城・立花城の城督と家督を譲った。当時、女性が家督を継いだ例は、相当数あったとのことである。 島津家が九州の覇権を握るべく、大友家を攻撃してきた。立花家は大友家の家臣であった。道雪は、このままではいずれ島津に飲み込まれてしまうので、武勇に優れた家から婿を取って、合力して島津に当たるのが良いと考えて、同じ大友家の庶流である豊後の高橋家の当主・高橋紹運の嫡男・宗成を婿とした。これは、1581年のことで、誾千代は13歳、宗成は15歳だった。ここで立花家の家督は夫・宗成に移ったが、婿の宗茂を迎えた後も誾千代の立花家を支える覚悟は変わらなかった。 1585年、立花道雪は陣中にて病死、また翌年、宗成の実父・高橋紹運は島津軍に討たれてしまった。この島津軍に対抗すべく、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を乞い、これに応えた秀吉は九州征伐に乗り出した。 一方の島津は立花城を大軍勢で包囲していたが、女城主・誾千代は男たちの軍とは別に、城の女子で「女軍」を組織し、敵勢に徹底抗戦した。 籠城20日の抵抗に手を焼いた島津軍が諦めて、包囲を解いたその時に、宗成の隊が城から出て島津軍を追撃し、次々と領地を奪回した。これは誾千代18歳。宗成20歳の時のこと。 宗茂は、その後も秀吉の九州征伐で活躍した。このため、秀吉は大伴氏の家臣であった宗茂を秀吉の直臣とし、大名として柳川城主に取り立てた。しかし、誾千代と夫・宗茂は不和になり、誾千代は城を出て宮永に移り住んだ。 秀吉が没し、関ヶ原の戦いとなり、宗成は石田三成の西軍に味方した。しかし、誾千代にはこの戦の勝敗が見えており、城へ戻って宗成を制止した。しかし、宗成は西軍について戦い、それなりに活躍はしたものの、結局は西軍・石田三成軍が敗れてしまった。 一方、柳川城にも、東軍・鍋島軍が押し寄せてきた。再び、戦装束に身を包んだ誾千代の元には女たち200人が集まった。一進一退が続く攻防戦の中、鍋島軍は水軍を用いるに違いないと考えた誾千代は、海への備えを堅くしていた。この柳川城の備えを見た鍋島水軍は去った。「軍船来襲するも、近づくことあたわず。これ夫人の功」と伝えられている。 この戦が東軍の勝利に終わり、九州に戻ってきた宗成は、加藤清正の説得で、降服して城を明け渡した。 父・道雪より託された立花家の全てを失った誾千代は、清正に守られる形で、肥後国へ移り住んだが、失意の余りか、重病にかかり、熊本に移ってわずか2年で亡くなった。享年34。 一方、宗茂は柳川城を明け渡した後、浪人となり、京都で立花家再興のために奔走した。徳川家康に恭順の意を表したことが功を奏し、警護役に取り立てられ、大坂の陣でも徳川方として活躍した。そして、その功が評価されて、かつての柳川藩11万石に返り咲くことができた。 これは妻・誾千代の死から18年後のこと。柳川へ戻った宗成は良清寺を建立し、妻・誾千代の菩提を弔った。また、柳川市の「三柱神社」には、戸次道雪、誾千代、立花宗茂の三体が祀られている。 もう一人の女性、「吉岡妙林尼」の話は、この番組のエピソード2「登場!知略の女BOSS」に出てきた。 彼女の名は、同じ頃、大分にも島津軍に立ち向かった女性、鶴崎城主の母、吉岡妙林尼。 留守を預かる妙林尼は、V字形の濠に杭を打った落とし穴を作っておいた。 城を攻めあぐねた島津軍が和睦を申し入れると、妙林尼は城をあっさりと明け渡し、大接待をして油断させておいた。 そして、前面から秀吉軍が攻めてくるのを待って、後方から攻め、島津兵63人をV字形の濠に追い落として殺した。 ポルトガルのルイス・フロイスは、この妙林尼を「女戦士!」と讃えたという。 【追記】清心尼 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-06-21 23:31
| 映画・写真
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||