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先日、土井コレクション展・第4弾のお知らせはこちらにアップした。
自分で見に行く前に、これらの「知られざる木版画家」の予習をしていると、大変なことに気付いた。 「知られざる木版画家」の一人小圃千浦(おばた ちうら)の画を自分で過去に見ていて、強い印象を受けていたのである。 それは2008年5月のことだった。サンディエゴの用事を早めに切り上げて、「サンフランシスコ美術散歩」をした時のことである。(そのブログ記事はこちら) 訪れた「デ・ヤング美術館」の1階は、アメリカ美術の展示だった。 最初に入った部屋は「20世紀から現代の美術」。 ここに、「オバタ」の《シエラ高地のレイク・ベイスン Lake Basin in the High Siera》↓が登場した。 【追記】 下嶋哲朗著の「サムライとカリフォルニア」では、「ハイ・シエラ、ジョンソン・ピークは冬のまどろみから目覚めて、鮮烈な陽はその足元の雪にふりそそぎ、やがて名もない湖だ生まれる。命の期間わずか二ヶ月の湖はカリフォルニアの澄み切った空の青、オバタ・ブルーを映す。(中略) この名もない湖に千浦は、水がたまれば湖となるの意をこめた『レイク・ベイスン』(Lake Basin)と名付けた」となっている。 この画の青の色彩はもの凄く、後から聞くと、「オバタ」はラピスラズリを使っていたとのことである。実際に、この画の前には彼の使った日本画の岩絵具が置かれていた。 【追記】 デ・ヤング美術館の図録によると、この画は1930年の制作、大きさは130.3x265.8cm、 ink and color on silk となっているから絹本・着色の「日本画」である。 別な部屋にも「オバタ」の描いた画があり、これは裸身像だった。タイトルは忘れたが、写真はシッカリ撮ってきた↓。この画には大正時代の関西美人画に通じるものを感じた。 【追記】 下嶋哲朗著の「サムライとカリフォルニア」によると、この画のモデルは妊娠4ヶ月の夫人だったとのことである。 この展示室から出てくると、ちょうど11時から「アメリカ美術」のギャラリー・トークがあることが分かり、一緒について回った。その中で、この「オバタ」が第二次大戦中にはキャンプに収容されていたことの話もでた。 この「オバタ」が、今回の土井コレクション展の「小圃千浦」と同一人物であることは、Wikipediaを調べている際に、偶然気付いたのである。 そこで、その要旨をプリントアウトして、「知られざる大正・昭和期の木版画展-礫川浮世絵美術館」を見に行った。その要旨は以下のようである。 小圃 千浦(おばた ちうら)1885年(明治18年)- 1975年(昭和50年)。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。岡山県生まれ。本名は佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一の養子。日本画を邨田丹陵に師事。最年少で日本画の賞を受け、天才と謳われた。 古い体質の画壇に限界を感じ、絵画で自らの可能性を試そうと1903年(明治36年)に渡米。小圃は日本人に対する偏見と差別の中、低賃金の労働に明け暮れる日々がサンフランシスコで続いた。1906年(明治39年)のサンフランシスコ地震の時には惨状をスケッチ。1915年(大正4年)から1927年(昭和2年)まで「ジャパン」誌で挿絵画家として働く。1921年(大正10年)の「東西芸術協会」の創立とその展覧会の開催に尽力した。 この地で画家として大成するという決意を込めて「母なる大地」を描き、さらに「「サクラメント・ヴァレーの日没」を描いた。燃えるような風景を顔料と墨をにじませた絵の具で一気呵成に描き上げたこの画は、アメリカ画壇に衝撃を与えた。 1927年(昭和2年)、ヨセミテ渓谷をスケッチ旅行。アメリカで製作した代表作を「世界の風景シリーズ」として出版。人々を驚かせたのはその色使いであった。「山上の湖(ハイ・シエラのべイスン湖)」では天然の鉱石ラピスラズリを自ら砕いて作った青の顔料は吸い込まれるような深みをたたえている。その青色は「小圃ブルー」と呼ばれ、賞賛を浴びた。 1932年(昭和7年)にアメリカ初の日本画講師としてカリフォルニア大学バークレー校に迎えられ、戦後には、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授となった。 1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。アメリカ西海岸の日系人の小圃も敵性人とみなされ、家族と共に競馬場を改造したタンフォラン仮収容所へ押し込められた。彼は自由を失い、絶望に打ちひしがれた人々に生きる希望を与えるため、収容所内で美術学校を設立した。 戦後、日本とアメリカの関係改善に尽力し、日本国の瑞宝章を受賞した。上杉神社・稽照殿には、千浦が描いた上杉謙信公の肖像画が納められている。千浦の功績は、全米日系人に多大な影響を及ぼした。教え子の中には墨絵画家の山本紅浦がいる。2008年(平成20年)1月、日本人収容所アート展示として、大阪府寝屋川市立市民ギャラリーで小圃千浦の収容所内での未発表作品が教え子の山本紅浦と共に世界で初展示された。 前置きが長くなってしまったが、ここからは今回の「土井コレクション展」の話である。 最初のウィンドウには池田瑞月の「蘭花譜」シリーズの中の《ブラックカトレア》が出ており、土井さんとは 明治-昭和時代の登山家、実業家・加賀正太郎と池田瑞月の出会いの話などをした。 川面義雄の「新風景版画」が3点出ており、彼が制作した「源氏物語」の着彩木版複製の話などを伺った。 あと、石井柏亭、北野恒富、吉川観方、谷口香嶠、野村芳光、三木翠山、鳥居言人、土屋光逸、森田華香、小原古邨、伊藤総山、伊東深水、名取春仙、高橋 松亭、伊藤 孝之(いとう たかし)、笠松紫浪、川瀬巴水、堂本印象、鏑木清方、顧愷之、漆原木虫、ポール・ジャクレーの木版画の説明をいろいろ伺って、最後に小圃千浦に到達した。 ここで、土井さんに、サンフランシスコで彼の画を見たこと、「オバタ・ブルー」という凄い青だったことなどを話したら、土井さんも驚いておられた。 そこで、展示品の写真を撮らせてもらった。フラッシュなしの撮影なので十分なものではないが、ここにアップさせていただく。 まずは土井さん所蔵の2枚の木版画↓。いずれも1930年(昭和5年)の制作で、小圃が一時的に日本に帰っていた時のものだとのことである。 右は《ハイシエラの通り雨》。ハイシエラとはシエラ高地(高原)のこと。ここでも青に目が行ってしまう。 【追記】 下嶋哲朗著の「サムライとカリフォルニア」の口絵にも、この版画の画像が載せられている。千浦が「ハイ・シエラ」の版画化を行った状況も、この本に詳記されている。それによると、千浦は高見澤木版社と提携して、8人の絵かき、32人の彫師、40人の摺り師を動員した。その第1作が《山上の湖》だったが、107度摺りという驚くべき色数を重ねて、やっとオバタ・ブルーの再現に成功したという。18月かかって35種類の絵で構成される「ワールド・ランドスケープ・シリーズ」各100部が制作されたが、これには多大の経費がかかり、千浦は巨額の借財を抱えて帰米したとのことである。 左は《サクラメント峡谷の夕日》。まるで不動明王の火焔光背のようだ。ちなみに、このタイトルは Wikipedia では《サクラメント・ヴァレーの日没》となっている。 折角だから、個別にも写真を撮った。 このような次第で、Wikipedia で紹介されている小圃千浦の3つの代表作品をすべて見たことになった。 【追記】 下嶋哲朗著の評伝「サムライとカリフォルニアー異境の日本画家 小圃千浦」(小学館、2000年11月20日発行)をAmazonで入手し、通読した。その内容の一部をこのブログ記事に赤字で追加記載した。その表紙は↓、《サクラメント・ヴァレーの日没》である。 【追記】 2009年のNHK「迷宮美術館」で小圃千浦の特集番組があったことを知りました(紹介記事はこちら)。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-10-08 14:57
| 浮世絵
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