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前期(記事はこちら)と同様に、予習原稿を修正したものをアップする。
【上 帖】 21.鼬の沙汰の事: 1180年のこと、後白河法皇が幽閉されていた鳥羽殿に鼬が大量発生。占いでは「三日のうちに吉事と凶事が起る」。吉事は、宗盛のとりなしによる後白河法皇の解放、凶事は、法皇の子・高倉宮(以仁王)の謀反。 22.高倉の宮園城寺へ入御の事: 高倉宮は女装して、山道を三井寺に向かったが、途中、溝を飛び越えたので怪しまれた。 24.競が事: 頼政一党が高倉宮のあとを追って三井寺に入った際、頼政の侍「渡辺競」は、宗盛からだまし取った白葦毛の名馬に乗って三井寺へと駆けつけた。扇面はその場面を描く。その後、仲綱は「平宗盛入道」と焼印を押して、馬を六波羅へ追い返した。 25.南都牒状の事: 三井寺の協力要請を延暦寺は無視したが、南都の興福寺は受諾した。 26.大衆揃えの事: 頼政・三井寺連合軍、長い軍議で戦機を失い、戦わずに退却。 27.橋合戦の事: 以仁王と頼政が率いる三井寺軍が陣取る平等院に平家の軍勢が押し寄せる。橋板をはずしてあった宇治橋を挟んでの合戦。狭い橋桁の前にいた浄妙房を飛び越えて平家軍に立ち向かった一来法師は討死。 29.鵺の事: 近衛天皇の時の頼政の鵺退治。 30.幽霊鵺の事: 二条天皇の時の頼政の鵺退治。 31.月見の事: 秋になり、福原の人々は名所の月見に出かけるが、徳大寺実定は帰京して妹・大宮の近衛河原の御所で月見。 32.物怪の事: 遷都した福原の御所に天狗が現れた。 33.同髑髏の事: 福原の清盛の屋敷の庭に多数の髑髏が出現。 35.大庭が早馬の事: 清盛のもとに頼朝の謀反を知らせる大庭三郎景親の早馬が到着。 36.文覚の荒行の事: 那智の瀧に打たれる文覚の荒行。 37.文覚流されの事: 文覚、後白河法皇の御所での暴言のため、伊豆に流罪となる。 38.富士川の事: 富士川の戦い。頼朝・甲斐源氏・武田信義らに対する平維盛(重盛の子)・忠度(清盛の弟)、知度(清盛の子)らによる戦い。平氏は水鳥の音を敵襲と誤って退散。 39:紅葉の事: 高倉上皇が愛していた紅葉を掃き捨て、残った枝を薪に使ってしまった役人に対し。上皇は「和漢朗詠集にある『林間に酒を暖めて紅葉を焼く』という詩の心を、誰がその者たちに教えたのだ」と笑ってすませた。 40.葵の前の事: 世間のそしりを憚った高倉天皇に遠ざけられた葵。 【中 帖】 73.三草合戦の事: 一の谷の搦め手に寄せた義経1万騎は、三草山の東の登り口に陣を敷いた。一方、平家は三草山の西の登り口に陣取った。平家の大将軍は資盛・有盛・忠房・師盛(いずれも重盛の子)で、軍勢は3000騎。その夜、義経は、大松明の作戦(民家への火付け)を実行。不意を突かれた平氏軍は惨敗した。 74.通盛小宰相に逢ひし事: 一の谷の戦が始まっている時に、いつまでも妻の小宰相と名残りを惜しんでいた通盛は教盛に諌められた。 76.鷲尾三郎義久の事: 義経が、現地の猟師に、鵯越を駆け下りて一の谷の城郭に奇襲をかける作戦を話すと、猟師は無理だと答えたが、義経が鹿の往来する路なら無理なはずがないと頼んだところ、猟師は息子の熊王を案内につけることとした。絵はその場面。ちなみに、この熊王(鷲尾三郎義久)は、義経とともに奥州・高舘で討死した。 77.一二の駆けの事: 熊谷直実と平山季重のどちらが一の谷の一番乗りかという問題。熊谷父子は先に寄せていたが、平家が木戸を開かなかったので城内には入れなかった。一方、平山は開いていた木戸から、城内へ駆け込んで、敵の首を取ってきた。 78.河原兄弟討死の事: 一の谷の戦いでの話。源範頼(義朝の子)旗下の河原太郎高直・次郎盛直兄弟は、草履履きで逆茂木を越えて平家の陣中に入ったが討たれた。兄弟の首を見参した知盛は「これらの者こそ一騎当千の強者ども」と称えた。 79.二度の駆けの事: 梶原景時は、河原兄弟が打たれた後、長男・景季、三男・景家とともに、城郭内へ攻め寄せた。途中、景季の姿が見えなくなったので、景時はわが身を顧みず、敵と戦いながら景季を尋ね回った。やっと再会した二人は戦いつつ退却した。梶原の二度の懸(かけ)とはこのことである。 80.鹿を射る事: 義経の軍勢に驚いた牡鹿が2頭、牝鹿が1頭、平家の城郭のある一の谷へ降りていった。平家軍は「鹿が落ちてくるとは怪しい。山から敵の軍勢を落ちてくるかもしれない」と大騒ぎになり、武智清教が「敵の方角から出て来る者を通すわけにはいかない」と、牡鹿2頭を射ってしまった。これを見た越中前司盛俊が「無益な罪作りに矢を使うな」と諌めた。 81.願立の事: がんだて。山法師の訴えは昔から厄介なもの。これは、比叡山の法師たちが関白師通を呪詛し、師通が重病となったという80年前の事件。母親が延命立願する場面が描かれている。これによって師通は3年生き延びた。 【下 帖】 102.大坂越の事: 義経は、屋島の平家の軍勢が分散している間に、阿波と讃岐の国境の大坂越という山を夜を徹して越えた。山中で京から宗盛宛の手紙を持った男から、手紙を奪い、屋島へ向かった。 104.嗣信最期の事: 小舟に乗った強弓の教経(清盛の弟・教盛の子)の矢面に立って義経を守った佐藤嗣信は、左肩から右脇腹まで射抜かれ、落馬した。その首を取ろうとした菊王丸を弟の佐藤忠信が討った。 105.那須与一の事: 屋島の戦いの最中、竿の先に立てた扇を射落としてみよとの平家軍の挑発に応えて、義経軍の弓の名手那須与一がみごと矢を命中させた。本文には「扇は空へぞあがりける。春風に一もみ二もみもまれて、うみへさつとぞちつたりける」とある。扇を立てた場所で舞った源氏の武者も与一が射落とした。 107.弓流しの事: 合戦中、義経が弓を海に落とした。義経は、源氏の兵が止める中、うつ伏して、馬を打つ鞭で引き寄よせて、弓を拾い上げた。諌める老武者に対し、義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。あれは張りの弱い弓だったので、後で笑われることが悔しくて、命に代えて拾ったのだ」と答えた。 108.伝内左衛門降人に参る事: 義経は伊勢義盛を呼び、平家に味方しなかった伊予の河野通信を攻めた田内左衛門教能を降伏させよと命じた。伊勢義盛は、田内教能に対し、屋島の戦いで捕まった父と再会するように勧めた。これ騙された田内教能と3000騎の兵は、義盛のわずか16騎の源氏に下った。 109.判官と梶原口論の事: 1185年3月24日、「壇ノ浦・赤間が関」が源平の矢合わせの場所と定まるが、梶原が義経に「先陣を侍の私に賜りたい」と頼むが、義経は譲らず、口論となり、太刀に手をかけて身構え、あわやというところまでいった。三浦義澄や土肥実平が中に割って入って止めたが、このことが梶原讒言の原因となった。 110.阿波民部心変りの事: 壇ノ浦での話。知盛は宗盛に、阿波民部重能が心変わりしたと見えるので首をはねるべきだと進言した。宗盛が重能を呼び出して、「いかに、重能は心変わりしたのか」と訊いたが、重能に否定され、知盛の考えを却下した。結局、重能は裏切った。 111.遠矢の事: 源氏方の和田小太郎義盛が射た遠矢を、平家方の仁伊の紀四郎親清が射返して挑発した。召し出された阿佐里与一がさらに長い遠矢を射て、紀四郎親清を船底に射落した。 112.先帝の御入水の事: 知盛によって平家軍の敗戦を知らされた二位の尼(清盛の妻時子)は、孫の安徳天皇を抱き、「なみのうらにも都のさぶらふぞ」となぐさめつつ入水した。 115.土佐坊の事: 義経は、1185年、上京してきた土佐房が自分の刺客であることを見破り、弁慶に連行させた。これが描かれた場面。土佐房は、上洛の目的は宿願の熊野参詣のためと嘘をつき、義経が鎌倉へはいれなかった理由は「知らぬ・存ぜぬ」で通し、不忠のない旨の起請文を書いてその場を逃れた。土佐房は、諸国から京へ警護のために3年交代で上ってきている大番衆を招集して、その夜のうちに、義経の館へ攻め寄せたが、捕えられて討たれた。 116.判官西国下向の事: 北条時政が頼朝軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。一行は摂津国大物浦から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中、平家の怨霊の仕業といわれる暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。 117.六代の事: 頼朝の代官として都を守護していた北条時政は、「平家の子孫の男子は一人も漏らさず、探し出し、差し出した者には、褒美を与える」とのふれを出した。中でも、清盛の曾孫、重盛の孫で、維盛の嫡子である六代御前(平高清)を探索していたところ、密告によって居場所が判明した。捕らえられた六代は、本来なら鎌倉に送られて処刑されるところであったが、文覚上人が鎌倉まで頼朝を説得しに行き、六代の身柄は文覚に預けられることとなった。 118.泊瀬六代の事: 六代と母は長谷で再会を果たした。母は六代の出家を望んだが、文覚は惜しいとして出家させなかった。頼朝は、六代のことをつねづね不安に思っており、自分の子孫の代になったら何をするかわからないと話していた。これを聞いた六代御前の母は、16歳の六代御前に髪を下ろさせた。頼朝没後、文覚は流刑になり、文覚が庇護者となって一命を救われていた六代も処刑された。享年27。これにより平清盛の嫡流は完全に断絶した。 119.女院の御出家の事: 壇の浦の戦いで心ならずも助けられた建礼門院(平徳子、平清盛の娘、80代・高倉天皇の后、81代・安徳天皇の母)は、1185年に出家し、都近くの吉田にある朽ちた僧坊から、北の小原山の奥にある寂光院に移った。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-10-02 18:40
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