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今年のNHKの大河ドラマ「平清盛」は、汚いとか分かりにくいとかで評判が悪いが、私は毎週楽しんでいる。江戸博の「平清盛展」図録が、非常に役に立っている。今回は、120点の平家物語のミニ扇面図が見られると知って、1週間、「平家物語」の予習をした。そして、作成した15,000字のワード文書をプリントアウトして、根津美術館に出かけてきた。
![]() 画帖の幅は17cmと小さく、色彩豊かに描かれた細密な扇面画には単眼鏡が有用。一人の手による流麗な詞書が金色に輝く装飾台紙に書かれている。 以下は、準備した文書を本日の観賞で修正した記事。 【上 帖】 1.殿上の闇討の事: 昇殿を許された忠盛は、貴族の闇討ち陰謀を切り抜ける。銀箔を貼った木刀を持参したのがミソのようで、それを鳥羽上皇に披露しているところが描かれていた。 2.忠度の母の事: 鳥羽上皇の女房の局のところに扇を忘れてきた忠盛は、彼女の気の利いた和歌で助けられた。忠盛の子・忠度の母はこの女性。 3.鱸の事:熊野参詣の途中で「清盛の船に鱸(すずき)が飛びこむ」という吉兆。扇面では、俎板の上に鱸が載っている。 4.我身栄花: 出家した清盛と平家一門の栄耀栄華。 5.祇王の事: 「仏御前」の出現によって清盛の寵愛を失ってしまった白拍子「祇王」は、別れの歌を襖に描いている。 6.二代の后の事: 藤原多子(まさるこ)は76代・近衛天皇の皇后、次いで78代・二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。 7.額打論の事: 二条天皇の葬送の夜、延暦寺の大衆が、先例を無視して興福寺の上位に延暦寺の額を打ったことに対して揉め、興福寺側が延暦寺の額を切り落とす。 8.殿下の乗合の事: 藤原忠通の子・基房が法勝寺への参詣の途中、鷹狩から帰る重盛の子・資盛と遭遇。この際、資盛側に非礼があったとして基房の舎人が暴力をふるったことを重盛が怒り、基房に報復を重ねた。 9.鹿の谷の事: ![]() 10.御輿振の事: 延暦寺宗徒の強訴、みこしぶり。内裏の警護の侍には重盛の赤旗と頼政の白旗が見える。 11.新大納言の事: 鹿ケ谷の陰謀に参加した成親を激しく責める清盛の姿。 12.教訓の事: 後白河法皇に対して実力行使をしようとする清盛を諌める重盛。 13.阿古屋の松の事: 瀬尾太郎に備中まで護送された成経。父・成親は、備中の有木の別所に移されていた。二人の場所は近距離。成経が瀬尾にその距離を訊ねると、「片道十二 三日」という答だったが、備中・備前・豊後はもとは一国。成経は、ある歌人が陸奥を訪ねた時、「阿古屋の松」は出羽だといわれたが、昔は出羽と陸奥は一国だった」という故事を思い出した。 14.卒塔婆流しの事: 平康頼(清盛の甥の家人)が鬼界ヶ島で流した卒塔婆が、厳島で発見され、都で披露された。異時同図。 15.足摺の事: ![]() 16.御産の巻の事: 中宮徳子、後に77代・安徳天皇となる言仁親王を出産。 17.少将都還りの事: 藤原成経および平康頼、一緒の車に乗って京へ帰ってきた。 18.有王が島下りの事: 俊寛の稚児・有王、鬼界が島に主人を訪ねる。 19.医師問答の事: 清盛の嫡男・重盛、医師の治療を拒否して、病死。 20.法印問答の事: 朝廷に対する不満を持つ清盛と法王から遣わされた静憲法印(信西の子)の議論。 【中 帖】 41.小督の事: 高倉天皇の寵愛を受けていた小督は、清盛に引き離されて嵯峨野に隠れる。帝の命によって探索に出た源仲国は、琴の音をたよりに小督の住まいを訪ねあてる。 42.経の島の事: ![]() 43.祇園の光物の事: 白河院が祇園女御のもとに忍んだ際、光るモノが出現。鬼だと思った白河院は、忠盛に退治を命じたが、忠盛は狐・狸の仕業と考えて殺さなかった。実際には、これは火を持った法師だった。扇面に描かれているのはその場面。院は忠盛の振る舞いに感心し、懐妊していた祇園女御を忠盛に与えた。祇園女御が産んだ男の子が後の清盛。 44.洲俣合戦の事: 1181年、尾張での源平合戦。平氏方は、知盛(清盛の子)・清経(重盛の子)・有盛(重盛の子)・忠房(重盛の子)の3万騎。源氏方は、源行家(為義の子、頼朝の叔父)、源頼朝の弟・義円(幼名:乙若)の都合6000騎で、尾張川(木曽川)を渡った。義円は深入りして平家に討たれ、行家は東へ退いた。知盛が病をえたため、平家の追撃は中止となった。 45.頼朝義仲不快の事: 1183年、義仲追討のため、頼朝は信濃へ出発。義仲は今井兼平を使者にして他意のないことを伝えたが、頼朝が納得しないため嫡子・義重を人質として頼朝のもとへ送った。 46.竹生島詣の事: 平氏北国下向の途中、竹生島を訪れた経正(清盛の弟・経盛の子)はその景色を愛で、経典の「湖中の水晶の山」がこの島だと考えた。 47.火打合戦の事: 義仲が越前に造らせた「火打が城」は、岩壁に囲まれており、前の川の水を石や柵でせき止めて、湖中の城のようになっていた。平泉寺の斎明が、城内から「柵を切り落とせば、水は引いて渡れる」との矢文を平家陣に射た。この内通の場面が扇面に描かれている。平家方は柵を切り、水が引いたところを渡った。 48.木曽の願書の事: 源氏の氏神の八幡宮を見つけた義仲は、書記に願書をしたためさせ、鏑矢に添えて八幡大菩薩の宝殿に納めたところ、雲の中から山鳩が3羽出てきて、源氏の白旗の上に翻った。 49.倶梨伽羅落しの事: ![]() 50.実盛最期の事: 斎藤実盛は、討死覚悟で義仲軍との加賀の篠原合戦に出た。やはり平家方は総崩れになったが、赤地の錦の直垂をつけた実盛は、味方が落ち行く中、ただ一騎、返して戦った。名を名乗らずに戦った実盛は、疲労・手傷・高齢のため、義仲軍の手塚光盛とその郎党に首を取られた。 51.同首実検の事: 義仲は、手塚光盛が持参した斎藤実盛の首が黒髪であることをいぶかって、実盛と親交があった樋口兼光を呼んだ。兼光は一目で実盛と確認し、髪を染めて戦場に出ると話していたことを告げた。たしかに、首を洗わせると白髪だった。 52.玄昉の事: 追討された藤原広嗣の霊を鎮めるため、746年、玄昉僧正を導師にした供養が行われた際、広嗣の亡霊が雷となって落ちてきて、玄昉の首を取って雲の中に入っていった。翌年、玄昉の「しゃれこうべ」が興福寺の庭に落ちてきて、大勢の「笑い声」が轟いたと。「しゃれこうべ」や「笑い声」は、清盛が遭遇した怪異を思わせる。扇面に「しゃれこうべ」が描かれている。 53.摂政殿都に留り給ふ事: 安徳天皇との都落に不吉さを感じた摂政・藤原基通(忠通の孫、基実の子)は供の者に指示して車を返し、都に逃げかえった。 54.維盛都落の事: 都を捨てた平家は安徳天皇を奉じて西国へ落ちて行くが、維盛(重盛の子)とその家族は覚悟していたものの、いざその時がくるとひどく別れを悲しんだ。維盛に従う19歳の斎藤五と17歳の斎藤六は父・斎藤実盛が北国の戦に連れて行かなかったが、今回も同行を許されず、嫡子・六代の守護を命じられた。 55.太宰府落の事: 平家一行は、九州の武士の支援を得られず、大宰府を離れて四国へ逃げた。この状況に、重盛の三男・清経は先行きを悲観して入水自殺。 56.忠度の都落の事: 平家が都落ちする中、清盛の末弟・忠度は、藤原俊成の屋敷を訪れた。忠度は、日頃詠んだ歌の中から100首ばかりを書き留めた巻物を、俊成に渡した。その後、千載集の撰集がなされた際、俊成はこの巻物の中から「故郷の花」の一首を読み人知らずとして載せた。「さざ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山桜かな」 57.経正の都落の事: 清盛の弟・経盛の子の経正は、幼少時、仁和寺の後白河法皇第4皇子・守覚法親王の御所に、稚児として仕えていた。平家都落ちという混乱の中で、仁和寺へやってきた経正は、親王から先年預かった琵琶「青山(せいざん)」を渡し、互いに歌を詠みかわして別れた。 58.青山の沙汰の事: 仁明天皇の時代、藤原貞敏が唐から「玄象」「獅子丸」「青山」という3面の琵琶を相伝してきた。帰りの船旅で、荒波のため「獅子丸」は海底に沈んだが、「玄象」と「青山」はわが国に伝えられた。その後、秘曲を伝え残した廉承武の霊が現れ、秘曲「上玄石上」を「青山」を弾いて村上天皇に授けた。この場面が扇面に描かれている。天皇も臣下も「青山」を恐れ、仁和寺の御室の御所に安置していたが、守覚法親王の最愛の稚児・経正に授けられた。 59.宇佐行幸の事: 安徳天皇を連れた平家は、大宰府から宇佐八幡宮へ行幸した。描かれているのは一行の到着の場面。7日間の参籠にもかかわらず、お告げは芳しいものではなかった。 60.緒環(おだまき)の事: 平家を九州から追い出せという京からの命令を実行した緒方惟義の物語。昔、豊後で、男が通っている女が身ごもった。女は男の帰る姿を見たことがなかったので、朝帰りする男の狩衣に、しづの緒環(おだまき)を縫い付けて、糸を頼りに後を追った。糸は、嶽の岩屋に続いていた。岩屋から出てきたのは高知尾明神の神体の大蛇。女は男子を出産し、大太と名づけられた。惟義は大太の5代目の孫。 61.清経の最期の事: 重盛の三男・清経は、何事にも深く思い入れる性格。ある月夜、船端に出て、横笛を吹き、朗詠をした後、「都は源氏に攻め落とされ、九州では緒方惟義に追い出され、網にかかった魚のようだ。どこへ行こうとも逃れられない。命を流らえるべき身でもない」と、経をよみ、念仏を唱え、海に入った。 62.水島合戦: 都で義仲が評判を落としている時、屋島の平家は、山陽道と南海道の14か国を攻め取った。このため義仲は討手を出した。源氏の軍勢7000騎は、備中の水島の瀬戸に船を浮かべていた。1183年、平家方が1000隻で攻めてきた。大将軍は知盛、副将軍は教経(清盛の弟・教盛の子)。平家は海戦上手になっており、合戦に勝利した。 63.倉光三郎討たるる事: 平家の妹尾太郎は、倶利伽羅峠で義仲に捕らえられたが、一命は助けられて「倉光三郎」に預けられていた。妹尾は、知行地の備中・妹尾を献上したいと申し出た。義仲の許可をもらった倉光が妹尾の案内で備中に向かう途中、備前・三石で酒宴が催された。その夜、妹尾は倉光三郎主従が酔いつぶれているところを刺殺した。 64.同次郎最期の事: 妹尾が主従三騎で落ちて行くところに、かつて倶利伽羅峠で妹尾を生け捕りにした「倉光次郎」が追いかけてきた。降伏を勧められた妹尾はこれに従わず、倉光次郎の首を取った。妹尾は、追撃してきた今井四郎の軍勢の中に駆けこんで討死。 65.鼓判官の事: 京中に源義仲の軍勢が満ち溢れ、方々で押し込みを働く雑兵が現れた。法皇は、これを見兼ねて 狼藉者の退治を義仲に命じた。その使者に選ばれたのは、壱岐守判官知康という鼓の名手で、巷では「鼓の判官」と呼ばれていた男。鼓判官は法皇の命を伝えたが、義仲は耳を貸そうとしなかった。画面に描かれているのは、義仲に完全に無視されている舞い姿の鼓判官。 66.景季馬実検の事: 源頼朝は、「生食(いけずき)」・「磨墨(するすみ)」という2頭の名馬を所有していた。梶原景季が、生食をしきりに所望したが、頼朝は「これはいざという時、自らが乗る馬」と云い、代わりに磨墨を与えた。その後、佐々木高綱が暇乞いに訪れた際、頼朝は高綱に生食を与えた。高綱は「今度の戦いでは、この馬で、真っ先に宇治川を渡る」と告げ、御前から退出した。上洛途中、生食を見つけた景季は、自分を差し置いて、高綱に生食を与えられたことを悔しがった。 67.宇治川先陣の事: クリックで拡大↓ ![]() 68.同大串次郎の事: 続いて畠山重忠が渡るが、敵に馬を射られ、泳いで対岸にたどり着く。岸に上がろうとすると、後ろからきた兵に鎧を掴まれた。この兵は馬を流されたために泳いできたのだが、畠山は自分が烏帽子親となった大串次郎重親だと認め、大串を掴んで岸に投げ上げた。 そこで、大串は「宇治川の歩立(かちだち)の先陣」と名乗りをあげたので、敵も味方も大爆笑。 69.巴が事: 源義仲は、賀茂河原を北に落ちていった。去年に信濃の国を出たときは5万騎と言われていたが、最後には主従5騎になり、その中に、巴も残っていた。義仲は巴に、「お前はここから落ちて行け」と告げたが、巴は、そこへやってきた怪力の御田師重首をねじ切って捨てた。その後、巴は、甲冑を捨て、東国へ落ちていった。 70.木曽の最期の事: 1184年、義仲は自決のため、単身、粟津の松原へ駆けていった。日没ごろで、田に薄い氷が張っていた。義仲は、深みがあることを知らず、田に馬を入れ、泥にはまってしまった。そこに、相模の石田為久が追いつき、矢を放ったところ、義仲の甲の内側を射ぬいた。義仲は馬上に倒れ、為久の郎党がその首をあげた。 71.兼平最期の事: ![]() 72.範頼義経院参の事: 1184年、源範頼と義経は院の御所に参内し、平家追討のために西国へ発向する由を奏聞した。その際、「我が国には神代の昔から伝わる八咫鏡、八尺瓊曲玉、天叢雲剣という3つの宝がある。無事に保管したら、これらを都へ還すように」との仰せが下された。2人は承って退出した。 【下 帖】 82.坂落しの事: クリックで拡大↓ ![]() 83.盛俊最期の事: 越中盛俊は、一の谷の背後を守る平家勢の侍大将。坂東の猪俣則綱が現れて、取っ組み合いになり、越中盛俊が則綱の首を切ろうとしたが、「降人の首をかくことがあるか」といわれ、許してしまった。しばらくして、武者が1騎近づいてきた。盛俊が怪しむと、則綱は「あれは私の友人」と言った。はじめは2人の敵へ交互に注意を向けていた盛俊は、次第に近づいて来る人だけを見るようになった。そのすきに、則綱は立ち上がり、盛俊の胸板を突いて水田に押し倒し、首を取った。 84.忠度の最期の事: 薩摩の守・忠度(清盛の末弟)は、一の谷の西の手の大将軍だった。100騎ほどで源氏に囲まれていたが、防戦しながら退却していった。追いかけてきた武蔵の岡部六弥太の童に右ひじを切り落されて、六弥太に首を取られた。 85.重衡生捕の事: 重衡(清盛の子)は一の谷の生田の森の副将軍だった。重衡と後藤兵衛盛長の主従2騎は味方の船に乗ろうと汀の方へ下りていった。梶原景季が、馬で追いかけてきた。汀には平家の船が多数いたが、敵に後ろから追いかけられている重衡を乗せられずに船を出した。梶原景季が放った遠矢が、重衡の馬に当たり、後藤兵衛盛長は自分の馬が取られるかと思って逃げてしまった。重衡は、切腹しようとしていたところに現れた庄高家に生け捕られた。 86.敦盛最期の事: ![]() 87.浜軍の事: 業盛(清盛の弟・教盛の子)は、常陸の五郎・土屋重行と組んで討たれた。まだ16-7歳の少年だった。 88.同公達討死の事: 経正(清盛の弟・経盛の子)は、武蔵の河越重房らに囲まれて討たれた。清盛の子の清貞・清房、経盛の子・経俊は、3騎連れ立って敵の中に入り、同じ場所で死んだ通盛(清盛の弟・教盛の子)は、敵の大軍に取り囲まれ、弟の教経とも離れ離れになった。自害しようと通盛は、木村成綱と玉井資景ら囲まれて討たれた。 一の谷の合戦で、討ち死にした平家の公達は、通盛(清盛の弟・教盛の子)・業盛(清盛の弟・教盛の子)・忠度(清盛の弟)・知章(知盛の子)・師盛(重盛の子)・清貞(清盛の養子)・清房(清盛の子)・経正(清盛の弟・経盛の子)・経俊(清盛の弟・経盛の子)・敦盛(清盛の弟・経盛の子)の10人。 89.同知章の最期の事: 知盛は、長子・知章と侍の監物頼方を連れて、主従3騎で汀の方へ逃げていたが、まず知章、次いで監物頼方が討たれた。 90.同新中納言落ち給ふ事: 新中納言・知盛は、知章と監物頼方が戦っているすきに逃げ延び、馬を海に入れて、宗盛の船に辿り着いた。知盛は「見るべきものはすべて見届けた。今こそ自害しよう」と云い、乳兄弟の服部家長と手を取り合って海に入った。 91.師盛の最期の事: 重盛の末子・師盛は、主従7騎で小舟に乗り、沖を目指した。そこに、鎧を着た大の侍が、馬から飛び乗ったため、小舟がひっくり返ってしまった。師盛が浮き沈みしていたところを熊手で引き上げられ、首を取られた。師盛は14歳だった。 92.小宰相の事: 通盛(清盛の弟・教盛の子)の侍は、急ぎ通盛の北の方・小宰相の舟に赴き、一の谷での通盛の最期を告げた。北の方は一旦伏してしまったが、すきをみて起き上り、月の入る方角の山の端に向かって念仏を唱えながら、海に身を投げた。 93.内裏女房の事: 生け捕りとなった重衡(清盛の子)は、都へ入って大路を引き回された後、八条堀川の御堂に監禁されたが、北の方である大納言典侍・輔子とは言づてや手紙での連絡の他に面会も許された。この面会の場面が描かれている。 94.八島院宣の事: 後白河法皇から、三種の神器を都へ返せば重衡の命を助けるという院宣が屋島の平家へ下された知盛は「たとえわが朝の重宝・三種の神器を都へ返したとしても、重衡が返されることはないだろう」と云い、宗盛も拒絶することに同意した。この場面に描かれている平家の重鎮は男性のみ。 95.請文の事: この場面では、女性も描かれている。重衡の母で清盛未亡人の二位の尼のところに重衡から手紙がきた。受け取った二位の尼は、宗盛に「三種の神器を返す」よう嘆願したが認められず、泣きながら返事をしたためた。重衡の北の方・大納言典侍・輔子は何も言わず、衣服をかぶって伏した。 96.千手の前の事: 鎌倉では、重衡(清盛の子)は藤原宗茂の許に預けられていた。頼朝の命令で20歳ほどの女房「千手の前」が、折節、琵琶を持って重衡のもとに現れ、酒を勧めて酌をし、和漢朗詠集を朗詠したり、今様を歌ったりした。重衡も、これに応えて、盃を差し出し、琵琶を弾いたり、朗詠したりするようになった。重衡が奈良を引き回されて斬られたと聞いた千手の前は出家して、重衡の菩提を弔った。 97.横笛の事: 維盛(重盛の子)は、1184年3月、屋島の館を忍び出て、紀伊に渡った。妻子のいる京に行くのは危いので、まず高野山へ参詣することにした。高野山には、知己の斎藤時頼が「高野の聖」という名で住んでいた。「横笛」は、この斎藤時頼が寵愛していた女性。父に反対された時頼は出家して、嵯峨の往生院での修行生活に入ったが、時頼の出家を聞いた横笛は、嵯峨に向い、僧坊から読経の声が聞こえたので、声を掛けた。時頼は、驚き、胸が騒ぎ、障子のすき間から覗いたが、人をして「ここにはそのような人はおりません」と言わせた(この場面が扇面に描かれている)。涙を抑えて帰った横笛は出家し、まもなくこの世を去った。 98.高野の巻の事: 斎藤時頼は、高野山まで訪ねて来た維盛に、屋島から逃れてきた理由を尋ねたところ、「都を一門といっしょに出て、西国へ落ちたのだが、故郷に残してきた幼い子どもたちの面影ばかりが浮かんでしまい忘れることができない。ここで出家し、熊野詣をしたい」との答。時頼は「夢幻の世の中は、古今集に詠われたように『とてもかくても』同じこと。後世の長き闇こそ心憂く思うべきだ」と教え、時頼を先達にして、堂塔を巡礼し、奥の院へ参った。 99.維盛の出家の事: 28歳の維盛は、同年の与兵衛重景と18歳の石童丸とともに、時頼のもとで出家し、揃って熊野に向かった。 100.維盛の入水の事: ![]() 101.藤戸の事: 源範頼(義朝の子)・足利義兼・北条義時・斎院次官親義ら3万騎が、平家追討のため、都から西国へ出発し、備前の西川尻の藤戸に陣を敷いた。迎え撃つ平家方の平資盛(重盛の子)・有盛(重盛の子)・忠房(重盛の子)は、500艘の兵船で、屋島を出発し、備前の児島に到着した。平家の血気はやる兵たちが小舟で漕ぎ出し、扇を掲げて挑発した。これに対し、近江の佐々木盛綱が、浦の男に馬で渡れる場所を教わり(描かれた光景)、郎党と共に7騎で海に入り、渡り始めた。これを見た範頼が「海は浅いぞ。渡れ、渡れ」と命令を下し、源氏3万騎が一斉に、海へ入った。平家の船は沖に逃げ、源氏は児島に上陸した。翌日、平家は、屋島へ退却していった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-09-21 01:39
| 江戸絵画(浮世絵以外)
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