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第4章は、「移動派の旗手として:サンクト・ペテルブルグ」
1882年9月、レーピンは家族とともにサンクト・ペテルブルグに移った。 レーピンは、ロシアの僻地の芸術活動を活性化するというクラムスコイが主導する「移動美術展覧会」の理念に賛同し、これに欠かさず出品していた。 最初の出品は1874年の第3回移動展で、出品作品は既述の《ウラジミール・スターソフンの肖像》だった。 1978年の第6回移動展には《長輔祭》など、1879年の第7回移動展には《皇女ソフィア》、1880年の第8回移動展には《新兵の見送り》、1881年の第8回移動展には《ムソルグスキーの肖像》や《夕べの宴》など、1882年の第10回移動展には《休息-妻ヴェーラ・レーピナの肖像》など、1883年の第11回展には《クールクス県の十字架行進》など、1884年の第12回展には《思いがけなく》を出展しており、その後も1916年の第45回移動展まで出品を重ねていた。 《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》の習作↓が出ていた。発作的に息子を殺したイワン雷帝が血に染まる息子をかかえている姿はドラマチックである。この完成作↓↓は一旦公開禁止となったこともうなずけるところである。その後、この完成作はあるイコン画家によって大きく傷つけられ、その責任をとってトレチャコフ美術館の学芸員が自殺し、館長が辞任に追い込まれたといういわくつきの作品でもある。 患者の右腰部の病巣に鑿を当て、木槌でこれを切除しようとしていると思われる外科医は手袋なしの素手であり、マスクもつけていない。男性の足持ちが2人、手抑えの女性と男性、助手の外科医が1人、その他何名もの看護師の他に、見学者らしき男性も描き込まれている。実にリアリティに富んだ作品。余計なことだが、局所麻酔でこのような手術を受けた患者はさぞ痛かっただろう。 美術散歩 管理人 とら 【註】 その1、その2、その3、その4、その5
by cardiacsurgery
| 2012-08-08 00:24
| 国外アート
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