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東京国立近代美術館に153点の戦争画が残っている。これについては、自分自身でリスト「東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展 一覧」を作成している(こちら)。
これらは国民の戦意高揚のために、日本軍が画家たちに描くことを命じたものであるが、藤田嗣治は率先してこの戦争画を描いた結果、現在、東京国立近代美術館に14点もの作品が残っている。これについて自分で作成したリスト「藤田嗣治戦争画一覧」は、こちらである。 もちろんこの戦争画は他の有名画家も描いていた。中村研一の《マレー沖海戦》↓、鶴田吾郎の《神兵パレンバンに降下す》↓↓、向井潤吉の《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》、宮本三郎の《山下、パーシバル両司令官会見図》↓↓↓などが、その代表的なものである。 ![]() ![]() ![]() わたしはこの戦争画の問題について、自分のホームページやブログで、これをまとめてデータベースあるいは展覧会で公開すべきであるとの意見を述べてきた(「さまよえる戦争画」再考の記事)。 ごく最近も、「東京国立近代美術館開設60周年」の記念企画展覧会としたら良いのではないかとの具体的な提案を行った。 ということで、今回の番組を非常に興味深く見た。 この番組に出演されたのは、以下の7氏である。 ・画家 野見山暁治 ・美術研究家 笹木繁男 ・画家 司 修(この方の著書のレビューはこちら) ・画家 菊畑茂久馬 ・アッツ島生還者 佐々木一郎 ・東京国立近代美術館美術課長 蔵屋美香 ・サイパン島住民生還者 松永恵子 それぞれにしっかりとした発言をされていたが、特にアッツ島やサイパン島から生還された方お二人の経験談は、忘れてはならない重大な証言であった。 さて、太平洋戦争の初期には、日本軍は太平洋の島々を次々と占領していった。 藤田が昭和17 年に描いた《十二月八日の真珠湾》↓は、奇襲当日の軍の写真をもとにしたものだった。 ![]() 同じく昭和17 年の《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 》は、現地に赴いて描いたスケッチをもとにしていた(この画は藤田嗣治展で見た↓)。 ![]() 昭和18 年の《アッツ島玉砕》と昭和20 年の《サイパン島同胞臣節を完うす》は、非常に凄惨な画であり、特に問題となる作品である。 私自身、ホームページやブログで、この二つの画について何度か記事を書いており、その中で東京国立近代美術館で撮った写真をアップしている。以下、これらの画像を参照しながら、今回の記事を書き進めていくことにする。 まずは《アッツ島玉砕》の話となった。私が東京国立近代美術館で撮ってきたこの画の写真は↓である。 ![]() 藤田の《アッツ島玉砕》では、この時の肉弾戦の様子が描かれ、立ち上がって号令をかける日本の指揮官、米兵に銃剣を刺す日本兵が描かれている。 米軍の捕虜となってアッツ島から生還した佐々木一郎氏の証言では、「圧倒的に性能の良い米軍の鉄砲に向かって突撃していっただけで、とても肉弾戦といえるものではなかった」とのことである。 昭和18年5月30日の大本営発表は、「山崎部隊は増援や補給の依頼を全く行うことなく、全員玉砕した」と伝えた。「全滅」に対して「玉砕」という美化した言葉が使われたのは、この時が最初である。 藤田は20日余りで、まったく想像でこの画を描いた。「戦地に赴かなくても、ちゃんとした絵描きならチャンバラは描ける」と豪語していたとのことである。 三か月後に、上野でこの画が公開された。画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。藤田は軍装で、直立不動の姿勢で画の傍に立っていた。何かが乗り移ったようだったとのことである。藤田は、自分の画が拝まれたことを見て、「これこそ快心作だ」といったともいう。 菊畑茂久馬氏は、この画から崇高な祈りが生まれてくるのを目撃して、自分自身、感動に立ちつくした記憶があるとのこと。「藤田は、絵描きの業として、西洋人に匹敵する歴史的名画を描く好機が到来したと思ったのであり、この画はプロパガンダといったものを突き抜けた名画である」というのが菊畑氏の意見である。 東京国立近代美術館美術課長の蔵屋美香氏は、「西洋で位の高いとされている歴史画に挑戦してみたかったのでは」という説明をされた。「藤田がフランスで描いていたのは、乳白色の肌の裸婦像だったので、戦争が歴史画としての格好の画題だったのだ」という一般的な見方を紹介された。 「山崎部隊合同慰霊祭」では、2638名が「軍神」として祀られ、アッツ島玉砕が紙芝居や顕彰国民歌のテーマとなった。 藤田の描いた《アッツ島玉砕》は、全国を巡回展示し、「玉砕を美化する」という軍部のプロパガンダの一翼を担った。 笹木繁男氏は、「何かそこに光明がないと、利用できないので、軍神に祀り上げ、さらなる戦意を鼓舞したのであり、その意味で、藤田のこの画は戦意高揚を企図した教科書的な絵画となった」と述べられた。 次は、《サイパン島同胞臣節を全うす》↓の物語。 ![]() 暗い中、赤ん坊に乳を飲ませる母親、自分の足で銃を引く日本兵、崖より投身する女性たち↓の姿が描かれている。 ![]() 米軍は、昭和19年6月15日に7万人が上陸、わずか1月で住民を含む日本人4万人が戦死した。当時サイパン島に住んでおられた松永恵子氏の記憶は鮮烈である。 壕に隠れていた時に、『赤ちゃんを泣かすな』と責められた夫婦が、『その子を殺して埋めて帰ってきた』という話は真実の証言。岬から飛び降りる女性たちのうめき声や恐ろしい音を聞いていたという話も耐え難い。 米軍が撮った動画であろう。女性の飛び降りる姿が放映された。ショッキングの極みである。 大本営発表は、「在留邦人が軍に協力し、将兵と運命をともにした」と伝え、自決を賛美したが、その光景を明らかにすることはなかった。 それでは、藤田は想像力だけで、これだけリアルな場面を描けたのだろうか? 藤田は、米誌タイムの記事を引用した朝日新聞から、サイパンの実況を知ったのである。藤田の画にある優秀な日本の狙撃兵↓、赤い櫛で長い髪をくしけずる女性↓↓、崖から飛び降りる非戦闘員↑などは新聞記事に載っているものである。 ![]() ![]() 東京国立近代美術館美術課長の蔵屋美香氏は、藤田の想像力の源として、ルーブルなどにあるいくつかの西洋の歴史的名画を取り込んだ可能性があるとの説を出された。 第1は、藤田の画の中で、寄り添うように描かれている三人の女性像↓は、キリスト教絵画の3人の人物像を彷彿とさせるということである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 昭和20年3月10日に、東京大空襲があったが、藤田のサイパンの画は4月13日に上野の美術館で公開された。これを見た人は、「誰の胸にも固い決意が湧いてくる画だ」と思ったとのことである。 この頃、沖縄に米軍が上陸し、軍民一体となって動員され、15万人以上の沖縄県民が犠牲になった。 しかし、菊地氏は、「こんな悲惨な画が戦意高揚になりますか?」という疑問文で、藤田のこの画の芸術性を暗示された。 また、野見山氏は、当時この画を見て、画家の業のようなものを感じ、「自分が描いたら、憲兵に引っ張られるような」反戦的な画だと感じたという。 司修氏は、これに対して、「悲惨なもの」を「勇気あるもの」と捉えさせ、「一億玉砕」の信念を植え付けたのだとの意見だった。 私は、司氏の意見に全面的に賛成であり、菊地氏や野見山氏のような画家の藤田擁護論には同意できない。 沖縄において、「ひめゆり部隊」など多数の国民が玉砕した悲劇の根源は、この藤田の画を利用して軍部が日本国民に植えつけた「一億玉砕」の精神だったからである。 8月15日に終戦になると、藤田は全作品をアトリエに運び込み、日本語の署名に英語で T. Foujita というサインを追加し、皇紀2605年を1945に書き変え、「我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤トナラン」という文を消したりした。これらは、野見山暁治氏の重大な目撃証言である。 「藤田のこの画には戦意高揚と悲劇賛美の二面性があるが、画が描かれた時代背景を十分に理解したうえで評価しなければならない」という笹木繁男氏の意見は正論であると思う。 戦後の価値観の変化に伴い、藤田は批判を受けた。宮田重雄はその急先鋒で、「藤田は軍部に阿諛した茶坊主で、美術家全体の面汚しであり、当分画業を謹慎すべきである」という文を新聞に載せた。 藤田はこれに反論し、「画家は本来、自由愛好家であり、自分は国民的義務を果たしたに過ぎない」と述べている。 GHQは、これらの戦争画は軍のプロパガンダと捉えていたが、藤田の責任は問わなかった。藤田は、昭和24年に、「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」との捨て台詞を残して、米国経由で、フランスにわたり二度と日本に戻らなかった。 なかなか面白い番組だったが、今回も戦争画の公開については議論がなされなかった。美術館関係者、評論家、画家、被害者が揃っていながら、肝心の問題は先延ばしである。 これでは、NHKのメディアとしての姿勢が問われる。残念な番組だった。 美術散歩 管理人 とら 【追記】 2012年8月26日朝と夜の日曜美術館で放映された「藤田嗣治 玉砕の戦争画」を見た。 番組の概略はこちらのページを参照されたい。 出演者は、7月にも出演された笹木繁男氏(戦争画研究者)、VTR出演者は野見山暁治(画家)、菊畑茂久馬(画家)、司 修(画家)の3氏であり、内容的にも上記の番組の焼き直しであった。 しかし、戦争画の話が「戦争を知らない若者たち」に拡散していくことは非常に大切である。 今回の内容で、7月の「究極の戦争画-藤田嗣治 @NHK: 極上美の饗宴」になかったことだけを追記しておきたい。 1.藤田嗣治が描いた戦争画の数 東京国立近代美術館で保管されている藤田の戦争画は14点のみであるが、これは米軍に接収されたものだけであり、実際に藤田が描いた戦争画の数は、油彩だけで百余点、スケッチなどを加えると数百を下らない。(笹木繁夫氏談) 2.戦争の経過と藤田嗣治の戦争画への関与 ・昭和12年 日中戦争始まる。 ・昭和13年 藤田は中国に派遣され、現地を見て、日本軍の華々しい戦果を描いた。《南昌新飛行場焼打(昭和13-14 年》↓。 ![]() ![]() ・昭和16年12月8日 太平洋戦争勃発。 ・昭和17 年 藤田《十二月八日の真珠湾》を描き、第1 回大東亜戦争美術展に出展。この画は奇襲部隊が撮った写真を基にして描かれた。 ![]() ・《血戦ガダルカナル(昭和19 年)》↓ ![]() ・《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(昭和20 年)》↓ ![]() ・《アッツ島玉砕 (昭和18 年)》および《サイパン島同胞臣節を完うす (昭和20 年)》については、今回も詳しく述べられた。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-07-12 15:04
| 戦争画
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