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「日中国交正常化40周年記念」という副題で、昨年5月に東京を皮切りに全国各地で開かれる予定の展覧会だったのだが、東日本大震災の影響で東京での開催は 2012年にずれ込んでしまったのである。
内容的には、東博展は故宮の皇帝展であったが、今回の富士美展は故宮の后妃展である。自分の頭から離れない浅田次郎の「蒼穹の昴」が、再びよみがえってきた。 展示内容はこちらに詳細に掲載されているので、この記事では、この展覧会で見た多数の清の后妃たちに視線を向けた各論的な文章にしてみたい。 1.后妃章 @《女孝経図》 海外初公開の国家一級文物である《女孝経図》は、儒教思想に基づく女性の徳と教育をテーマに九つの場面を描いた、南宋時代の名画。その一つの《后妃章》↓は「后妃が実践する孝は天下の模範であること」について記したもの、また《三才章》↓↓は「一家の尊敬と礼儀」について述べたものである。こういった発想は、現代の男女機会均等社会の常識からはひどくかけ離れたものであるが、徳川幕府の「大奥」でも同様な規範で女性が律せられていたのである。 3.考儀純皇后(魏佳氏) 乾隆帝の第15皇子、後の嘉慶帝の子供時代とその母親・魏佳氏↓。肖像部分はカスティリオーネが描いている。 《乾隆帝及妃威弧獲鹿図》すなわち「乾隆帝の鹿狩り図」(部分)↓で、帝に矢をわたしている妃は、髪型や顔の特徴からみて西域から嫁いできた容妃、すなわちで香妃である可能性が強いとのこと。↓↓は台北にある香妃の像の部分。こちらも勇ましい軍装である。 元来は満州族の出自である清朝の皇帝も、初代・順治帝の母は蒙古族の孝荘文皇后、二代・康熙帝の生母は漢族の孝康章皇后というように満州族・蒙古族・漢族の血が混ざってきていたが、五代・乾隆帝は、さらにチベット仏教を信奉し、西域との関係を深め、回教も容認していた。容妃を大切にしたことについても、このような乾隆帝の考え方が基盤にあったのだろう。容妃が乾隆帝の子供を産まなかったことは、まことに残念なことであった。 5.孝貞顕皇后(東太后慈安) 6.孝欽顕皇后(西太后慈禧) 満州族出身の西太后は、病弱の夫「咸豊帝」を意のままに操り、人望の厚い 孝貞顕皇后(東太后慈安)や咸豊帝の弟の恭親王奕訢を抱き込んでいた。夫の死後、6歳のわが子を帝位につけ、垂簾政治の実権を握った。 西太后の思惑が外れたのは、成人した同治帝が皇后に選んだのは、東太后が推した女性だったことである。同治帝の急死後、西太后の復讐を恐れたこの孝哲毅皇后(嘉順皇后)は、断食により、胎児とともに衰弱死したとのことである。 同治帝死後の皇帝選びの際には、同治の妹の子を強引に押して、第九代・光緒帝を誕生させた。 やがて、東太后の急死事件が起こる。公式発表は病死であったが、西太后が関わったとする毒殺説もある。また、清仏戦争敗北の責任を恭親王に被せて失脚させた。このように、東太后の死去と恭親王の失脚によって、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。 光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 光緒帝の皇后には、自分の姪を強引に押し付けた。これが「孝定景皇后」である。ちなみに、彼女は光緒帝から敬遠され、西太后の影のような立場だったが、6歳の宣統帝溥儀の退位の詔勅を自分の名前で公布し、封建制へのピリオドを打つという歴史的な役割を果たした。 光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務派官僚を登用した。しかし洋務運動は日清戦争により挫折し、体制的な改革を主張する変法運動がまきおこった。光緒帝は変法派を登用して、体制の抜本改革を宣言した。袁世凱が変法派の西太后幽閉計画を密告したことにより、西太后はこれに先んじてクーデターを仕掛け、変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を幽閉した。 1900年に、義和団の乱が発生。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は光緒帝を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。 この際、同行を拒否した光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。この珍妃の印鑑↓が今回展示されていた。またこの井戸は現在も紫禁城内にあり、その写真も出ていた。 最後に、西太后の毒気の口直しとして、明代の国家一級文物のお気に入りを一点。仇英の娘、仇珠の《女楽図》↓(拡大↓↓)である。ハープのような楽器(箜篌-クゴ)の弦が一本一本正確に描かれていることを双眼鏡で確認した。少女が持っているのは打楽器の拍板(パイバン)らしい。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2012-03-30 14:04
| 東洋アート
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