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2008 年に放送されていたハイビジョン特集『源氏物語 一千年の旅~2500枚の源氏絵の謎~』のアーカイブを視聴した。当時、横浜美術館で源氏物語千年紀の展覧会を見て、詳しい記事をアップしているが、なぜかこの番組は見逃している。素晴らしい内容だったので、大分アウト・オブ・デートとなってしまっているが、メモを残しておきたい。
1.宮廷の源氏絵 国宝《源氏物語絵巻》は源氏物語が紫式部によって書かれてから百年ほど後の平安後期(12世紀)に描かれたもので、最古の源氏絵である。 平安時代の「長秋記」によると「上皇から命が下った」とされており、これは白河上皇であると考えられる。幼い時に母と別れた白河院は、女性問題では光源氏と重なる面を持っていた。白河院が養女として育てた待賢門院璋子に手を付けてしまったことなどはその好例である。 「中右記」によると、当時、いったん途絶えていた「青海波」の舞を復活させたのも白河院で、これらによって源氏物語が権力の象徴という意味を持つようになったということが分かる。実際、白河院は22回もこの舞の予行演習をさせたとのことである。この舞は、周知のように、第7帖「紅葉」で、桐壷帝と藤壺が見る中、自分の友人の頭中将とともに舞うもので、いわば光源氏のデビューの姿である。 2.武士の源氏絵 2007年、フランスのセリエ社が源氏絵集Le Dit du Genjiを出版した。これは7年がかりで19ヶ国から集めた2500枚の源氏絵画像のうち520枚を掲載した豪華本である。全3巻で480ユーロだから、円高の現在では買えない値段ではない。番組では、この本に収載されている作品の中から、ドイツ(個人蔵の屏風)、フランス国立図書館、アイルランドからの実物映像として見せてくれた。 フランス国立図書館の研究者(レジェリー準教授)は、これらの源氏物語絵巻の制作年代が平安時代から500年くらい経った16-17世紀に集中していることを見出した。その時代、誰が、何のために描いたかということが問題となるのだが、ハーバード大学サックラー美術館に所蔵されている「源氏物語画帖」では、平安時代の優雅な宮廷風のものと異なり、人物が勢いのある線で描かれ、荒々しい画風となっている。 ハーバード大学のマコーミック準教授は、画の裏に6人の人名が書かれており、その一人が三条西実隆であることを見出した。紙は陶三郎、注文主は山口の大内左京太夫義興であることも分かった。当時、大内氏は中国・朝鮮との貿易によって富を築き、永正5年、西国の雄として都に上洛し、その翌年太政大臣の位を得て、画帖を発注した。第12帖「須磨」では小さな舟ではなく、大きな遣明船が描かれている。また、第25帖「蛍」の流鏑馬の場面には、従来主役として描かれていた光源氏は御簾の中に隠れ、勢いのよい武士が主役となっている。このように、天皇や公家のものとして享受されてきた源氏物語が武士のものになったことを意味している。 源氏絵は、時代別にいうと、平安時代に20枚、鎌倉~戦国時代に200枚、安土~江戸時代に2,200枚描かれており、圧倒的に安土~江戸時代のものが多い。 織田信長も上杉謙信に源氏物語を題材にして描かれた屏風を贈っている。これは自分の方が早く都を掌握しているのだと示す行為とも解釈できるという。秀吉も、自分の勉強のため「源氏物語のおこり」という文章を残している。家康も「初音」を高い声で謡っていた。三代家光の娘の嫁入りにあたって作られた「初音の調度」には源氏物語の場面がちりばめられている。 3.謎の源氏物語絵巻 17世紀後半に謎の源氏物語絵巻が作られている。石山寺に残っているものは「末摘花」を扱った6巻で、重文であるが、本文がすべて描きこまれ、豪華絢爛な金箔や金粉が使われている。 フランスのアビニヨンのメリー・ドウシ氏の手元に、石山寺のものと同じような豪華な絵巻のカタログが残っている。それは第10帖「柏木」で、6巻に分かれ、31枚の画が描かれている。これらは画商が切って売り払ってしまったという。 上述のレジェリー準教授は、この31枚を探し回っており、その一枚を発見した。その中には、光源氏が朧月夜と密通しているところが描かれている。彼女は光源氏の政敵右大臣の娘で、右大臣によって謀反の罪をきせられて須磨に流されている。これは今までの源氏絵の伝統に逆らった図柄で、光源氏の逆境が描かれているのである。 立教大学の稲本準教授らは、この31枚の中の別な1枚が、ニューヨークのバーク財団にあることを知って、訪れている(参照)。これはフランス人画商からオークションで入手したものであるが、不義の子供を産んだ藤壺が出家するために髪を下ろそうとしている場面など、これも今までに描かれなかった場面である。ニューヨークのパブリック・ライブラリーにもこのような豪華絢爛な黄金の源氏物語絵巻が残っており、稲本準教授らが見ているところも放映された。これにも詞書がすべて書かれており、烏帽子も装束もつけない光源氏が空蝉を襲うといった性的なシーンも描かれていた。 稲本準教授は、第一に、黄金の絵巻を描いたのは宮廷と関係のある京狩野の絵師であり、作らせた人物としては、光源氏も赤裸々な姿を書かせるくらい力のある人物として、後水尾天皇をあげている。 当時、後水尾天皇は秀忠に二条城に呼びつけられて、青海波の舞の際に筝を弾かされて、宝生院に「忍」という掛け軸を残しているほど、禁中公家法度によって徳川幕府にいじめられていた。 そこで後水尾天皇は、今まで描かれなかったような場面を選んだ豪華絢爛な源氏物語絵巻を作らせることで、徳川への対抗意識を明らかにしたのではないかという。具体的には、第10帖「賢木」では、桐壷帝崩御の際には喪服を着た光源氏が描かれ、右大臣の権力奪取に対抗して宮廷に出仕しなくなった「韻塞ぎ」の場面、正統性を示す史記の言葉を表す「負けわざ」の場面などが描かれている。 このように、各時代の権力者が次々と源氏物語を求め光源氏を描かせていったということが見えてくる。源氏物語は自らの権威を示す政治的なものとして機能してきたのだった。 4.江戸時代後期の源氏絵 その後の江戸時代後半には、「偽紫田舎源氏」などが大流行し、大奥への関心とともに町民の中に源氏物語と源氏絵が浸透していった(参照:浮世絵の中の源氏絵)。角田氏の所蔵する「艶紫娯拾余帖」は、春画であるが、空摺りや金銀埋め込みなど最高水準のものであった。 5.明治以降の源氏絵 明治以降は内村鑑三が「女らしき意気地なし」として源氏物語を排斥し、源氏絵は海外に流出し続けた。 一方、ロンドンの大英博物館の学芸員だったアーサー・ウェイリーは、豊国の「須磨」の版画に見られる光源氏のはかなくわびしい姿に惹かれ、10年かけて源氏物語を英訳した。このThe Tale of Genjiが大評判となり、世界の12大小説の一つとされるようになった。一番有名なのは、女三の宮・猫・柏木のシーンである。ドナルド・キーン氏が日本文学に傾倒するようになったのもこのアーサー・ウェリーの翻訳を読んでからとのことだった。 この海外での好評、によって、日本でも源氏物語が息を吹き返し、谷崎潤一郎が現代語訳を始めた。しかし昭和14年の訳では、天皇家の不義の箇所はすべて削除され「骨抜き源氏」といわれるものだった。 戦後になって、谷崎は削除部分を復活した新訳を昭和26年に出し、その後、多くの現代語訳、長谷川一夫・乙羽信子の映画となり、さらに1700万部の「あさきゆめみし」などの漫画となって源氏絵は現在に生きている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2011-11-30 15:36
| 国内アート
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