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15世紀、バチカンは苦境に立っていた。東ローマ帝国が衰微し、イスラムに対して自らを防衛しなければならなくなったからである。バチカンは自ら要塞を持たざるをえなかった。システィーナ礼拝堂はその要塞の中にあるが、教皇がミサを行うキリスト教の中心の場所である。この場所の画の中にギリシャ神話やユダヤ教の話、さらには暴力的な天使まで描かれているのはなぜなのだろうか。これは当時のユリウス教皇が、人々を不安にさせる作品の力を利用して人々の心をとらえようとしたからである。
システィーナ礼拝堂はバチカン美術館の一部となっているが、ここには異なる時代の異なるメッセージの壁画が並存している。 その一は、礼拝堂の両側面に描かれた聖書の物語である。一つの側面にはモーゼの物語、他の側面にはキリストの物語が描かれている。ペルジーノ、ボッチチェリ、ピントリッキオ、ギルランダイオ、ロッセッリ、シニョレッリがその制作に加わっているが、人物に動きが少なく、聖人には光輪が付けられている。 このような側面の壁画が描かれたのは、ミケランジェロが天井画を描く30年前のシクストゥス4世の時代のことであり、キリスト教の権威と伝統を守ることを目的としていた。この時代、天井には青い星空だけが描かれていた↓。 ![]() ユリウス↓は「恐るべき教皇」と呼ばれていた。もちろんこのことは批判の対象となったが、自ら戦場に出て、白いマントを着て、剣を持って戦ったほどである。15世紀は大航海時代であり、新しい価値観が求められ、キリスト教は衰退していた。 ![]() ![]() ミケランジェロは、1508年から4年間を費やして500㎡の天井画を完成したが、そこに描かれているのは裸体に関連するものばかりだった。その内容は伝統的なものと大きく異なっており、《アダムの創造》の神は人間と並列の位置に置かれ、神自身が中世のものとは異なって忙しく立ち働く姿で表現された。すなわち、この天井画は人間中心であり、すべての者がいきいきとした姿で描かれていたのである。 これはどうしたことなのだろうか。その答えはフィレンツェのミケランジェロ博物館に残っている手紙などの資料から知ることが出来る。ユリウスの最初の希望は「キリストの十二使徒を描く」というものであったが、ミケランジェロは「それでは貧弱なものになるので、違うテーマで描く」と答えている。 絶大な権力を持つユリウス二世がどうしてこのミケランジェロの提案を了承したのだろうか。そこには教皇の信任の厚かった「エジーディオ・ダ・ヴィテルボ」枢機卿というキーパーソンがいたからである。 エジーディオはヴィテルボ村の教会や近くのマルタ島の修道院で聖職者としての研鑽を積み、当時免罪符の販売や聖職の売買の横行といった堕落した教会を本来の姿に戻すには聖職者自身の意識を改革して、中世の閉ざされたキリスト教を変革することが必要であり、それには「人々が神に祈る」ことだけを重視していくべきであるとの結論に達していた。 エジーディオはローマで枢機卿となり、教皇の代弁者ともなった。1507年にポルトガルがマダガスカル島を発見したことを讃える祝賀のミサでは、エジーディオが説教を行っている。この説教の内容が残っているが、それは「新世界は神から与えられたもので、ユリウス二世の時代に黄金時代が訪れる」とし、キリスト教の本質的な復活を告げるものあった。 当時フィレンツェは、14世紀以降、メディチ家の支配のもとに都市文化が栄え、ルネサンスが花開いていた。東方ビザンチン教会と西方ローマン・カトリック教会が対イスラムの目的で集合した合同会議もフィレンツェで開催され、これを題材としたメディチ・リッカルディ宮殿にあるベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画《東方の三賢王》の中には、ビザンチンの代表者たちに加え、コジモ・メディチの顔も描きこまれているほどである。 ビザンツ帝国にはギリシャ文化が残っており、西方では失われてしまっていた「プラトン主義」を伝える文書が、この会議の折にフィレンツェにもたらされた。この「プラトン全書」がマルシリオ・フィチーノによってラテン語に翻訳され、プラトン・アカデミーが設立されるに至った。ここではギリシャ哲学が受容され、その庭園にはギリシャ・ローマの彫刻が並べられていたとのことである。若いミケランジェロもこのプラトン・アカデミーに学んでおり、16歳の折に作った《ケンタウロスの闘い》↓にはギリシャ神話を題材にした裸体が沢山彫られている。 ![]() 出来上がった天井画には異教のテーマであるユダヤ教の預言者やギリシャ神話の巫女が含まれているが、このような主題はエディージョが考えたストーリーそのもので、ミケランジェロは実際に描くだけだったとのことである。 ![]() この画が意味するのは、エジーディオの考える教会本来の姿、すなわち「異教の地への布教による教会の拡大」だったのである。結果として、この天井画はギリシャ文化・ユダヤ文化・カトリック文化を融合した新たな文明の創生を指向したものとなったが、これはユリウス二世・エジーディオ・ミケランジェロという3人の合作であるともいえるのである。 ミケランジェロの肉体の描写については、サント・スピリト教会にその鍵がある。ミケランジェロはそこの《木彫りのイエス像》の肉体表現のために、修道院の病院で人体解剖を行ったのである。当時、人体解剖は医科大学以外では禁じられており、ミケランジェロは解剖された若者の遺族から訴えられたが、修道院長は「天才は例外である」と認めたとのことである。ミケランジェロは人間の裸体を芸術で再現しようとしたのであり、そのために解剖を行ったのであった。システィーナの天井画については2枚のデッサンが提示されたが、これらはミケランジェロが人体の筋肉の動きを十分に研究していた証左である。 ミケランジェロが脳の断面を知っており、これが《アダムの創造》に利用されているとの説を 早速、PubMedで検索してみると、当該文献は以下の通りであることが判明した。著者の所属は、聖ヨハネ病院St John's Medical Center, Anderson, Ind.であり、放送のジョンス・ホプキンス大学Johns Hopkins University, Baltimore, Md.とは似て非なる施設。たまたま私が後者に留学していたので気になった次第である。 ○著者: Meshberger FL.ミケランジェロがこの天井画に描いた物語はユダヤの民の救済の物語であるという考え方もある。当時ローマでは、ユダヤ教は異教とされていたが、ミケランジェロはユダヤ教に親近感を抱いていた。ユダヤ人は布地産業に携わることが多かったが、ミケランジェロの親戚には布地を扱っていた者がいたという。ミケランジェロが、この絵の中にユダヤ教の教えを隠し描いているとの考えも紹介された。《アダムとイヴ》については、キリスト教ではリンゴ、ユダヤ教では果実(イチジク)であるが、システィーナにはイチジクが描かれている。《大洪水》の場合、キリスト教では船であり、ユダヤ教では箱であるが、ここには箱が描かれている。 ミケランジェロは1527年に起こったフィレンツェ革命の革命側に味方し城壁案を書いたりしているが、革命軍の仲間からも裏切られ、革命を支持したとして命を狙われるが、その時にミケランジェロが2ヶ月間身を隠した隠し部屋がサン・ロレンツォ教会のメディチ家廟にある。ここで1974年の法律改正に応じて非常口を作るため、置いてあったタンスを動かしたところ、隠し部屋へ降りていく階段が見つかったのだという。この隠し部屋の壁にはミケランジェロの人体スケッチが沢山残っている。このことは今回初めて知った。 ![]() ミケランジェロが33-37歳時に描いた楽観的でエネルギーに満ちた天井画と1536-41年(61-66歳)の5年間で仕上げた画との違いはショッキングなほど明らかである↑。《最後の審判》は全体として恐怖を描いた画となっており、若い時の天井画に描かれた若者がすべて悪者になってしまっている。《最後の審判》は人類を悲観的にドラマチックに描いているのであり、同性愛者であり、神経病みで、孤独で、不快な人間であったミケランジェロそのものの表象であるともいえる。 「レオナルドの謎」については、近年いくつも見聞しているが、「ミケランジェロの謎」ついての知識はごく限られている。その意味でこの番組は新鮮で、得るところが多かった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2011-01-16 22:28
| ルネサンス
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