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田中一村は、1908年、栃木に生まれた。 2006年、彼の故郷の「とちぎ蔵の街美術館」で開かれた「市制70周年記念: 田中一村の世界」を見て、この画家の概略を知ることができた(記事はこちら)。その時は、画が40点、写真が12点。画としては館蔵1点、個人蔵3点の他はすべて奄美の田中一村記念美術館の所蔵だった。
今回は一村が30歳から50歳を過ごした千葉の美術館。不思議なことにこの美術館には一村の作品が1点も所蔵されていない。したがって今回の展覧会の出品作は、奄美の田中一村記念美術館蔵のもの以外の大多数は個人蔵のもの。今回は、スケッチを入れれば248点という膨大な数。 「新たなる全貌」という副題は、今回の展覧会に合わせて全国規模の調査研究を行い、今まで隙間になっていた一村の経歴の穴埋めができてきたという意味のようである。ということで、初日に観にいってきた。 1.東京時代: 一村の父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)で、一村に米邨(べいそん)という号を与え天才教育を行ったらしい。今回の展覧会には7歳時(1915年)の短冊や9歳時(1917年)の色紙が出ていたが、立派なものである。10代で南画に自在な才能を発揮し「神童」と呼ばれていたとのことである。実際、1924年の《白梅図》や1925年の《玉蘭牡丹図》は呉昌碩、1925年の《蘇鉄図》は趙之謙ら上海「海上派」に倣ったものであるが、まことに見事なものである。 1926年に東京美術学校(日本画科)に入学したが、わずか2ヶ月で中退し、以後南画を描いて一家の生計を立てた。1928年の《艶鞠図》(→)もその一つで、見事な菊が描かれている。しかしこの時代の作品は次第に売画向きの富貴図ばかりとなり、折角の才能が朽ちていくことがはっきりと認められる。 一村自身もこのことに気づいたのであろう。しかし、1931年頃、自らの心のままに描いた象徴的な日本画《水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹》が後援者にはまったく受け入れられなかったため、後援者とも縁を切り、自力で画道に精進することとなった。 2.千葉時代: 1938年に千葉に暮らすようになった。 この時代には一村は温和な千葉近郊の風景画や花鳥画を沢山描いている。《秋色》はこの時代のもの。繊細で巧みな描写と色彩が気に入ったので、ポストカードを買ってきた↓。 1947年には川端龍子主催の青龍展で《白い花》↓が入選したが、これはヤマボウシを描いたまことに美しい花鳥画である。 1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意した。そのころの写真や色紙がいくつも出ていたが、《由布岳朝靄》↓のハナウドのように落ち着いた画や写真をもとにした《足摺狂涛》のような迫力のある画が気に入った。 3.奄美時代: 1958年に50歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工で生計を立てながら絵を描き始めた。一村は、そこで完全に孤立していたわけではなく、島の人との交流を物語る、奄美和光園の雑誌の表紙、色紙、写真から起こした肖像画などが残っている。 1977年、69歳で没。その後、日曜美術館で紹介されて以来、田中一村は日本のゴーギャンとして有名になった。奄美時代の亜熱帯画は、大作が多く、大胆で素晴らしい色彩である。彼は「画は他人のために描くのではなく、自分のために描くのだ」といっていたというが、十分に観る者の心を打ってくる。 《パパイアとゴムの木》、《草花と岩上の赤髭》、《蘇鉄残照図》から始まる奄美時代の大きな作品群は迫力がある。 《奄美の海に蘇鉄とアダン》↓では、奄美の花や樹の向こうの海上に三角形の岩が描かれている。幸せはこの「立神」を通って奄美の島にやってくるという。ゴーギャンのタヒチの雰囲気に似ている。 《枇榔樹の森》(↓左)と《榕樹に虎みゝづく》(↓右)は、似たような南国の画であるが、後者には鳥(ミミズクとイトヒヨドリ)や「立神」が描き込まれていて面白い。 《不喰芋と蘇鉄》(↓右)は、激しい色彩の乱舞のエネルギーに圧倒される。「不喰芋」の一生をフォローしているらしいのだが、何がどうなっているのかよく分からない。これを「クワズイモ」と読むことだけは覚えてきた。 (註) 9月12日の「日曜美術館」(小林忠館長ら出演)の解説の説明で、理解できたので追記する。これは島民の霊地の一つであるヤーヤイ遺跡から描いたもので、この場所は風葬にも使われていたとのことである。右手前の豆は多産を表し、本来半年も離れて咲く蘇鉄の雄花と雌花を同一画面に描き込み、さらにクワズイモの花を咲き始めから枯れるまでこの画面に描いている。すなわちこの画は「生老病死」の象徴画で、奄美の聖地である風葬跡から海上の立岩を眺めた奄美の土着信仰の精神を取り入れて描かれた作品なのである。一村は、「これは百万円でも売らない。生命を削って描いた画で、閻魔大王への土産品だ」と話していたとのことである。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2010-08-22 18:37
| 国内アート
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