記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
「美しき挑発」、「本能に生きた伝説の画家」などinvitingなキャッチフレーズの展覧会。
![]() ![]() 彼女の経歴は波乱に富んでいる。 1898年ワルシャワの裕福な家庭に生まれ、イタリアやスイスで画を学ぶ機会があったが、1961年ロシアの伯爵と結婚した。1917年のロシア革命で、パリに亡命し、肖像画家としての才能が認められた。 展覧会は、この時代を第1章「狂乱の時代(レ・ザネ・フォル)」としてまとめている。 その頃の作品として目についたのは、《初めて聖体を拝領する少女》。これは娘ギゼットをモデルにしたもので、「白の交響曲」といわれる美しい色彩であるが、冷たく娘に対する愛情が感じられない。《ピンクの服を着たギゼット》(↓左)では、反抗的ともとれる娘の表情が見てとれ、片方の靴が脱ぎ捨てられているところを描くなど、当時の母娘関係がうかがわれる。 今回のチラシやチケット(↑)に使われている《緑の服の女》のモデルもギゼットであるが、車を運転する《自画像》(↑↑)との類似に驚く。レンピッカは娘に対して複雑な感情を抱いていたような気がしてくる。 1928年に離婚。その頃の夫の肖像画は↓中央であるが、結婚指輪があるはずの左手が未完であり、全体的に暗く、夫に対する憎悪が感じられる。 先に述べた車を運転する《自画像》もシルクスクリーンとして出ていた。同じドイツのファッション誌の表紙原画と雑誌が並べられていたが、その中では↓右の《サン・モリッツ》に目がいった。当時の「モガ」なのだろうが、冷たい瞳は男性を拒絶するかのようだ。 ![]() 1929年には訪米しているが、当時描いた《ニューヨーク》や《摩天楼を背景にした裸婦》の風景の暗さはどうしたことなのだろうか。 彼女は両性愛者であるが、特にレズ的な傾向が強かったらしく、↓左のイーラや↓右のシュジーなどはレンピッカの愛人でもあり、モデルでもあった。彼女らの滑らかで、輝くような官能的な表現には表面的にも暖かさが乏しく、むしろ内面的な冷たさが感じられた。 当時の静物画としては、↓中央の《カラーの花束》が出ていた。これは平滑な東郷青児的な画であるが、やはり暖かさが感じられない。オシベとメシベの両性具有と関係しているという説明があったが、それほど深い意味は感じられなかった。 ![]() 第2章の「危機の時代」に入ると画風が一変する。当時の世界恐慌や本人のうつ病も関係しているとの説明であるが、《難民》、《マンドリンを弾く物乞い》、《逃亡》などの北方絵画的な作品は、いずれも観客の心を打つ。特に《修道院長》↓の涙は感動的である。 ![]() © 2010 Tamara Art Heritage Licensed by MMI Photo Ville de Nantes- Musée des Beaux-Arts - Photographie : C. CLOS ADAGP & SPDA 第3章は「新大陸」。彼女は1934年に男爵と再婚しているが、1943年にニューヨークに転居した。そのころに描いた静物画や風景画は素人的で、肖像画もあまり受け入れられず、抽象画もパットしなかった。 1961年にパリで開いた回顧展では、アール・デコは時代遅れとみなされて失敗に終わり、再婚相手も死んで、彼女は娘ギゼットの住むテキサス州に引っ越している。 1972年再びパリで開かれた回顧展が成功し、再評価のきっかけとなったそうであるが、その展覧会に出席したレンピッカの皺だらけの76歳の顔には、彼女の波乱万丈の人生が刻み込まれていた。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2010-03-13 10:24
| 国外アート
|
ファン申請 |
||