記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
リヒテンシュタイン家の美術コレクションについては、2007年3月にウィーンの「リヒテンシュタイン美術館」を訪れ、2012年に国立新美術館で催された「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵の秘宝」を見て、それぞれについて以下のような記事をホームページやブログに書いている。
●リヒテンシュタイン美術館 @ウィーン 2007/03 ●リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵の秘宝 その1 @国立新美術館 2012/10/03 ●リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵の秘宝 その2 @国立新美術館 2012/10/04 ●また、NHKの「世界のプリンス・プリンセス物語:アロイス皇太子@リヒテンスタイン」を視聴し、ブログ(2017/06/01) にその記事を書いている。 番組はリヒテンシュタイン美術館の66年ぶりの公開を機に、所蔵作品の数奇な物語をひも解いたもの。2017年10月20日(金)の 午前9時00分~午前10時53分という113分番組で、今まで知らなかった事柄をいくつも知ることができた。 そこで、この番組の内容について、以下のブログ記事としてまとめておくこととしたい。 私が2007年にウィーンのリヒテンシュタイン美術館を訪れた際や2004年の番組初回放送時と異なり、現在のリヒテンシュタイン美術館は完全予約制となり、多くの作品が2012年に東京の国立新美術館で展観されたように、世界巡業の旅に出ている。 番組の中で、ファドゥーツの「リヒテンシュタイン城」やウィーンの「リヒテンシュタイン美術館」を案内したのは、アロイス侯太子だった。 (↓)はルーベンスが1637年頃に制作した《聖母被昇天》で、制作してから間もなくリヒテンシュタイン家が取得し、18世紀の終わりから「リヒテンシュタイン美術館」に展示されているとのこと。 リヒテンシュタインのカール1世(1569-1627)は美術品収集家であったが、同じく美術品収集に明け暮れていたハプスブルグ家プラハ宮廷のルドルフ2世とウマが合い、プラハ宮廷でルドルフ二世のために美術品の収集の任に当たった。このため、カール1世は、1608年にルドルフ2世から侯爵の称号を与えられた。 (↓)はカール1世がルドルフ2世の許可を得て発注した紋章入りテーブル天板 カール1世の孫・ヨハン・アダム・アンドレアス(1567‐1721)は、1699年、シェレンベルク男爵領を購入、1719年、ファドーツ伯爵領を購入した。1719年、神聖ローマ帝国カール6世は、上記のファドーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せて、リヒテンシュタイン侯領とすることを認可した。これがリヒテンシュタイン侯国の始まりである。彼は《クララ・セレナ・ルーベンスの肖像》や《デシウス・ムス連作》を購入している。 ヨーゼフ・ヴェンツェル(1696-1772)は、フランス王・ルイ15世 (在位:1715年- 1774年)との外交交渉を容易にするため、フランス絵画(シャルダン、リゴー)を購入しただけでなく、フランスで《黄金の馬車》を造らせ、パリからベルサイユ宮殿への馬車行列に使用した。側面のロココ風の画は、ブーシェ工房で描かれたらしい。 リヒテンシュタインの侯爵・ヨーハン1世(1760年 - 1836年、在位1805年 - 1836年)はフランス皇帝ナポレオン1世との交渉にあたった。リヒテンシュタインは、1806年、神聖ローマ帝国の崩壊により独立国となったが、翌年にナポレオン1世によりライン同盟に加えられた。リヒテンシュタインのヨハン1世は引き続き主家であるハプスブルク家に対する忠誠を守るため、3歳の息子カールをライン同盟に組み込まれたリヒテンシュタイン侯国の摂政に任命し、自らはその後見人として国を治めた。ヨハン1世はハプスブルグ家を守るため、ナポレオンと直接交渉し、ナポレオンもヨハン1世に敬意を表して、ハプスブルク家の賠償金を減額した。1813年にナポレオンが没落すると、ヨハン1世は息子の摂政を廃して執政に復帰した。 ●ヒットラーの時代 リヒテンシュタインの美術品は、教会の二重ドームの隠し部屋と別荘のワイン倉庫に疎開したが、後者はナチによって岩塩鉱に移された。これはリヒテンシュタイン美術館のグスタフ・ウィルヘルム館長の献身的な努力によって、ナチ崩壊の直前にファドゥーツのリヒテンシュタイン城(↓)に運び込まれた。「黄金の馬車」は分解して、別途ファドゥーツに送られた。 リヒテンシュタイン侯爵家が収集した美術コレクションは、「総数約3万点」にのぼり、英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションである。すでに19世紀には公開されていたが、第二次世界大戦以降は一般の目に触れる機会はごく限られ、ようやく2004年にウィーンの「夏の離宮」でその一部の約200点が公開されるようになった。 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2017-10-21 11:26
| 国外アート
今年の10月は例年になく寒いので「美術散歩」も滞りがちである。
そこへ旧知の新版画研究者・土井利一氏から、「川瀬巴水展 @玉川高島屋」のチラシと招待券が届いた。 一方、川瀬巴水の作品はほとんど見ている(文末参照)。 「どうしようかな?」と迷っているうちに晴れてきた。TVは「久しぶりのお出掛け日和」と叫んでいる。おまけに「玉川高島屋」は自宅から車で近い。 ということで、急遽、車で出かけることになった。 会場には、最初期の「塩原三部作」以下、150点もの初摺り作品(渡辺版)が展示されていた。 一部の作品では水彩による原画と木版画が並んで展示されており、穏やかな水彩画とはっきりとした木版画の対比がよく分かった。 巴水の輸出用に作られた大正新版画は、江戸時代の木版画にくらべ摺り度数が圧倒的に多く、30~40度摺りをして、木版画とは思えない臨場感のあるリアルな作品に仕上げていた。そのため、多くの美術館やコレクターに収集された。アップルの共同創始者である故スティーブ・ジョブスも巴水のコレクターの一人だった。海外では、北斎・広重・巴水は風景画の3H(Hokusai/Hiroshige/Hasui)とも呼ばれているとのことである。 以下、巴水のお気に入り木版画を、制作年次順に、アップする。 《東京二十景 芝増上寺》大正14年 ●大正14年:芝増上寺 ●大正15年:新大橋・神田明神境内・ 御茶ノ水・浅草観音乃雪晴 ●昭和2年:大根河岸の朝 ●昭和3年:上野清水堂・洗束池・池上市の倉(夕陽)・桜田門・明石町乃雨後・矢口 ●昭和4年:瀧之川 荒川の月・桔梗門・不忍池之雨 ●昭和5年:月嶌の雪・馬込の月・平河門・大森海岸 《芝増上寺》は巴水の全版業で最高の3000枚が売れ、その次は《馬込の月》(↓)の2000枚だった。 《鶴岡八幡宮》昭和6年 「白馬には下駄で登った。すっかりくたびれて、帰宅すると立っていられず、這って移動していた。下駄の表面が足の形に窪んでいた」とのこと。 《雪庭のサンタクロース》昭和25年 《時雨の後 京都南禅寺》昭和26年 《増上寺の雪》昭和28年 木版画技術記録事業木版画 42度摺り 《平泉金色堂 絶筆》昭和32年 巴水は、絶筆となった《平泉金色堂》とほぼ同じ構図の作品を、昭和10年に、シリーズ「日本風景集 東日本編」の1点として出版しているが、その際には当時のスケッチにあった二人の旅人の姿を無くした景とした。 今回は一人の雲水(自画像)を画中に戻し、得意の雪景として版画化した。 【今までの川瀬巴水展】 ●川瀬巴水 @海に生きる・海を描く 千葉市美術館 ブログ 2006/08/02 ●大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水展(前期) ニューオータニ美術館 ブログ 2006/08/06 ●大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水展(後期)@ニューオータニ美術館 ブログ 2006/08/17 ●川瀬巴水木版画展(土井コレクション) @礫川浮世絵美術館 ブログ 2007/09/07 ●川瀬巴水ー旅情詩人と呼ばれた版画絵師(前期) @大田区立郷土博物館 ブログ 2007/11/03 ●川瀬巴水ー旅情詩人と呼ばれた版画絵師(後期) @大田区立郷土博物館. ブログ 2007/11/19 ●浮世絵の夜景 @太田記念美術館 ブログ 2008/02/10 ●川瀬巴水展 東京風景版画 @江戸東京博物館 ブログ 2008/04/05 ●川瀬巴水と土屋光逸(土井コレクション) @礫川浮世絵美術館 ブログ 2013/10/13 ●川瀬巴水展 郷愁の日本風景 @千葉市美術館 ブログ 2013/11/26 ●川瀬巴水ー生誕130年記念 前期 @大田区郷土博物館 ブログ 2013/11/29 ●川瀬巴水ー生誕130年記念 中期 @大田区郷土博物館 ブログ 2013/12/12 ●川瀬巴水ー生誕130年記念 後期 @大田区立郷土美術館 ブログ 2014/01/30 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2017-10-20 20:37
| 浮世絵
永青文庫で「南禅寺天授庵と細川幽斎~重要文化財・長谷川等伯障壁画展」(前期)を見てきた。
第1章 天授庵と細川幽斎(4階)前期・後期 第2章 戦国武将・細川幽斎/文化人・細川幽斎(3階) 第3章 細川家に受け継がれた能の世界(2階) 本稿では、このうち第1章の長谷川等伯筆・天授庵襖絵「禅宗祖師図」について述べることとする。 南禅寺の塔頭・天授庵は、慶長7 年(1602)に細川幽斎(↓右)の援助をうけて再興された。 豊臣秀吉や千利休に重用された桃山期を代表する絵師・長谷川等伯は、細川家に関わる画事も行っていたのである。 本展では、天授庵方丈の障壁画を細川家ゆかりの永青文庫において、前期・後期に分けて全場面公開することになっている。 前期で見られたのは、室中の《禅宗祖師図》16面である。2010年に東博で開かれた長谷川等伯展では8面(船子夾山図4面・南泉斬猫図2面・懶瓚煨芋図2面)を見ている。 夾山は船子のもとを去る際に何度も振り返って別れを惜しんだ。これに対して、船子は「私の子とは思うな」と言うなり、櫂を舟底に突き立てて転覆させ、入水した。ここにはその場面が描かれている。 ・ 五祖・六祖図 4面 中国禅宗の六祖は慧能で、幼い時より貧苦の内に育ち、薪を採って母を養ったと伝えられている。弘忍に弟子入りした慧能は、弘忍から修行として米を搗くことを命じられ、それをひたすら8カ月行った。ここでは杵を背負った作務衣姿の慧能が描かれている。 ・ 南泉斬猫図 2面・趙州頭載草履図 4面 《趙州頭載草履図》には、前述の《南泉斬猫図》に続く話が描かれている。南泉は先ほどの出来事を弟子の趙州に話し、「汝ならばどうするか」と訊いた。 すると趙州は、何も言わずに履いていた草履を脱いで頭に載せて出ていってしまった、趙州は猫を殺した南泉の行為を穏やかに揶揄したのである。 これに対して、南泉は「お前がいたなら猫を救えたのに」と言ったとのことである。 ・ 懶瓚煨芋図 2面 懶瓚の噂を聞いた唐の皇帝が、参内を求めて勅使を遣わしたところ、懶瓚は牛の糞を燃やして芋を焼き、鼻水を垂らしながら食べている最中だった。 勅使が「まずその鼻水を拭いたらどうか」と言うと、「俗人のために拭く暇はない」と答え、皇帝の求めにも応じなかったという。 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2017-10-19 21:08
| 国内アート
下記のように、運慶展に関するブログ記事を12本も書いて、仏師・運慶に関する知識も大分増えてきた。
1. 大日如来坐像(真如苑蔵) @東京国立博物館 2008/06/15 ブログ 2.対決 巨匠たちの日本美術(前期) @東京国立博物館 2008/07/08 ブログ 3.大日如来坐像(光得寺蔵) @東京国立博物館 2008/07/12 ブログ 4. 六波羅蜜寺の仏像ー平安鎌倉彫刻の宝庫 @東京国立博物館 2008/07/12 ブログ 5. 運慶ー中世密教と鎌倉幕府 @神奈川県立金沢文庫 2011/01/21 ブログ 6. 平成二十五年新指定国宝・重要文化財 @東京国立博物館 2013/04/30 ブログ 7.運慶展 その1 @東京国立博物館 2017/09/27 ブログ 8.運慶展 その2 @東京国立博物館 2017/09 /28 ブログ 9.運慶展 その3 @東京国立博物館 2017/09 /29 ブログ 10.運慶展 その4 2017/09 /30 ブログ 11.仏像ミステリー 運慶とは何者か? 2017/10 /11 ブログ 12.ぶらぶら美術館・博物館 運慶展 2017/10 /16 ブログ そこで、「運慶学園」の入学試験を受けてみた。 9問中9問の全問正解だったので、3種類の「学生証」のうち、「特待生の学生証」(↓)をゲットした。 #
by cardiacsurgery
| 2017-10-18 10:16
| 浮世絵
新聞のテレビ番組を見ると、この番組「▽時代が生みだした仏像を大公開!▽みうらじゅんも大興奮」というコメントが付いていたので、期待して見た。
確かに番組の参加者の中に、イラストレーター・みうらじゅん、美術史家・佐々木あすかの名前があった。 番組に、最初に登場したのは「金剛力士立像」東大寺南大門 高さ8.4メートルの仁王様である。血管が浮き出した「阿形像」と筋肉の盛り上がる「吽形像」は宇宙の始めと終わりを表しているとのこと。この作者は「源平争乱の時代が生みだした仏師・運慶」である。 次に出てきたのは、六波羅密寺に残っている伝《運慶坐像》。これを見る限り、運慶の顔貌は穏やかである。 運慶は1050年頃に生まれた。運慶の父・康慶は、そのころ興福寺で仏像の修復にあたっていた。修理の対象は《阿修羅像》734年(脱活乾乾漆像)のような仏像で、運慶が生まれる400年も前に制作されたものであった。 興福寺の僧でもあった運慶が制作した最初の仏像は、奈良・円成寺の《大日如来坐像》で、張りのある頬、切れ長の目、足底の凹みなどは、平安時代の仏像にはなかった革新的なもので、仏に人間のような体つきを与えたものであった。 このプロデューサーは運慶であったが、運慶自身が円成寺の《大日如来坐像》を一人で制作した際には、11ヶ月間も掛かっていることを考えると、プロデューサー指揮下の共同制作作業はきわめて有効だったといえる。 1185年壇の浦の戦いで平氏は滅亡し、武士である源氏の世になった。源頼朝の権力・統治機構が実質的に成立したのは、頼朝が征夷大将軍に任官した1192年に先立つ1185年であるが、翌1186年には運慶は頼朝の義父・北条時政の発願によって願成就院の《毘沙門天立像》を制作している。これは武士をイメージして作られたた仏像であった。 愛知・瀧山寺の《聖観音菩薩および両脇侍像》は、頼朝の三回忌にあたる1201年に、従弟の住職・寛伝が頼朝追善のため仏師運慶・湛慶父子に作らせたもので、《聖観音菩薩》には頼朝の遺髪と歯が埋め込まれている。 最後に登場したのは、「みうらじゅん好み」の2点。 その一つの《重源上人坐像》は、上人の外面を表した単なるリアリズム作品ではなく、内面まで表現している。作者は不明であるが、運慶作という人も少なくないとのことである。 もう一つの《無著菩薩立像・世親菩薩立像》は、運慶が晩年に到達した境地を示している。 番組全体としてみれば、残念ながら、イラストレーター・みうらじゅんさんのコメントが多すぎ、一方専門家である美術史家・佐々木あすかさんの説明が少なかった。 番組の司会者・井浦新さんのまとめのコメント「運慶の時代だけ特別で、後の時代にはこのような前衛的な仏像は造られなかった」は納得できるものだった。 NHKには「あなたの声と受信料」というキャッチフレーズがあるので、長年受信料を払っている視聴者として、ここでひとこと苦言を呈する。 最近「運慶展」を取り上げたテレビ番組をいくつか視聴したが、この「日曜美術館」は「ぶらぶら美術館・博物館」に比べると、はるかに低いレベルの内容のものだった。 番組制作者の猛省を促しておく。 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2017-10-17 18:31
| 仏像
|
ファン申請 |
||