|
最新のコメント
最新のトラックバック
カテゴリ
全体
国外アート ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 現代アート(国内) 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 戦争画 アート一般 浮世絵 東洋アート 講演会 仏像 書籍 音楽 映画 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 以前の記事
お気に入りブログ
外部リンク
ファン
|
同じ美術館で「セザンヌ展」とこの「大エルミタージュ展」という二つの大きな展覧会が開かれていることは特筆に値する。昨年は東日本大震災の影響で「プーシキン美術館展」が中止になるなど大変な年だったが、それから1年が過ぎて、ようやく平穏に戻ってきたのである。それにしても、このような「大展覧会」を二つ同時に開催できる国立新美術館のスペースの広さは威力である。
![]() ![]() 展示は、世紀別に5章に分かれている。 第1章 16世紀 ルネサンス:人間の世紀 ・ティツィアーノの 《祝福するキリスト》: 再見だが、万物の支配者を暗示するクリスタルを持つキリストの姿は美しいだけでなく、迫力がある。色彩の効果である。 ![]() ![]() ・レオナルド派《裸婦》: Bunkamuraの「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」にも出ていた《裸のモナリザ》。倒錯的な感じがして、あまり好きになれない。 ・バルトメオ・スケドーニ《風景の中のクピド》↓と《聖家族と洗礼者ヨハネ》: 幼子キリストの意味ありげな目つきが愛らしく、スケドーニ特有の歯切れの良い彩色が好ましい。お気に入り! スケドーニはバロックの画家とされることが多いのだが、今回の作品は16世紀末-17世紀初めということで第1章に入っているようだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・ヴェロネーゼ《聖会話》: 画の中の紋章は、画の依頼者であるカステリ家のもの。 ・ボルドーネ《貴婦人と少年》: ジョルジョーネ風横臥裸体画。背景にマルスとクビドが描かれている。 ・ジュリオ・カンピ《男の肖像》: 女性画家。 第2章 17世紀 バロック:黄金の世紀 ・ルーベンス 《虹のある風景》↓の虹は夢の象徴。オヴィディウスの「変身物語-黄金物語」によるとのキャプションの説明も、私には猫に小判。もう少し親切な記載がほしい。手前の土俗的風景と動的な背景のコントラストに目が行く。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・ホントホルスト《幼少期のキリスト》 ・ブルーマールト《トビアスと天使のいる風景》: 不思議な風景。 ![]() ・ヤン・ステーン《結婚の契約》: 女性の大きなお腹に手を当て、デキチャッタ結婚を迫る母親。くびき=結婚の契約。割れた卵・空の鳥籠=失った純潔。この画は「エカテリーナの遺産」展で見た。 ・ウィレム・クラースゾーン・ヘダ《蟹のある食卓》 第3章 18世紀 ロココと新古典派:革命の世紀 ここはお気に入り多数。 ・ブーシェの《クビド》2点ー「画の寓意」と「詩の寓意」。後者は「エカテリーナの遺産」で見た。 ・シャルダンの《洗濯する女》: 再見。母親が選択する間、おとなしく坐ってシャボン玉遊びをしている子供。外では別の女性が干しもの。 ・ヴィジェ=ルブラン《自画像》↓: この画は、三菱一号館美術館の「ヴィジェ=ルブラン展」でみたばかり。 ![]() ・クロード=ジョセフ・ヴェルネ《パレルモ港の入口、月夜》↓: 見事! ![]() ・ロムニー《ハリエット・クリーア夫人の肖像》 ・ジュシュア・レノルズ《ヴェヌスの帯を解くクビド》↓ ![]() ![]() ・ピエール・ナルシス・ゲラン《モルフェウスとイリス》↓: モルフェウスは夢の神。モルヒネの語源。眠りの神の息子。イリスは虹の神。 ![]() ![]() ・コロー《森の中の沼》: 赤い帽子が得意のアクセント。 ・テオドール・ルソー《グランヴィル近郊の眺め》: 再見。本作品はバルビゾン派の宣言とみなされる重要作品とのこと。画中の荷馬車はコンスタブルの影響。 ・レオン・ボナ《アカバの酋長たち(アラビア・ベトラエア)》: 強い色彩のオリエンタリズム。 ・ジェイムズ・ティソ《廃墟(内なる声)》: キリストの周囲に光。老夫婦はキリストに気付いていない。ティソはこんな画も描くのだ。 ・シスレー《ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌ風景》: 見事! ![]() ![]() ・シニャック《マルセーユ港》: 美しい点描。 第5章 20世紀 マティスとその周辺:アヴァンギャルドの世紀 ・アンリ・ルソー《ポルト・ド・ヴァンヴァから見た市壁》: 穏やかな素朴画。 ![]() ・マティス《赤い部屋(赤のハーモニー)》: 今回のメダマ。ポスター参照。画像はこちらで。 【追 記 1】 本邦では、東武美術館において、1992年から1996年まで5年連続で開かれた幻の「エルミタージュ美術館展」の評判がすこぶる良かった。(1992年:17世紀オランダ・フランドル、1993年:イタリアールネサンス・バロック、1994年:フランスーバロック・ロココ、1995年:19‐20世紀フランス、1996年:16 -19世紀スペイン) 今回はこの中の17点に再会することができた。 今回の展覧会は、2004年には東京江戸博物館で開かれた「エカテリーナの遺産」や上述の2006年に東京都美術館で開かれた「大エルミタージュ美術館展」の不評を吹き飛ばすものだったといえる。 【追 記 2】 二階の「大エルミタージュ美術館展」と一階の「セザンヌ展」との比較 とら: どちらが良かった? 家内: どちらにも良いところがあって・・。 とら: そんな「ローマの休日」みたいな答えはダメ。 家内: やっぱり「エルミ」、断然「エルミ」。 とら: twitter で、みんなにきいてみよう。 美術散歩 管理人 とら
あっという間にサクラが散って、ツツジの季節となった。ポスターが貼られた美術館の正面のガラスには、庭のツツジの花が映りこんでいる。
![]() ![]() ![]() まず最初は「絵巻」のコーナー。 今回は、東博(ポストン美術館「三条殿夜討巻」@平成館と「六波羅行幸巻」@本館・国宝室)とともに《平治物語絵巻》が三巻揃って展示される。こちら静嘉堂は「信西巻」。 この「信西巻」も3回の巻き替えがあるが、本日は第1段。藤原信頼・源義朝の三条殿襲撃翌日の公家などの参内⇒昨夜討たれた大江家仲・平秦忠の首が薙刀の先に⇒信西の自害・遺骸を埋める従者↓ ![]() ![]() ![]() 一例をあげると、↓は修復後の初展示である《弁財天像》。大海から突出した岩の上に、荷葉に坐って、琵琶を弾いている弁財天。弁財天の背後には、滝が流れ落ち、弯曲した枝の先には尾の長い鳥。上辺には雲。雲間に月が浮かぶ。宝冠の金泥、朱の細い輪郭線、琵琶の羅陵王など楽しみが多い。右下隅には金塊を奉持する龍と笏をとる竜王が描かれている。 ![]() ![]() ![]() 抱一の《絵手鑑》↓も素晴らしい。全72図が画像として見られるように工夫してあった。感謝。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
国立新美術館で開かれている「セザンヌーパリとプロヴァンス」展に孫娘を連れて行った(記事はこちら)。
今朝のこの番組のことをメールで知らせておいたところ、「いま観ているよ!」という返事が届いた。 一方、この日曜美術館に画家の山口晃さんが登場されるというので、山口画伯フリークの多い Twitter は昨日から喧しいようである。わたしも、山口画伯の白板を使った独特のトークを何回か聞いていたので、番組内でも面白い話が聞けることを期待していた。 ところが、番組のコメンテーターは山口画伯おひとりではなく、東京大学・三浦篤教授、セザンヌの画を沢山買っておられる長谷川徳七氏、展覧会監修者・ドニ・クターニュ氏が参加され、その他に2人の司会者、さらにナレーションのアナウンサーの合計6人がそれぞれ話されたので、番組としてのまとまりはイマイチだったし、メモも取りにくかった。「船頭多くして、船山に上る」とはこのことなのだろう。 その中では、実際にサント・ヴィクトワール山まで見に行かれて、番組内で#7の画の模写をされた山口画伯の言葉には「目からウロコ」のところがあったので、赤字で記しておく。 「傑作10選」は下記の通りで、#2と#9 以外は今回の展覧会への出品作品だと思う。 ・傑作#1.《りんごとオレンジ》: ナレーション⇒多視点の画。 ![]() ![]() 三浦氏曰く「結果として多視点になっているが、目標はしっかりとした画を描くことだった。」 山口氏曰く「初期の画は下手で、もともとは画の描けない人だった。」 ・傑作#3.《首吊りの家》: ナレーション⇒ピサロなど印象派の影響で、画が明るくなる。 ![]() ![]() 山口氏曰く「緑は中間色で、自然な色ですからね。」 ・傑作#5.《坐る農夫》: 司会者⇒長谷川氏を紹介(笠間日動美術館の訪問記事はこちら)。 ![]() ・傑作#6.《サント・ヴィクトワール山》: ナレーション⇒この山を描いた作品はきわめて多い。 ![]() ![]() 山口氏曰く「セザンヌは樹の奥行を描くことにこだわっているようだ。」 山口氏模写⇒山に進む。 山口氏重要発言「同じ色をたどっていくと、向きが同じであることに気付いた。あらかじめすべての色の置き所を考えてから、色を置いていったのだと思う。」 山口氏模写⇒影になっている山の壁面すべてに対して、小さな線状あるいは面状の「同じ青」を置いていく。 「とら」の感想⇒確かにセザンヌの原画の山の影の部分は山口氏の模写と同様になっている。(目からウロコ!) 山口氏感想「面倒くさいことをやった人ですね。」 司会者質問「セザンヌは、どこにこの同色を置くと決めていったのでしょうか?」 山口氏回答「ある程度思い切って、エイヤーと置いていったのでしょうね。」 ・傑作#8.《サント=ヴィクトワール山》: ナレーション⇒抽象画のようになってきた。 ![]() ![]() 山口氏曰く「目標に完全に到達できなかったことが、かえって後人に良い影響を与えた。」 ・傑作#10.《庭師ヴァリエ》: ナレーション⇒この画を描いてすぐに死んだ。 ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
これは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展の第3報である。
有名な《岩窟の聖母》は、ルーブル美術館とロンドン・ナショナルギャラリーにそれぞれ1点ずつある。 ![]() ![]() いずれもドーム状の形状であるが、パリの作品では上部に青空が描かれているのに、ロンドンの作品では、空は狭くなっている。 ![]() 「上部のドーム状の部分や下部は切られて、現在の形になっている」とキャプションに説明されていたので、その分は割り引いて比較してみると、以下のようになる。 ![]() ![]() 2.ヨハネの十字架: なし。これはパリのものと同じ。 3.ウリエルのマント: 赤。これはパリのものと同じ。 4.植物: パリのものともロンドンのものとも異なる。 まとめると、いわゆる「第3の《岩窟の聖母》」は、パリのの聖母に光輪をつけ、植物を変えただけなので、レオナルドが最大限譲歩した作品のような気がする。 これによっても支払者側が満足しなかったため、ロンドンの作品のように、イエスとヨハネにも光輪、ヨハネに持物、ウリエルのポーズと着衣の変更、さらに植物の再変更といった妥協を加えざるをえなかったのではないかと考えたい。 ![]() 第1報はこちら。第2報はこちら。 美術散歩 管理人 とら
これは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展の第2報である。
トリノ王立図書館蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチと弟子《少女の頭部(「紡錘の聖母」のヴァリエーション)》が気に入ったので、ポストカード↓を買った。この際には、「ヴァリエーション」が何を意味しているのか、まったく分からなかった 。 ![]() 全体の感じは、1506-08年頃の《ほつれ髪の女》―褐色土・緑色アンバー・鉛白・板―の暗い灰褐色にくらべて、明るい赤褐色である。 レオナルド得意のうつむいた伏し目の女性だが、まだ若い感じがする。 この画は《紡錘の聖母》の「ヴァリエーション」とのことなので、池上英洋著「西洋絵画の巨匠 レオナルド・ダ・ヴィンチ》を見てみると、レオナルド・ダ・ヴィンチの下絵に基づく工房作《紡錘棒の聖母子》が2点あることが分かった。48.3x36.9㎝のほう(油彩1)の背景はかなり省略されているが、50.2x36.4㎝のほう(油彩2)は背景の山がしっかりと描かれている。この背景の違いは、親方の下絵には背景が省略されていたことを意味し、工房の弟子たちが親方から渡された下絵をもとに、各自描いたと考えられるとのことである。 このページに新聞の切り抜きがはさんであった。見ると、「盗難のダビンチ名画発見」‐《糸車の聖母》英で4人逮捕という見出しがついており、2003年8月、スコットランド南部のドラムランリグ城で公開中に強奪されたものとのことである。 ![]() 話はこれだけである。すなわち、1)偶然、ある素描作品の展示最終日に見に行って、たまたまその絵はがきを買ってきた。2)その素描の本画について調べていると、2点存在していることが分かったとともに、そのうち1点の盗難についての新聞記事が出てきた。3)新聞記事の画像からどちらが盗まれたものかが分かった、という三題噺である。 ところで、素描と2点の本画の女性の顔を並べてみると、↓のようである。とにかく、油彩1と油彩2の顔はそっくり。仔細に見ると、油彩1のほうが少し下向きで、鼻筋が通っているような気がする。素描と似ているのは、どちら? これは、とても難しい判断だが、いかがでしょうか。 ![]() 第1報はこちら。第3報はこちら。 美術散歩 管理人 とら
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展のメダマは、日本初公開の《ほつれ髪の女》パルマ国立美術館蔵に会えることである。
渋谷には、沢山のポスターが貼られている。 ![]() ![]() ![]() 小さな作品で、↑のチラシ2を実物の横に並べてみたが、チラシ2のような赤褐色ではなく、もっと暗い灰褐色だった。そのためか、それほど若くは感じなかった。 4月7日の「美の巨人たち」で、この画が取り上げられていた。この番組は、メモを取りながら見たので、その内容の一部を紹介したい。 やはり、「この女性がこちらを見ていない」のが何よりのポイントだとのこと。この画はポプラ板に描かれた未完成の作品で、その技法は、①下地を作り、②下絵を描き、③画面全体を赤褐色にして、④同色で筆を入れ、⑤透明なニスをかけ、⑥鉛白を塗るーという手順で、番組中で実演された。 モデルについては、諸説あるが、①デステ説:似ていない、②レダの習作説、③聖母の下絵説:正面でない、④追憶の中の母親説のなかで、レオナルドが母親のなかに美の理想・永遠の美・永遠の愛を求めたのだという④説をとっていたが、②の説も否定されてはいなかった。 今回の展覧会にはボルゲーゼ美術館蔵のレオナルド周辺の画家《レダと白鳥》が出ていたので、それと比較してみた。↓のようですが、いかがでしょうか。 ![]() ![]() 今回の展覧会については、まだまだ書きたいことがある。とくに、「紡錘の聖母」と関係がある《少女の頭部》と第3の《岩窟の聖母》については、それぞれ別報とする。 これ以外の、今回のお気に入りも、以下のように多数。 ・デューラー(レオナルド考案)《柳の枝の飾り文様》: レオナルドの出生地名の vinchi とは「紫がかった柳」で、その枝は編みやすく、利用価値が高い。 ・ボッカチョ・ボッカチーノ《ロマの女》: 小品だが忘れがたい女性。 ・トンマーゾ・ディ・ステーファノ・ルネッティ(帰属)《ターバンの女》: 黒い背景から浮き出している女性。 ・マッツィエーレ《平和の寓意》: フレスコ。幕の後ろに、戦争の象徴である「兜」をつぶしている女性。 ・レオナルド《衣紋の習作》2点: 巧いですね。さすが天才。 ・サライ《ほつれ髪の女》(模写): 結構巧い。 ・サライ(レオナルド下絵)《聖母》: これもなかなか。 ・《アイルワースのモナリザ》: 背景は描かれていないが、レオナルドの1503年の未完成作という説があるとのこと。 ・アンブロワ0ズ・デュポア(帰属)《モナリザ》: フランソワーズ4世の要請で描かれたコピーらしい。寸法が原作と同じだというのがその根拠。 ・作者不詳《モナリザ彫像》: 白大理石像。 ・サライ(帰属)《裸のモナリザ》: レオナルドの構想のよるとのこと。ちょっとイヤラシイが・・・、 ・作者不詳《裸のモナリザ》: 茶褐色で、こちらのほうがマトモ。スフマートが使われている。 ・フォンテンブロー派《浴室のふたりの女性》: あの有名作品がルーヴルから来ていた。 ・16世紀中葉フィレンツェの画家《レダと白鳥》: ミケランジェロの模作? ・フランチェスコ・バルトロツィの銅版画《レオナルドの肖像》と《若い男(サライ)の肖像》 美術散歩 管理人 とら
今回のナビゲーターはアートディレクターの森本千絵さん。途中で、旧知の国学院大学・池上英洋准教授も登場。
ローマのサンティニャツィオ教会(聖イグナチオ教会)には、大勢の人物が空中に浮かんで見える天井画《聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光》↓がある。これは天井に描かれた精巧な「大だまし絵」で、どこからが建物で、どこからが絵か分からない。17世紀後半の画家アンドレア・ポッツォによるバロック芸術の最高傑作で、「世界初の3D」ともいわれる作品である。 ![]() ![]() ここで、美術史家ルーカ・バルトロッティ氏が登場し、「スパーダ宮」の廊下↓における「視覚のトリック」を説明された。奥行きが20mくらいに見えるのだが、実際には8.8mしかない。入り口から奥に進むにつれ、柱が短くなっているためだという。こういう目を楽しませるのがバロックの特徴とのことである。 ![]() ここで、天井画《聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光》の話にもどる。 第1は「消える天井の謎」である。 ローマ・ラ・サピネンツァ大学図書館には、この画を描いたアンドレア・ポッツォの図面が残っている。建物の平面図・立面図の他に、この画の説明図もしっかりと描かれている。立面図では、実際の建物の上に、架空の建物が乗っているように見えるのだということが説明された。 番組では、石川武さんによって、CGで再現されたが、すぐには納得できなかった。 次に、フィレンツェのガリレオ博物館のフィリッポ・カメロータ副館長を訪ね、ポッツォが遠近法を使っていたこと、さらに平面以外のところに絵を描く方法を習得していたことが紹介された。 第二は、「描き方の謎」である。ここで池上英洋先生が登場。アンドレア・ポッツォの文章の中に「格子」という言葉と「糸」という言葉があることから、描き方の謎を解いている。 すなわち、アンドレア・ポッツォは下絵を描いて、これを2000~3000の格子で分割し、その格子枠を天井に張り付け、次に格子の内部の絵を描いていった。 格子を天井に張り付けるには、番組では格子の影を頼りにしていったのだが、当時はこのような強い光源がないので、長い糸を使って天井に格子を写し取ったのである。 「まさに驚嘆すべき人で、どのぐらいの労力を使ったか分からない」というのが池上先生の感想だった。 ここで、話はアンドレア・ポッツォ(1642-1709年)その人に移る。北イタリアのトレント生れ。10歳でイエズス会の寮に入る。1670年には陰影を伴う《受胎告知》を描いている。 彼の描いたモンドヴィの教会の祭壇画《聖フランシスコ・ザビエル》は立体的に見えるが、これは実際には平板に描かれたものである。またローマ・聖イグナチオ教会のポッツオの廊下では、天井の梁が飛び出して見えてくる。 ポッツォはこのように「曲線の魔術師であり、ポッツオ自身の信仰心が驚きとともに人々に信仰を届けた」というのが上述のガリレオ博物館副館長の言葉だった。 さて第三は「3Dのように飛び出す謎」である。ここでは慶応大学の小木哲朗先生の説明があった。 建物の柱が画の柱と一続きになっており、「視線の誘導」が生じ、建物の柱の先においても脳内の画像(人物など)は建物の柱の延長線上に生じるが、実際の画像はカマボコの凹面に描かれているので、下から見上げると、描かれた人物が落ちてくるように感じるのだということである。納得! さらに、ローマ国立絵画館の美術史家のミケーレ・ディ・モンティ氏は、ポッツォの子の天井画の彩色下絵を紹介し、赤や青といった鮮やかな色は近くに見え、ぼかした色は遠くに見えるという効果もこの画で使われていると説明された。確かに四大陸の女性は鮮やかな色彩で落ちてきそうなのに対して、中央のボカシの入ったキリストは遠くに見える。 ここで、ナビゲーターの森本さんが「光の方向」という新たな観点を見つけた。上述の彩色下絵によると、東からの光にあわせて明暗がつけられていた。「東方からの光」というのは宗教的な象徴でもある。森本さんは、朝9時に再訪し、このことを確認した。確かに柱や人物に朝の光が当たっているのである。森本さんは、「かってないドラマの舞台を見る場所に招かれたようだった」とまとめられた。 大変良い番組だった。固有名詞はメモ書きなので、あるいは間違いがあるかもしれない。指摘していただければ訂正します。 美術散歩 管理人 とら
快晴の日曜日、上記展覧会・前期の最終日に駆け込んだ。
![]() ![]() ![]() そして、テーマ別に次の5コーナ-に分けて展示されている。それぞれのおおよその特徴と代表的なお気に入りを以下に記すこととする。なお「人物画くらべ」はすべて後期となっていた。 第1テーマ 三都を旅する ・京: 歴史と文化ー比喜多宇隆《やすらい祭り・牛祭図巻》 ・大坂: 商人たちの活気ー中村芳中《盆踊図》 ・江戸: 新しい町ー歌川豊広《両国夕涼ノ図》 第2テーマ 花と動物 ・京: 優雅 ![]() ![]() ![]() ちなみに、わたしの第1室のお気に入りは、京=3、大坂=3、江戸=4で、三都一線であるが、実際には大坂の画家の知名度がイマイチなので、そのことを勘案すれば、大坂が健闘しているともいえるのだろう。 第3テーマ 山水くらべ ・京: 画外へ拡がるー長沢蘆雪《遠見富士図》 ・大坂: 中国絵画への傾倒ー蔀関月《雪中訪戴図》 ・江戸: 狩野派⇒洋風画ー司馬江漢《相州江之島児淵図》 第4テーマ 和みと笑い ・京: 奇抜ー長沢蘆雪《なめくじ図》 ![]() ・江戸: 明確ー英一蝶《投扇図》 第5テーマ 三都の特産 ・京: 奇抜ー狩野山雪《寒山拾得図》・伊藤若冲《垣豆群虫図》 ![]() ![]() ・江戸: 洋風画ー司馬江漢《異国戦闘図》 わたしの第2室のお気に入りは、京=7、大坂=2、江戸=2で、大分差がついている。 「三都探検隊」に挑戦した。今回は相当難しかったが、視力の良い子供のほうができるかも・・・。 「さんとくんのハンコたび」も楽しんだ。これは銅板の東海道双六絵で、江戸日本橋・京都三条大橋・大坂高麗橋のハンコを押すもの。ハンコは着色にした方が良かったかな・・・とつぶやいた。 ![]() 小特集「京の銅版画」にも感心した。 最後に、桜吹雪舞い散る府中公園の写真をもう一枚(クリックで少し拡大します)。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
仕事で幕張に泊る機会を利用して、昨日午前中に、千葉市美に行ってきた。この展覧会が始まってまだ3日目で、中はガラガラ。快適な鑑賞ができた。
![]() 展覧会は前期・後期に分かれれており、大幅な展示換えがある。超有名な重文《群仙図屏風》や《唐獅子図》(参照)は後期なので、これらは見飽きているという方は、空いている前期から出かけられたほうが良いのではなかろうか。 今回の展覧会には、「曽我蕭白と京の画家たち」という副題がついており、第1章「蕭白前史」には、山口雪渓、五十嵐浚明、高田敬輔、月岡雪鼎、望月玉蟾、大西酔月という6人の復古的画家が登場する。あまりなじみのない画家が多いので、つけたり感があるのは否めないが、蕭白が突然変異のように出現した異端児ではなく、蕭白も時代の児であったことを理解させてくれた。 ここでのお気に入りは、蕭白の師といわれる高田敬輔の迫力のある《山水図屏風》↓と穏やかな《富嶽図》。 ![]() 第2章はメインの「曽我蕭白」で、第1部「蕭白出現」、第2部「蕭白高揚」、第3部「蕭白円熟」とほぼ時代順に分けられている。 第1部では、顔面・頭部が鬼に変わりゆく女性を描いた《柳下鬼女図屏風》↓、面白い構図の《林和靖図屏風》、「人生すべて塞翁が馬」の気楽な《塞翁飼馬・簫史吹簫図屏風》↓↓、襲われる猿が気の毒な《鷲図屏風》、前期には人物像が出ている《鳥獣人物押絵貼屏風》、異形の《寒山拾得図屏風》、蝶におびえる龍の可笑しい《獅子虎図屏風》↓↓↓。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 第3部には、戦勝にもかかわらず梅の枝一本だけを郷里蒙古に持ちかえるクビライの重臣「伯顔図」、きわめてマンガチックな《許由巣父図襖》↓、墨の濃淡のみの略筆《孔雀図》・《蓮鷺図》、金箔地に水墨の《山水図扇面》、雪舟に倣って実景を描いた《富嶽清美寺図》、余白の美しい《瀟湘八景図屏風》などがお気に入り。 ![]() ここでのお気に入りは、与謝蕪村の癖のある老人《寒山拾得図》、茫漠たるたらしこみの円山応挙《富士三保図屏風》、蜘蛛の巣を狙う色鮮やかな鳥が描かれている長沢蘆雪・曾道怡《花鳥蟲獣図鑑》↓。 関東で、蕭白の全貌に迫ることのできる良い機会です。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
2010年から始まっているこの番組。3年目に入って、今回はパリのプティ・パレ。
![]() 展示されている18世紀の古典主義絵画としては、ダヴィッドの《セネカの死》やモンシオの《アギスの死》。 19世紀のクールベの《セーヌ川のお嬢さんたち》↓の一人は下着姿で、ボートは近くに男性がいることを表している。すなわちこの「お嬢さんたち」は「娼婦たち」だと非難された。 ![]() 印象派の作品としては、モネの《ラヴァクールの日没、冬の効果》は、マルモッタンの《印象、日の出》を想起させる素晴らしい画↓。 ![]() 再び《黒い犬を連れた自画像》↓や《田園の恋人たち》などクールベの登場。 ![]() ![]() クールベは、1819年、この地の裕福な地主の息子に生まれている。街にはクールベの《かじか捕りの少年》像が建っているが、これはクールベの少年時代の姿なのだろう。 クールベ美術館の一部に、彼が過ごした建物が保存されているが、彼の部屋には絵具入れ箱が置かれている。屋外で画を描ける時代になっていたのである。 2005年に、三鷹市美術ギャラリーで「クールベ美術館展」が開かれたが、その時の記事はこちらである。 クールベ美術館には、この画家の《ナアンの橋》、《仔山羊を抱く村の娘》↓、《オルナンの製紙所》↓↓、《オルナンの少女》などが展示されている。 ![]() ![]() クールべは、1840年、パリのソルボンヌ大学法学部に入学するが、結局、画家になってしまった。番組では、パリで彼が住み始めた「ラ・アルプ通り」や彼のアトリエがあった「オートフィユ通り」が紹介された。 第1回パリ万国博(1855年)には《オルナンの埋葬》(オルセー美術館蔵)を提出したが、出展を拒否され、「アルマ広場」で歴史上初めての個展を開くことになった。 1867年の第2回パリ万博でも同様だった。クールベの《眠り》は、この第2回万博の前年の1866年に描かれたものであるが、同性愛の二人の女性が抱き合っており、室内には女性好みの品々が描き添えられている↓。 ![]() ![]() ![]() プティ・パレには、45,000点もの作品が所蔵されているが、入場料は無料とのことである。 美術館としてのプティ・パレの紹介とクールベの生涯や作品の紹介が渾然一体となった不思議な構成の番組だった。 美術散歩 管理人 とら
今年は、クリムト(1862-1918)の生誕150年ということで、これを祝う展覧会がウィーンでいくつか開かれている。
今朝の日曜美術館のゲストの画家・横尾忠則氏のコメントが素晴らしかったので、思わずメモをとった。以下は、そのコメントを含む放映の概略。 1.ベルベデール宮殿(国立オーストリア美術館)ーここは懐かしい(訪問記事)。 《接吻》:着衣の文様(男=棒、女=円)は、男女の秘所を暗示。 ![]() 《水蛇Ⅰ》:水中で愛しあう二人の女性の許されざる官能美。覗いてはならぬ世界を表現。 ![]() 2.ウィーン美術史美術館ーここも懐かしいが(訪問記事)、↓の天井画は良く見えなかった(記事)。 ![]() 3.ウィーン大学講堂 《天井画:医学・法学・哲学》-エロスの世界を描いたこの作品は大学の受け取りを拒否され、その後戦火で焼けたため、現在は白黒写真が飾られている。 横尾氏のコメント:大学の固い頭に対して、「学問だけではこの世は救えず、感性が必要」ということを表現したのだ。 4.ウィーンの金持ちの妻たちの肖像画 《ソーニア・クニップスの肖像》-大金持ちが高いお金を払って描いてもらった。 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》-クリムトは裸身のエロスを想像した後、着衣像を描いた。 ![]() ![]() 5.分離派会館-ここも懐かしい(短い訪問記事)。 屋根には、黄金の月桂樹、正面には「時代には時代の芸術を。芸術には自由を」との宣言。 《ベートーベンフリーズ》-音楽に酔いしれている乙女、黄金の騎士の姿のベートーベン↓、行く手を阻む怪物と淫靡な世界に誘う金の蛇を首に巻いたその娘たち。 ![]() ハープや文様を含め金が大量に使用されている。これは金細工師だった父親の影響もあるが、永遠に輝きを放つ黄金によって作品に永遠の生命を与えようとしたものである。 開館初日には、マーラーが指揮して「第九」が演奏された。あの狭い部屋がさぞ轟いたことだろう。合唱はどうしたのだろうか。 調べてみると、これは「第九」の終楽章「倒れ伏すか、数百万の人々よ? 創造主を予感するか? 世界の人々よ~」が管楽アンサンブルで演奏されたもので、マーラーの指揮による演奏は「花崗岩のように力強ぃ響き」があったとのことである。(三宅幸夫:ウィーン世紀末の輝きークリムトとマーラー.アサヒグラフ別冊 美術特集 西洋編15「クリムト」.1991.3, p.81) 横尾氏のコメント:悪魔や蛇は「大学」を意味しているように感じる。金は宗教的な色で、現世を超えた力をもっており、インドでは性行為は神と一体化することととらえられている。自分自身は、装飾的になってしまいそうなので金を使わないが、クリムトの金を使った画は決して装飾絵画的となっていないないことに感心する。 6.レオポルド美術館-この美術館は時間切れで入れなかった残念な思い出がある(ナミダ記事はこちら)。 現在、ここで生誕150年記念の「旅するクリムト」展が開かれており、にぎわっている。美術館のサイトにアクセスすると、展覧会名はKLIMT PERSONALLYで、会場の様子の動画や講演会(ドイツ語)も視聴できる。 7.アッター湖 ここはザルツブルグ近く。クリムトは、毎夏、汽車と馬車で出かけている。現在も、クリムトの別荘が残っており、その所有者のおばあさんの話や古い写真が出てきた。 お礼に画を一枚あげようというクリムトの申し出を、「自分が持っていても仕方がないと」断った船頭さんの子孫が残念がっているという話には、サモアリナン!と笑ってしまった。 子供と遊び転げるクリムトの姿はほほえましかった。彼に、こういった一面があることを納得させる素晴らしい写真だった。この写真はこちらで見られます。 クリムトの風景画は全220点にうちの50点。放送で出てきたのは《アッター湖にて》と《花ざかりのポピー》。そこには女性どころか、人物がまったくいない。風景画は売らずに、すべて手元に置いたとのこと。 ![]() そして、「クリムトは時代の空気に非常に敏感であった」とも話され、最後に「55歳で亡くなられてむしろ良かった。もっと長生きされるとわれわれがやることが何も残らなくなってしまう」という最大限のオマージュで話をまとめられた。 美術散歩 管理人 とら 【追記】 ウィーンでのクリムト生誕150周年展の全貌は、こちらで見られます。
遅れていたサクラ満開前線も昨日ようやく東京に着いた。喧噪を避けて、近くのサクラ見物。家内は、幼い孫たちを連れて昨日「目黒川」-「菅刈公園」の花見を済ませているので、本日の「とら」は単独行。
まずは近所の「サクラ通り」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら ![]() 上の孫娘は中学生になり、既にモネ・ルノワール・ゴッホなどは十分に理解している。そこで、今回はセザンヌに挑戦することにした。 ![]() 今回の展覧会は、「セザンヌがパリ周辺の北フランスで印象派の洗礼を受けた後、故郷の南フランスに引き込んで印象派を乗り越える新たな絵画を作り出していた」という従来の考えは正しくなく、実際には20回以上も南フランス⇔北フランスを往復していたという事実に着目したものである。そして、この南北往復がセザンヌの画業にどのような影響を及ぼしたかを詳細に分析することを目的としているであるが、これを小中学生に正確に理解させることは不可能である。 そこで、孫娘たちには、セザンヌは「ピカソに先立つ近代絵画の父」といわれていること、「自然を基本的な形の円筒・球・円錐でとらえようとして、ジックリ観察して構図をきめた」らしいという2点だけを教えて、一緒にどんどん見ていくことにした。幸い展示はテーマ別となっているので、前述の南北間移動を無視して見ていっても問題はなかった。 ↓は、美術館内での二人の孫娘のポーズ。下の孫娘はこの美術館は2回目。ルノワール展に一緒に来た時の前回の記憶は、「Jiji が、庭の芝生に入って写真を撮って、警備員に注意された」だけというから、苦笑! ![]() ちなみに、W=小学校4年生、M=中学校1年生、K=「とら」の娘、T=「とら」の家内、A=「とら」 Ⅰ 初期 ~お気に入りなし Ⅱ-1 風景 北:1882年まで ・20.首吊りの家(K) ![]() ![]() ![]() ・28.サンタンリ村から見たマルセイユ湾(A)-南仏の海と空の青が美しい。印象派的な筆触は、空の斜めの描線や海面の横の描線で明らかだが、建物は堅固な構造物として表現されている。吉野石膏蔵のものだけに、私の「お気に入り」に刷りこまれている。 ![]() ・32.マルヌの川岸(M)-M曰く「人が船に乗っており、水に景色が映っているよ。」 ![]() ![]() ・39.大きな松の木と赤い大地(A)- ![]() ![]() ~お気に入りなし Ⅲ-2 身体 パリ:余暇の情景 ・52.池のほとり(W)- ![]() ~お気に入りなし Ⅳ-1 肖像 親密な人々:家族と友人の肖像 ・65.横たわる少年(W)- ![]() ~お気に入りなし Ⅳ-3 肖像 プロヴァンス:農民、庭師の肖像 ・70.坐る農夫(A)-ゴッホの肖像画みたいだ。 ![]() ![]() ・72.牛乳入れとレモンのある静物(T)-比較的小さな画。Tの「お持ち帰り」希望。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・83.りんごとオレンジ(M,W,K,T)ーMからのメールに曰く「セザンヌの絵は、立体感があって、『本当に凄いなぁ~』と、思ったよ~」 ![]() 84.庭園の花瓶(W)-W曰く「左上に人物の像があるよ。」 ![]() ・87.サント=ヴィクトワール山(W,A)-空も山も手前の風景も震えるようなタッチで描かれている。明らかに具象から抽象へ移行している。 ![]() ![]() ショップで、お気に入りのポストカードを一枚ずつ選んだ。父親(Y)のお土産にも一枚購入した。それを机の上に並べて写真を撮った。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
昨日は、異常に発達した低気圧によって、全国に猛烈な風が吹き、雷も鳴った。風神・雷神の仕業なのか、ゼフュロスの悪戯なのかしらないが、今日も北海道・北陸・東北ではこの異常気象が続いている。しかし関東地方は風は少し残っているものの、快晴になった。
熱海のMOA美術館では、岩佐又兵衛の有名な絵巻群が3期に分けて展示されている。今日は、《山中常盤物語絵巻》が見られる第Ⅰ期の最終日なので、頑張って見に行ってきた。 新幹線のホームからこの美術館の看板と桜が見えたので一応写真を撮った↓。バスの停留所からこの桜がよく見えたので、もう一枚↓↓。 ![]() ![]() ![]() ![]() まずは、義経の東下りから始まる。藤原秀衡の館で鄭重に扱われている場面もしっかりと描かれている。一方、常磐御前も寺社詣でをして牛若丸との再会を祈る場面も詳細に描かれている。 常盤御前が行方知れずになっ牛若丸が平泉にいることを知って、乳人の侍従と二人で奥州への旅に出る。常磐は十二単衣、侍従は五重の小袖を着用。↓は「瀬田の唐橋を渡る常盤御前と侍従」の場面だが、奈良絵本風の比較的シンプルな描写である。工房作の絵なのだろうか。 ![]() ![]() ![]() 一方、牛若丸は母が夢に出てきたので、急ぎ京に上ったが、間に合わなかった。そこで、計略を使って母殺しの盗賊6人をおびき寄せ、「霧の印」で眼くらまし、「小鷹の法」で飛び上がって、全員を斬り殺す(↑のポスター参照)。「胴斬りによる体幹部の水平断面」↓や「面割りによる上半身の矢状断面」↓などは迫真の描写。死体の色もそれぞれ描き分けているように見える(巻9)。 ![]() 途中に、野々村仁清の国宝《色絵藤花文茶壺》などの名品がなにげなく置かれているのもニクかった。 西洋絵画の展示室には、モネやレンブラントの素晴らしい作品があったが、中國の古美術の充実には舌を巻いた。 お気に入りは、貫入の見事な南宋・官窯の《青磁大壺》、北宋・定窯の見込みの奥ゆかしい《黒釉金彩瑞花文碗》、北宋・景徳鎮窯の優美な色彩の《青白磁蓮華文盤》、異国情緒のある明時代の法花《三彩松下人物文壺》、清・景徳鎮窯の記憶に残る色合いの《粉彩団龍文瓶》、昔の輝きがそのまま残っている唐時代の《双鸞宝相華八花鏡》と《鸚鵡宝相華八花鏡》。 美術散歩 管理人 とら
Takさんのお世話で標記の展覧会のブロガー内覧会に参加した。ブリヂストン美術館でこのような会が開かれるのは初めてとのことであるが、素晴らしい企画だったと思う。島田館長以下、沢山の館員の方が遅くまでブロガーたちにつき合っていただき、ブロガーが美術館関係者とface-to-faceで話をすることができたことが一番良かったと思う。両者にとって実り多い時間だったのではなかろうか。
まず講義室で、今回の展覧会の目的や構成についてのプレゼンテーションを受けた。ブリヂストン財団の東京と久留米の二つの美術館のスターが勢ぞろいし、テーマ別に展示したとのこと。 以下、会場の見て歩き。【自画像】の部屋では、マネ、セザンヌ、藤島武二、青木繁、坂本繁二郎、中村彝、小出楢重、古賀春江などおなじみの顔が勢ぞろい。マイベストは青木繁だが、会場でアンケートをとったら面白いのではなかろうか。 【肖像画】の部屋は、【ヌード】の部屋と一緒。どうしても後者の方に目が行ってしまうのは凡人の常。とくに、和田英作の《チューリップ》と岡田三郎助の《水浴の前》のコーナーは見事↓。 ![]() 【モデル】の部屋は、コロー、黒田清輝、藤島武二、マティス、坂本繁二郎の名作の競演。 【レジャー】の部屋では、いくつか初見の作品があった。とくに興味をそそられたのは、ロートレックの《サーカスの舞台裏》↓。観客のいない場所での馬と道化師たちの親密な世界をこのようにヴィヴィッドに描くのは、ロートレックの真骨頂だろう。 ![]() ここで、お目当ての【新収蔵作品室】に入る。まずは、カイユボットの《ピアノを弾く若い男》↓。 ![]() そこで、Wikipediaを検索すると、マルモンテル(Marmontel, Antoine François 1816~1898)はパリ音楽院教授として鍵盤楽器を担当。有能で想像力豊かな教師として名を揚げた。多くの門弟のうち、特筆すべき存在として、ジョルジュ・ビゼーやクロード・ドビュッシーがいる。作曲家としては、夜想曲やロマンスなどの小品に加えて、200以上の教育作品を残したとのこと。したがって、カイユボットの弟が弾いているのは、こういった曲の一つだったのだろう。 カイユボット(1848年8月19日 - 1894年2月21日)は印象派のスポンサーとして有名であるが、彼自身の画も素晴らしい。あまり長生きしなかったこともあって、彼の全作品数はそれほど多くないようである。彼が遺した作品を国に寄贈しようとしたが、当時それほど有名でなかった印象派の作品を受け取ることに時間がかかったことも有名な話である。 私自身印象深かったのは、シカゴ美術館のギャラリー正面に、カイユボットの《パリの通り、雨》が、ドーンと飾られていたことである(その時のHP記事はこちら)。今回、ブリヂストン美術館が入手された《ピアノを弾く若い男》も超有名で、Wikipediaにも画像が載っている。この作品を、いち早く見られて本当に良かった。是非早めにご覧になることをお勧めする。 もう一つの新収蔵作品は、岡鹿之助の《セーヌ河畔》である。そういえば、ブリヂストン美術館で、この画家の回顧展がしばらく前にありましたね(記事はこちら)。今回の作品は、一見すると、アンリ・ルソーの素朴画のようである。見る側も無心に受け止めることができる好作品である。ちょうどこの画の前で、旧知のブロガーの女性2名に遭遇して、一緒に観賞した↓。もちろん、ちょっとおしゃべりもした。 ![]() ![]() 【川】の部屋の出口の隅に、佐伯祐三の《テラスの広告》が淋しそうにしていたので、思わず写真を撮った↓。テーマの【川】とは無関係なのに、なぜここに展示されていたのであろう。佐伯祐三がここでも異邦人のように扱われていたとは思いたくないが・・・。 ![]() 自宅に帰って、1991年2月刊行の「ブリヂストン美術館 名作選」(↓左;これを1991年9月22日に買った時には7000円の大金をはたいた)と2004年4月刊行の「読む石橋美術館」(↓右)を引っ張り出して、今回の出品リストと比較してみた。 ![]() 一方、【現代美術】室の14点は、いずれも上記のカタログには載っていなかった。差し当たり、美術館のDBにリンクさせていただくが(96, 97, 98, 99, 100, 101, 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109)、これは美術館の都合で、いつでもリンク切れになる。今回の展覧会にあわせて図録も作られたようなので、機会があれば見てみたい。 島田紀夫館長と親しくお話をすることができた。 ブロガーと美術館の関係についての考え方について、非常に前向きな意見交換ができたように思う。自分がこの美術館に孫と一緒に「マティスの時代」を見に来たこと(記事はこちら)などもお話したが、子供の重要性については意見が完全に一致した。 このような機会を設けていただいた島田館長をはじめとする美術館関係者ならびにモデレーターのTakさんに厚くお礼を申し上げる。 なお、会場内での撮影は、美術館の許可を得たものです。 美術散歩 管理人 とら
「日中国交正常化40周年記念」という副題で、昨年5月に東京を皮切りに全国各地で開かれる予定の展覧会だったのだが、東日本大震災の影響で東京での開催は 2012年にずれ込んでしまったのである。
![]() 内容的には、東博展は故宮の皇帝展であったが、今回の富士美展は故宮の后妃展である。自分の頭から離れない浅田次郎の「蒼穹の昴」が、再びよみがえってきた。 ![]() 展示内容はこちらに詳細に掲載されているので、この記事では、この展覧会で見た多数の清の后妃たちに視線を向けた各論的な文章にしてみたい。 1.后妃章 @《女孝経図》 海外初公開の国家一級文物である《女孝経図》は、儒教思想に基づく女性の徳と教育をテーマに九つの場面を描いた、南宋時代の名画。その一つの《后妃章》↓は「后妃が実践する孝は天下の模範であること」について記したもの、また《三才章》↓↓は「一家の尊敬と礼儀」について述べたものである。こういった発想は、現代の男女機会均等社会の常識からはひどくかけ離れたものであるが、徳川幕府の「大奥」でも同様な規範で女性が律せられていたのである。 ![]() ![]() ![]() 3.考儀純皇后(魏佳氏) 乾隆帝の第15皇子、後の嘉慶帝の子供時代とその母親・魏佳氏↓。肖像部分はカスティリオーネが描いている。 ![]() ![]() 《乾隆帝及妃威弧獲鹿図》すなわち「乾隆帝の鹿狩り図」(部分)↓で、帝に矢をわたしている妃は、髪型や顔の特徴からみて西域から嫁いできた容妃、すなわちで香妃である可能性が強いとのこと。↓↓は台北にある香妃の像の部分。こちらも勇ましい軍装である。 ![]() ![]() 元来は満州族の出自である清朝の皇帝も、初代・順治帝の母は蒙古族の孝荘文皇后、二代・康熙帝の生母は漢族の孝康章皇后というように満州族・蒙古族・漢族の血が混ざってきていたが、五代・乾隆帝は、さらにチベット仏教を信奉し、西域との関係を深め、回教も容認していた。容妃を大切にしたことについても、このような乾隆帝の考え方が基盤にあったのだろう。容妃が乾隆帝の子供を産まなかったことは、まことに残念なことであった。 5.孝貞顕皇后(東太后慈安) ![]() 6.孝欽顕皇后(西太后慈禧) 満州族出身の西太后は、病弱の夫「咸豊帝」を意のままに操り、人望の厚い 孝貞顕皇后(東太后慈安)や咸豊帝の弟の恭親王奕訢を抱き込んでいた。夫の死後、6歳のわが子を帝位につけ、垂簾政治の実権を握った。 西太后の思惑が外れたのは、成人した同治帝が皇后に選んだのは、東太后が推した女性だったことである。同治帝の急死後、西太后の復讐を恐れたこの孝哲毅皇后(嘉順皇后)は、断食により、胎児とともに衰弱死したとのことである。 同治帝死後の皇帝選びの際には、同治の妹の子を強引に押して、第九代・光緒帝を誕生させた。 やがて、東太后の急死事件が起こる。公式発表は病死であったが、西太后が関わったとする毒殺説もある。また、清仏戦争敗北の責任を恭親王に被せて失脚させた。このように、東太后の死去と恭親王の失脚によって、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。 光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 光緒帝の皇后には、自分の姪を強引に押し付けた。これが「孝定景皇后」である。ちなみに、彼女は光緒帝から敬遠され、西太后の影のような立場だったが、6歳の宣統帝溥儀の退位の詔勅を自分の名前で公布し、封建制へのピリオドを打つという歴史的な役割を果たした。 光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務派官僚を登用した。しかし洋務運動は日清戦争により挫折し、体制的な改革を主張する変法運動がまきおこった。光緒帝は変法派を登用して、体制の抜本改革を宣言した。袁世凱が変法派の西太后幽閉計画を密告したことにより、西太后はこれに先んじてクーデターを仕掛け、変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を幽閉した。 ![]() 1900年に、義和団の乱が発生。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は光緒帝を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。 この際、同行を拒否した光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。この珍妃の印鑑↓が今回展示されていた。またこの井戸は現在も紫禁城内にあり、その写真も出ていた。 ![]() 最後に、西太后の毒気の口直しとして、明代の国家一級文物のお気に入りを一点。仇英の娘、仇珠の《女楽図》↓(拡大↓↓)である。ハープのような楽器(箜篌-クゴ)の弦が一本一本正確に描かれていることを双眼鏡で確認した。少女が持っているのは打楽器の拍板(パイバン)らしい。 ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
ずいぶん前のことになるが、アメリカ東海岸で暮らしていたことがある。その時に、ボストン美術館を訪れて、有名な日本美術コレクションを見た。地下室のような場所に、仏像が多数展示されていて一種異様な感じを受けたことを憶えている。
近年、ビゲロー・コレクションの肉筆浮世絵や錦絵版画の展覧会が何度も開かれ、名古屋のボストン美術館分館では西欧絵画が常時見られる。このように、日本とボストンの美術関係は、非常に緊密である。 今回は、ボストンから浮世絵以外の日本美術が大挙して里帰りしている。明治初年の日本美術品の海外流出の経緯については、当時の関係者を美化称揚する向きが多いが、図録中のコラム「大阪で買いまくったアメリカ人、世界に売りまくった日本人ーフェノロサ、ビゲローと古美術商・山中」に「知念理」氏が書かれているように、ものごとの両面を見る必要があると思う。 ![]() 調べてみると、東博は1872年(明治5年)3月開設ということになっているが、これはその年に、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂で開催され、その広告や入場券に「文部省博物館」と明記してあったので、その時をもって東博の開設としている。上野公園に博物館が建てられたのは、1881年(明治14年)である。 一方のボストン美術館は、1876年の独立記念日に開館している。 このようにほぼ同時期に開館した美術館同士の交流展であるから、まことに意義深い。ここでは、各方面における日米関係の成熟を素直に喜びたいと思う。 いつものように前置きが長くなってしまったが、140年の歴史に免じて、ご容赦願いたい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 平安時代の《吉備大臣入唐絵巻》は↓、 2000年の日本国宝展に一部だけ特別出品されていたが、全巻を通して見るのは今回が初めて。これはユーモアの極致。マンガの始祖である。 ![]() ![]() ![]() ![]() 鎌倉時代の《平治物語絵巻 三条殿夜討巻》↓はドキュメンタリー。 ![]() 「中世水墨画と初期狩野派」にも見るべきものが多かった。ここでのお気に入りをいくつか挙げる。 ・祥啓《山水図》 室町時代↓: 南宋の夏珪の広い空間構成の画に学んでいる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・長谷川等伯《龍虎図屏風》 江戸時代・慶長11年(1606)↓: 龍と虎の間の空間の表現は、見事としかいいようがない。龍は三本爪。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・《龐居士・霊昭女図屏風(見立久米仙人)》↓: 霊昭女の脚に視線をそそぐ龐居士。籠造りどころではない。 ![]() ![]() ![]() ・《朝比奈首曳図屏風》↓: 青鬼と首曳をする朝比奈三郎。三郎の前の刀が美しい。 ![]() ![]() ![]() ![]() 《雲龍図》は大作品で、修復が大変だったそうだが、龍の胴体の部分が欠落しているので、全貌を把握しにくい。《鷹図》の上の1点は、《雲龍図》と同じ寺院の襖だったらしいとのこと。全体像の解明が望まれる。 ![]() ![]() ![]() 蕭白にこれだけの画風の変遷があったことを知ったのが収穫だった。来月、千葉市美術館で「蕭白ショック展」が開かれるので、 その時に彼の全貌が明らかにされることを期待したい。 美術散歩 管理人 とら
これは前報「博物館でお花見を」の続き。「ボストン美術館 日本美術の至宝」の記事はこちら。
エレベーターで2階へ。まずは、特別陳列「江戸時代の地図」 (本館 特別1室・特別2室)を拝見。江戸時代・1690年の遠近道印作、菱川師宣画《東海道置駅図 2帖》にお目にかかった。富士山を描いた部分を撮影↓。東西南北をなにげにずらして、ひねって描いているところがニクイ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ところが、本日、この漆工室に愛知・熱田神宮蔵の重文《蓬莱蒔絵鏡箱》-室町時代・15世紀-が2合出ており、なんとその横にくだんの鏡が鎮座ましましているではないか。これで疑問が氷解した。前回この鏡を見たのも金工室ではなく、漆工室だったのだ。漆工室ならば、鏡そのものにキャプションがついていないのはおかしくない。前回も、隣にはこの鏡箱が展示されていたのだが、鏡一筋の当時の「とら」の眼には、鏡しか入らなかったのだった。 このように合点して、しっかりと写真を撮ってきた。2合のうち蓋を開けて展示してあったものは、箱が↓、鏡が↓↓である。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
春分の日。昨日から府中に行こうか上野に行こうか迷っていたが、朝になってやっと上野に決めた。今日は「ボストン美術館 日本の至宝展」の初日である。開館前から大勢の人が待っている。500~1000人といったところだろうか。
![]() ![]() 平成館から本館に移って、18室の【黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景】を見たが、これがなかなか良かった。出展リストはこちら。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
日曜の朝は忙しい。日曜美術館を見たら、すぐに美術散歩にでかけたくなる。番組のメモをとっておいても、よほどでなければブログに感想をアップしている余裕がない。
今朝の「十和田現代美術館ー水野美紀」と「青森県立美術館ー須藤元気」の「アートの旅」は出色の出来だったので、メモをそのままアップする。メモ用紙を節約しているわけではないが、今朝は朝刊の行間に書いてしまった。 ![]() 赤のボールペンで紙面の行間にメモされている 「感覚がギュット詰め込まれる」十和田現代美という水野美紀の新鮮な言葉や「魂がこもっている」青森県美という須藤元気の奥深い言葉が、社会の暗い現実を表す黒くて硬い活字たちと鋭い対照を示している。 とすると、このメモは「現実現代アート」あるいは「現々代アート」といえるかも・・・??? 【追加】 番組では、この後、「コートールド美術館」の紹介がなされた。大分昔のことで恐縮だが、ある暑い夏の日に、ロンドンの地下鉄を下りて、急坂を上って、ここを訪れると、あいにく閉館中で、やむなくカタログだけ買って帰国した。すると、まもなく日本で「コートールド美術館展」が開催され、お目当てのマネ・モネ・セザンヌなどを見ることができた。(記事はこことここ)その時に日本に来なかったゴッホの《頭に包帯をした自画像》に、今朝TV画面の中で初めてお目にかかった。 美術散歩 管理人 とら
東洋文庫は長年、専門家だけの聖地であった。この文庫のことは、高校時代、漢文の清田清先生から聞いていて、一度は訪ねてみたいと思っていた。ところが、どういう風の吹き回しか、2011年11月に東洋文庫ミュージアムが一般公開されることになった。寒い時期の開館記念展はパスして、暖かくなってきた今日、この東洋文庫ミュージアムを覗いてみた。
![]() ミュージアムの入口ではA4のカラー地図をもらう。これはなかなかの出来である。チケットをもらえなかったので、聞いてみると、入場券のレシートで代用しているとのこと。小中学生は美術館のチケットを大切にしているので、淋しがるだろう。チケットの通し番号をモギッテおくのは、納税のためと聞いていたのだが、最近は問題がなくなったのだろうか。 閑話休題、「オリエントホール」に入る。ここにはアジアの海賊関係の書籍が並んでいる。展示品のリストは受付ではいただけなかったが、HPに載っているので帰ってきて参照した。 チラシには海賊という字が大きく書かれているので、さぞ沢山の展示品があるかと期待していたのだが、それほどでもなかった。このホールで「東の海の海賊たち」に直接関連しているものは、以下の7点ぐらい。 《東の海の海賊たち》、《マラヤの海賊》、《東インド諸島での海賊行為》、《中国の海賊に捕われたフランス女性》、《トンキンの海賊に捕われて》、《南中国沿岸の海賊たち》、《中国海賊と過ごした日々》↓(この写真は女性海賊。著者は一緒に過ごしたとのことだが、ひょっとするとヤラセかも・・・) ![]() ネットで探してみたら、「俺たちゃ海賊」というサイトを発見した。タイトルはユニークだが、中身はひどく濃いようだ。 並んで出ていた↓のユルキャラにま思わず笑ってしまった。これは中国・夏王朝の伯益の「山海経」(せんがいきょう)に出てくる伝説上の人物「形天」。 この絵には「形天 無首 操干戚 而 舞、以乳目為 以臍為口」という文が付いている。ネットで調べると、「形天は帝と争った。帝はその首を切り、彼を常羊の山に葬った。すると乳が眼となり、臍が口となって、干戚(盾と斧)を操って舞った」との説明がついていた。 ![]() 自分で20ケぐらいの画像を選ぶと、ソフトでそれを並べ、国立情報研究所のサーバーにアップロードされ、それを受付でダウンロードしてオリジナル絵葉書としてプリントアウトしてくれる仕掛けらしい。 私「とら」の作品《No 1》は、↓である。右下には日付けと作者「とら」の名前も印刷されていたが、読みにくいので、私が画像処理で左下に付け加えたように、もう少し大きな文字にし、タイトルも入れた方が良いと思う。 ![]() ![]() ![]() ![]() 《中国海賊の歴史》、《香港の海賊》、《海賊艦隊撃破》↓、 ![]() ![]() 教育的なパネルがいくつもあったが、その中では「おてんばコルネリア」が面白かった。「おてんば」の語源はオランダ語(ontembaar)。この言葉は、長崎のオランダ人が、日本人女性の御しがたい性格を表したものらしい。 コルネリアは、平戸のオランダ商館長を父に、日本人を母に生れ、幼くしてバタヴィア(現、ジャカルタ)へ追われた混血娘。17世紀最強の商業国オランダのアジア植民地社会における隷属的な地位にあらがった「おてんば」女性である。 平戸の松浦史料博物館(記事はこちらとこちら)のことを思い出すとともに、「長崎物語」の唄がよみがえってきた。 ♪♪ 赤い花なら曼珠沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降る。なぜに泣いてるジャガタラお春、未練な出船の、ああ鐘が鳴る、ララ鐘が鳴る ♪♪ 孫を連れてきたら、この唄を歌わなければならない。 ちなみに、「ジャガタラお春」とは、鎖国によってジャガタラ(ジャカルタ)へ追放された長崎生まれの混血女性。父はイタリア人航海士ニコラス・マリン母は日本人のマリア(洗礼名)。 このセクションには次のようなものも出ていた。 《アジア図》↓。東インド会社のブラウの作。地図両端には民族衣装に包まれたアジア人、上部には東インド会社が進出した主要都市が描かれている。ただし地図上、まだ北海道は存在していない。 ![]() ![]() ![]() ![]() デジタルブックの《リンスホーテン航海記》と《シーボルトNIPPON》は拡大表示だけで面白くない。 次は「回顧の道」。廊下が「クレバスエフェクト」のあるガラスで、落ちそうな感じがするので、壁面の作品はおちおち見ていられない。 ![]() ![]() ![]() 《国宝 文選集注》は大したものらしいが、孫を連れてくるとすれば、それまでに勉強が必要。「もんぜんしっちゅう」という読み方からして難しい。展示替の予定は、Ⅰ期《 文選集注 巻五十九の二》 平安中期書写(3月7日~ 4月2日)、Ⅱ期《 文選集注 巻六十八》 平安中期書写(4月4日~ 4月30日)。 調べてみると、「文選」とは南北朝時代の梁の昭明太子(501-531)が編纂した詩文集で、過去1000年間の100人以上の文人の詩文約800首が含まれている。文選の日本伝来は7世紀頃で、平安朝にはさかんに読まれたとのこと。 英雄、栄華、炎上、解散、禍福、家門、岩石、器械、奇怪、行事、凶器、金銀、経営、傾城、軽重、形骸、権威、賢人、光陰、後悔、功臣、故郷、国家、国王、国土、国威、虎口、骨髄、骨肉、紅粉、鶏鳴、夫婦、父子、天罰、天子、天地、元気、学校、娯楽、万国、主人、貴賎、感激、疲弊という熟語はすべて「文選」から出ているというから驚く。 「文選集注」は、もともと国内に120巻あったといわれるが、現在はその多くが失われ、東洋文庫、金沢文庫、東博などに全20巻が残っているだけとのことである。 浮世絵は大好き。サクラにはまだ早いが、摺りの良いものが2点出ていた。東洋文庫の浮世絵の保存状態が良いのは、今まで公開されてこなかったため。今回の公開にあたって、「① 1つの浮世絵は、3年間に28日間のみ展示、②連作ものについては、必要に応じ実物と精密複製を併用して展示」という原則を定めたとのことである。ボストンのスポルディングコレクションのように原則非公開でないだけ良かったと思うことにしよう。 《 御殿山花見駕籠》↓: 三枚続のうち、右のみ本物、中・左は複製。 ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
前報の特別展「ユベール・ロベール」展にも、ピラネージの大型版画集がいくつも出ていた。この版画素描展示室のピラネージ展もそれに因んだものだろう。
この《牢獄》は、町田市立国際版画美術館の「ピラネージ版画展」でも見ているが、今回は第1版14点と第2版16点が全点みられるということで、特別展の後に足を運んだ。 ![]() ![]() ![]() 1.表題紙 ![]() 2.拷問台の男(第2版のみ) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
「廃墟の画家」と呼ばれる18世紀のフランス風景画家ユベール・ロベール Hubert Robert の作品は、今まで何度も見てきたが、いつもサラリと見る程度だった。
今回、ユベール・ロベールのサンギース(赤チョーク)素描を沢山所蔵するヴァランス美術館(Musée des beaux arts et d'archéologie de Valence)の増改築を機に、この展覧会が開かれた。油彩が比較的少ないのは物足りなかったが、この画家の全貌を知ることができたのは良かったと思う。 ![]() 章別の解説パンフレットのみで、作品リストがなかったので、メモを頼りに記事を書くこととする。(註: その後、HPでリストを見つけたので、記事を修正した) 第1章 イタリアと画家たち ・ユベール・ロベールのこと: 1733年、パリ生れ。父ニコラ・ユベールはスタンヴィル侯爵の侍従。1754年、侯爵の息子のイタリア旅行に随行したロベールは、以後11年間にわたって画の研鑽にはげんだ。幸せ者ですね。 この画↓の原作者はエリザベート・ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお抱え女流画家。後に、フランス革命を逃れて亡命している。 ![]() ・18世紀になって、古代の遺物が画面を構成する重要な要素となってきた。その例は、セルヴァンドーニ《コロッセウムとガイウス・ケスティウスのピラミッドのあるローマのカプリッチョ》、国立西洋美術館蔵のパニーニ《古代建築と彫刻のカプリッチョ》。 第2章 古代ローマと教皇たちのローマ ・大きなピラネージの版画集「ローマの遺跡 第1巻」と「ローマの景観」が出ていた。前者には《ローマの地図》↓ ![]() ・時代別に並んでいる淡彩画↓やサンギース素描によって、ロベールがローマの名所旧跡を夢中でスケッチしていたことが分かる。中には、ロベール本人を思わせる写生する画家が描きこまれている素描↓↓もあった。 ![]() ![]() ・古代遺跡、教会建築の他に、古いヴィラの庭園、ローマから離れた場所のピトレスクな風景など多彩なモティーフの作品を残している。 ・《サンピエトロ大聖堂の柱廊の開口部の人々》ヴァランス美術館蔵↓。 ![]() ・《ティヴォリの滝》プティ・パレ パリ市立美術館蔵↓。 ![]() ・フラゴナールの《丘を下る羊の群れ》国立西洋美術館も出ていた。 第4章 フランスの情景 ・1765年、フランスへ帰国。翌年王立絵画彫刻アカデミーへの入会許可。フランス貴族社会の中枢で活躍。 ・1780年代、ルーヴル宮内にアトリエ。王室絵画コレクションの管理。 ・旧体制期のフランス風景を描いた。《サン=ドニ教会の内部》ヴァランス美術館蔵↓。 ![]() ![]() ・《古代遺物の発見者たち》ヴァランス美術館蔵↓には、古代との出会い、地下へ下ろした梯子、アーチ、奥から差し込む光などが見られる。これらはイタリア時代の素描に描かれているもので、古代が日常生活内に溶け込んでいたイタリアの思い出の中の古代遺物を組み合わせたもの、すなわち「奇想の風景」である。 ![]() ・この章には、ロベールの他の作品としては、《スフィンクス橋の眺め》東京富士美術館蔵と《教会の中の埋葬の場面》ヴァランス美術館蔵、《凱旋橋》ヴァランス美術館蔵↓が出ていた。 ![]() ・その他の画家の作品としては、ヴェルネの《夏の夕べ、イタリア風景》国立西洋美術館蔵、リチャード・ウィルソンの《ティヴォリの風景》国立西洋美術館蔵が出ていた。 ・《メレヴィルの城館と庭園》イル・ド・フランス美術館蔵も出ていた。 第6章 庭園からアルカディアへ ・イタリア時代のモティーフは庭園デザインにも役立った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ロベールが獄中で描いた皿絵《牢獄風景(サン・ラザール牢獄の囚人たちの散歩)》国立西洋美術館蔵も出ていたが、「盛者必衰の理」を表しているようだった。死刑を宣告されていたロベールが死を免れたのは、他の囚人が間違って彼の代わりにギロチンに送られたからだった。まさに危機一髪。 ロベールは、1794年7月のロベスピエールの失脚・処刑後に釈放され、1795年には、ルーブル美術館の前身である「美術館ギャラリー」の管理者の職に就いているのだから、まことにしぶとい男である。 美術散歩 管理人 とら
東日本大震災から1周年。近美に行く途中の国立劇場付近にはお巡りさんがいっぱい。心臓手術から間もない天皇陛下が出席される追悼式の会場だから当然の警備である。
ポロック展を見終わってから近美の所蔵作品展を見て回った。近美ではこの1年の間、所蔵作品展において「特集 東北を思う」シリーズを継続して行っているが、これも5月までの今期で終了とのことである。 今期の「特集 東北を思う」は、1970年代以降の作品を展示している2階が中心とのことでだったが、4階や3階にも東北関連の作品が沢山出ていた。以下、今回注目した作品を列挙する。 4F: ・今村紫紅《絵巻物模写 伴大納言絵巻(其一)》 ・尾竹国観《油断》 ・川端龍子《慈悲光礼讃(朝・夕)》 ・辻永《椿と仔山羊》: 「渋谷ユートピア」展で覚えた辻永のヤギがここにいたのだ。 ![]() ![]() 織田一磨、川瀬巴水、古賀春江、小山良修、林武、向井潤吉、安井曽太郎らのダリアの花が一堂に会している。その中の第2位は川瀬巴水↓、第1位は向井淳吉↓↓。 ![]() ![]() ・川瀬巴水《旅みやげ 第一集》 ・前田青邨《石棺》 ・棟方志功《二菩薩釈迦十大弟子》 ・海老原喜之助《殉教者》:エビハラ・ブルーの画家のその後の作品。沢山の矢が刺さった殉教者はもちろん聖セバスティアヌス。熊本市の小峯墓地には忠霊塔を「殉教者(サン・セバスチャン)」のブロンズ・レリーフが残っているようだ。 ![]() ![]() 小磯良平《ビルマ独立式典図》には、大東亜戦争を正当化する意図が隠されているようだ。1943年8月1日の独立式典の意義については、こちらを参照されたい。アウンサンスーチーさんのお父さんのアウン・サンのビルマ独立時における活躍やミャンマーの人々の日本人に対する感情については、日本人は記憶にとどめておかねばならない。その意味で、この小磯の画は歴史的な価値があると思う。 ![]() 今年、東京国立近代美術館は創立60年を迎えるという。この絶好の機会に、東京国立近代美術館が「米国からの永久貸与」として、所蔵しながら、数点ずつしか展示してこなかった「戦争画」を一括展示する「戦争画展」を開催していただきたいと思う。 東日本大震災の記憶ですら風化しつつある。まして第二次世界大戦を記憶にとどめる世代の数は年々減少している。あの戦争の悲劇の記憶をこれ以上風化させないためには、この戦争画の一括公開がもっともよい手段となる。この際、現在のような「消極的隠蔽」を停止するだけの理性が必要であり、それは歴史に対する責任でもある。 ・ピカソ《ラ・ガループの海水浴場》:複雑な構成と美しいマリンブルー。本日の特別展のポロックはピカソを乗り越えることを最大の目標としていたらしいが、これではとても無理である。 ![]() 「特集 東北を思う」では、米国同時多発テロ事件後のNYでの相反する感情を描いた大岩オスカールの《ガーデニング(マンハッタン)》、再生のシンボルの桜を描いた児玉靖枝の《ambient light ― sakura》、嘆き哀しむ人々の表情をスローモーションで捉えたビル・ヴィオラのヴィデオ・インスタレーション《追憶の五重奏(The Quintet of Remembrance)》、瞽女(ごぜ)らしき女性を描いた斎藤真一の《おみかの悲しみ》(参照:斉藤真一《星になったごぜ》)が目立っていた。 ★「原弘と東京国立近代美術館 デザインワークを通して見えてくるもの」展 ポスターや装幀などのデザインワークにこれほどの作品を残した方がおられたのをはじめて知った。本当に「継続は力なり」である。 美術館の出口で時計を見ると、ちょうど14時46分だった。一人でしばらく黙祷した。 美術散歩 管理人 とら
ポロックはあまり好きだとはいえない画家で、展覧会でも彼の画の前はサラリと通り過ぎることが多かった。ということで、この展覧会もパスしようかと思っていた。
第1章: 初期 自己を探し求めて(1930-41年) ・アメリカ地方主義、とくに師のベントンの影響: うねるような《綿を摘む人たち》、1935年頃、オルブライト=ノックス・アートギャラリー蔵。 ![]() ・ネイティブ・アメリカン、とくにナバホの砂絵の影響: 《無題 蛇の仮面のある構成》、1938-41年頃、個人蔵。 ・ピカソの影響: 《無題 多角形のある頭部》、1938-41年頃、近美蔵; 《誕生》1941年、テート蔵。 ![]() 第2章: 形成期 モダンアートへの参入(1942-46年) ・ポーリング(流し)・ドリッピング(滴り): 批評家クレナント・グリーンバーグの賞賛。 ・ミロの影響: 《ブルー-白鯨》、1943年頃、大原美術館蔵。 ・シュールやマチスの影響。 ・オートマティズム(自動筆記): マッソンが先駆。ポロックも「制作しているとき、何をしているか分からない」とのこと。ビデオでは、無心ながら細かい配慮がされた動作で制作(アクションペインティング)されていることが分かった。艶が出る速乾性ラッカーや耀きが出るアルミニウム塗料を使用。 ・《ポーリングのある構成Ⅱ》: 1943年、ハーシュホーン美術館蔵 ![]() ・《星座》: 1946年、イースト・ハンプトンに移ってからの明るい画。個人蔵 ・オールオーヴァー: 画面に中心がなく、均質なパターンで覆い尽くす。 ・《無題》: 1946年の、オールオーバーへの移行。黄色と黒。 第3章: 成熟期 革新の時(1947-50年) ・《ナンバー25、1950》: 緑地に朱・白・黒。 ・《インディアンレッドの地の壁画》: ![]() ・《ナンバー7、1950》: ![]() ・《カット・アウト》: 1948-58年、大原美術館蔵。3つの象形文字。右のものは変体仮名に似ている。 ・《黒と白の連続》: 1950年頃、ベネッセホールディングス蔵。5点組。棟方志功の板画を想起した。 第4章 後期・晩期 苦悩の中で(1951-56年) ・ブラック・ポーリング: 黒を中心とした地味な画。具象性への回帰。ポーリング(流し込み)→ステイニング(染み込み) ・《ナンバー11、1951》: ダロス・コレクション蔵。黒の他に褐色も。これも棟方志功的。 ![]() やはり一人の画家の回顧展は、その全貌を把握させる効用がある。ポロックの女性(母親ステラ、妻の画家リー・クラスナー、スポンサーのペギー・グッゲンハイム、画家志望の愛人ラス・クリグマン)関係も勉強した。 ポロックのアトリエが再現されていた。撮影OKだったので、係員に頼んで「とら」の後姿を入れて撮ってもらった。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
聖徳太子1390年御遠忌記念と銘打った今回の展覧会には、法隆寺が所蔵する彫刻・絵画・工芸・染織・書跡など約130点が展示されていた。
![]() 聖徳太子は6世紀後半から7世紀にかけて実在した皇族の一人、厩戸皇子のことだと考えられている。当時の日本は、国の基礎が整っていない状態で、政治の中心は、天皇や皇族たち有力な豪族たちとの話合いによって決まっていた。豪族たちは、各々領地と民をかかえ独立した力を持つため権力争いが絶えず、天皇の地位も不安定なものだった。こういう時代に現れた厩戸皇子は、推古天皇の補佐役として後世、聖徳太子と讃えられる活躍をしたといわれている。厩戸皇子が亡くなってから100年後の歴史書「日本書紀」に記されている彼の業績をまとめると、以下の4点に絞られる。 A.憲法十七条の制定 B.冠位十二階の制定 C.仏教の導入 D.遣隋使の派遣 このうち、Aの憲法十七条については、文法上の誤りが多いので、日本書紀・推古記の作者が書いた疑いがあるとされている。他方、Dの外交上の業績については、かなりの証拠が揃っている。外交的事項を経年的にまとめると、以下のようになる。 1.外交の失敗(600年) 遣隋使の失敗は「隋書・倭国伝」に記されている。 朝鮮をバイパスした隋との直接国交を目的としたが、日本の政治・外交の未熟さのため、不成功に終わった。 2.国際都市の建築(601-605年) 飛鳥京より海に近い場所に斑鳩宮建設。(発掘調査で確認) 3.国際的知識の吸収: 高句麗の高僧・慧慈の招聘。 4.第2回遣隋使(607年) 「日出づる処の天子 書を 日没する処の天子に致す」に始まる国書を携えた遣隋使を派遣、当時高句麗に手を焼いていた隋の煬帝は日本と国交樹立。 厩戸皇子死亡(622年頃)後、日本書紀完成(720年)までの約100年間については、以下の3件が重要である。 1.厩戸皇子が天皇の軍勢の一員として参加した豪族との戦い 587年: 厩戸皇子の仏教の守護神四天王に祈願による勝利を呼び込んだとの日本書記・崇峻記の記載は後の加筆とされる。 2.乙巳(いっし)の変 645年: 厩戸皇子の協力者蘇我馬子の次の代になると天皇の一族と蘇我氏は決裂。中大兄皇子・中臣(藤原)鎌足たちが蘇我入鹿を殺害、その父・蝦夷も自害に追いこんだ。日本書紀の蘇我入鹿の非道を記した部分は別人が加筆した可能性がある。 3.大化の改新 646年: 天皇の一族と豪族が並び立つ従来の状況から、豪族とその土地や民を全て天皇の下におき、天皇を頂点とする国家へ新しく作りかえるという大改革。その勝利者の歴史書である「日本書紀」には厩戸皇子の業績が誇大に記され、その後の聖徳太子信仰のもとになっていった。 前置きが長くなってしまったが、今回の展覧会は法隆寺に伝わる文物を多数展示し、聖徳太子の後世への影響を改めて考えさせている。以下、記憶に基づいて記述するが、間違いがあるかもしれない。指摘していただければ、すぐに修正します。 会場に入るとすぐに《聖徳太子曼荼羅》。下部に聖徳太子と弘法大師が見て取れる。この手の絵は初見。なかなか面白い。 次に出てきたのは、《聖徳太子絵伝》。これは聖徳太子の季節ごとのエピソードを集めたもので、各年齢のものがそれぞれの絵に入っていた。 美しい刺繍があったが、これは《天寿国曼荼羅繍帳》のコピーらしい。本物はボロボロだそうだから、奇麗なコピーで見られるのはありがたい。 肝心の飛鳥時代のものはほとんどないが、しっかりと作られたコピーでその時代を感じ取ることができる。例えば、今回出ていた《聖徳大師像》は、江戸時代の幽竹法眼の模作であるが、宮内庁蔵の国宝の絶妙のコピーである。 《玉虫逗子》は、本物よりも色彩が濃くてよく見えたが、肝心の玉虫の翅の光は分からなかった。 仏像としては、チケットやチラシ↑に使われている平安時代の内刳なしの一木造《持国天像》・《増長天像》が出ていたが、古拙な感じのする飛鳥時代の《四天王立像》と比較すべくもない。 金色がよく残っている豪快な《十一面観音菩薩立像》はなかなか良かった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 《善光寺如来御書箱のうち漆蒔絵箱》が出ていて驚いた。これは、信濃善光寺の阿弥陀如来から聖徳太子に送られたとされる手紙を納める五重の箱のうちの最外側の箱で、見事な蒔絵で葵の紋が描かれていた。徳川綱吉の生母、桂昌院の寄進によるもとのこと。 傍のパネルには、五重の箱の写真が出ていたが、最内側の箱は美しい朱色の綾錦だった。展示品のなかに飛鳥時代にこれを包んだ木綿の袋があったが、この最内部の箱は開かずの箱となっていたはずなのに、明治時代に無理に開け、中に納められていた三巻の巻物のうち、一つを模写してしまったといういわくつきの箱を包んでいた袋ではないかと思った。ただし会場には、この点についての説明はなかった。 ![]() ![]() 近代の歴史画としては、安田靭彦や吉村忠夫ら有名画家の優品が出ていた。吉村忠夫の《多至波奈大女郎(聖徳太子妃の橘大郎女)像》↓はお気に入り。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら ![]() ![]() Takさんはフェルメールの衣装に身を包み、ごあいさつ↓、そして今回の本についての楽しいプレゼンテーションやサインなどてんてこ舞いの忙しさ。 ![]() ![]() 第2位: 絵画芸術 @ウィーン 第3位: 天秤を持つ女 @ワシントン この結果は、参加者のレベルの高さを物語っている。「関係者は頑張ってほしい」というTakさんの言葉を拳々服膺してもらいたいものである。 ところで、Takさんとは7年越しの付き合いである。これは、美術散歩ホームページの伝言板に「ドレスデン美術館展」へのお誘いがあったことに始まる。まったく初めての顔合わせだったので、私の「青い帽子」、Takさんの「青いシャツ」を目印に西美で初対面し、その後でOFF会なるものに初参加した。今回は、その時のHP記事をプリントアウトしてYukiさんに渡してきた。 Takさん、Yukiさん、おめでとうございました。益々のご発展を期待しています。そしてお手伝いの皆さん、有難うございました。 美術散歩 管理人 とら
これは「キリスト3つの名画の謎 -その誕生に隠された真実」という番組の「第3部」。
フレスコ画《キリストの復活》↓は、画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの生地サンセポルクロにある。ここは、イタリア南トスカーナの小さな街で、10世紀に二人の巡礼者が作ったところである。 ![]() 番組では、美術の授業中にこの話を聞いたサンセポルクロの小学生が、「その人は世界中の画を見たのですか?」と質問して、先生を絶句させていた。 第二次大戦の末期、サンセポルクロはドイツ軍に占領されており、イギリス軍が間近に迫っていた。このイギリス軍を指揮していたのは、将校トニー・クラーク(Tony Clarke)だった。彼は、攻撃命令を受けて、実際にサンセポルクロに向かって砲撃を開始したが、しばらくして以前に読んだことのあるハックスリーの「世界最高の画」のことを思い出して、砲撃を中止した。サンセポルクロの街が砲火を免れたのはこの画のおかげだった。 将校トニー・クラークらのイギリス軍がサンセポルクロに入った時には、ドイツ軍はすでに撤退していた。幸いにこの「世界最高の画」は無傷だった。 戦後になってこのことが知られて、サンセポルクロが有名になり、多くの観光客が訪れるようになり、クラークは表彰され、多くのアーティストがこの画に触発された作品を制作するになった。 「キリストの復活」については、聖書に十分に書かれていないので、これをテーマとした絵画も少ない。ピエロの《キリストの復活》は、イタリア語でサンセポルクロが「聖なる墓」を意味しているため、町のアイデンティティを象徴する絵画として描かれたのであったが、番組ではそのことには触れられなかった。 画の前景には、4人の兵士が寝込んでいる。ピラトに石棺の番をするように命じられていたのであろうが、これではキリストに気付くはずもない。のけぞったように寝ている兵士はピエロ自身だとのこと。いずれも傾いた姿勢で描かれているが、、よく見ると、一人の兵士の脚が描かれていない。 背景はトスカーナ地方の眺望だが、丘のラインがキリストの肩のラインにつながっている。左手には冬の枯れ木を、右手には生い茂る緑樹を配して、キリストの復活を象徴している。 キリストは、ピンクの死装束を身にまとい、左足を石棺の縁に置き、右手に死に打ち勝ったことを象徴する白地に赤の十字架が描かれた旗を持って、力強く立ち上がっている。 キリストの脇腹からは血がしたたり落ちている。キリストの顔はは理想化して描かれておらず、生身の人間のようである。眼は左右不対照で、髭は粗い。寝ていないためなのかもしれない。 キリストは正面をまっすぐに見ている。その証拠には、鼻の孔が描かれていない。この画を見る者はキリストを直視ことができる。聖書のいうように、「めざめている者」だけが復活したキリストを見られるのである。 この画に駆使されている透視画法はルネッサンス初期の革新的なもので、ピエロはフィレンツェで学んだ。彼自身、遠近法の解説書を3冊書いているが、この作品ではそれを実践しているのである。 その後、この画はレオナルドらの動きのある画に押され、のんびりとしたつまらない画として人気がなくなり、あろうことか石膏で壁ごと白く塗りつぶされてしまった。 19世紀になって、この画は剥がれ落ちた石膏の下から「自力で復活」し、イギリスの有名な旅行家・考古学者・楔形文字研究者・美術史家・美術品収集家・作家・政治家・外交官であったヘンリー・レヤード(Sir Austen Henry Layard 、1817- 1894年)が、15世紀フレスコ画家としてのピエロを称揚したことによって、再び人気を取り戻した。 この件については、ニコラス・ペニー(Nicholas Penny)の「アレッゾへの旅 Journey to Arezzo」に書かれてあり、その内容は次のように紹介されている。 Above all, in Sansepolcro there was the fresco of the Resurrection – ‘No painter has ever so painted the scene!’ Later, as the leading force in the Arundel Society, which was devoted to recording old Italian frescos, Layard commissioned copies of some of Piero’s works. The Resurrection was published as a chromolithograph. But, Layard himself insisted that Piero’s easel pictures ‘afford but a faint idea of his originality’: his greatness lay in public work, which made him an example not only to artists but to patrons. ![]() ![]() かなり行きにくそうな場所なので、自分で実物を見る機会はほとんどないと思われるだけに、この番組はありがたかった。 「キリスト3つの名画の謎 ~その誕生に隠された真実」の第1部は、レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》、第2部はサルバドール・ダリ《十字架の聖ヨハネのキリスト》である。そして、これらの番組の紹介は、優れたアーカイヴス(第1部、第2部、第3部)としてネットに残されていた。 美術散歩 管理人 とら
3月に入り、急に暖かくなった。早速に「美術散歩」開始。まずは近くの渋谷から。
![]() ![]() ![]() 写真2は、太宰治。織田の写真を撮った時に奥にいた太宰が「おれも撮れよ」と言ってきたため撮ったもの。残っていた最後の1枚のフィルムで、トイレの便器をまたいで撮ったものだという。これが林の代表作の1枚となっているが、本人としては他にもっと良いものがあるので納得していなっかったらしい。 写真3は、川端康成が鋭い眼で骨董品を見つめているところ。初めのうちは、畏れ多くて、なかなか川端の近くでクローズアップ撮影することができず、このように近くで撮れるようになったのは20年間も付き合ってからだとのこと。 写真4は、三島由紀夫。彼の性格が出てくるような写真を撮るのが難しかったとのこと。撮影時間にはいつも早めにきているような几帳面さがあったのに、その後ボディビルを始めたり、あのような最期をとげてしまった三島の性格について興味ある考察が記されていた。 林忠彦の作品には、このように必ずストーリーが内在しているだけでなく、撮影対象の性格が非常に正確に映し出されている。林本人はこれはその対象の人物が一流の人物であるためだと述べていたが、林自身が一流の写真家だからこその言葉だと思った。 なかなか良い展覧会だった。会場には、年配の男性が多かったが、3人の若い人が熱心に見ておられる姿が印象的だった。ちょうどそのうちの一人、唯一の女性が見おわられたようだったので、写真撮影を頼んだ。会場は全体としては撮影禁止だが、太宰の大きなパネルと椅子の場所だけは撮影可能だったのである。 ↓は、このミューズの撮影作品。とても上手い。写真家を目指している方だったのだろう。感謝。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
著者の多田茂治氏から、「松本英一郎画伯の評伝」が恵送されてきたので、早速読んでみた。
本の紹介の前に、多田氏と筆者との不思議な出会いについて、いささか触れておきたい。 このことについては、以前のブログ記事「没後30年 高島野十郎展」の一部を引用するのが早道である。 会場入口のミュージアム・ショップのカタログの横に、「野十郎の炎」という本が積んであったので、ちょっと覗いてみた。そしてカタログのほうに戻っていると、一人の老紳士が先ほどの本を買っておられた。不思議なことにこの方は「これは自分が書いた本なんですがね」といわれる。ショップの係りも驚いて「よろしいんですか?」と聞きながらレシートを渡している。このことがご縁になって、その後、いくつかのブログ記事を書いている。①高島野十郎のシュールな世界、②青柳喜兵衛‐玉葱の画家、③母への遺書―沖縄特攻 林市造、④「野十郎の炎」増補新版。したがって今回の記事は最初の出会いの記事を含めると6本目ということになる。 さて、今回の本のことである。これを読まれる美術ブロガーの面々にお伺いしたい。「松本英一郎の画を見たことがありますか?」 正直言って、私としては初めて聞いた名前の画家である。 そこで松本英一郎の略歴から始めることとする。 ・1932年: 久留米市で出生 ・1945年: 福岡県立中学明善校(学制改革で明善高校)入学、美術部所属 ・1953年: 2年間浪人後、東京芸大油絵科に入学。指導教官は林武 ・1957年: 東京芸大卒業、3年連続で独立賞受賞 ・1961年: 都立駒場高校美術教諭、結婚 ・1968年: 多摩美大講師 ・1972年: 多摩美大助教授 ・1978年: 肥大型心筋症発症 ・1983年: 多摩美大教授 ・1993年: 脳梗塞 ・1999年: 左片麻痺 ・2001年: 永眠、享年68歳 本書は、7章で構成されているが、著者の多田氏が高島野十郎や松本英一郎と同じ「久留米・明善校」の出身なので、そううちの2章は久留米出身の洋画家のことや明善高校美術部といった背景の説明にかなりの紙数が割かれている。 「筑後・明善校」出身の洋画家は多士済々で、青木繁・坂本繁二郎・古賀春江・高島野十郎・松本英一郎・清田英作などの名前をあげられるが、いずれも筑後平野の保守性と泥臭さを有しており、「じゅうげもん」(へそ曲りの頑固者)である。この点は、海に近い「筑前・修猷館」出身の吉田博・和田三造・児島善三郎・中村研一・中村琢二らの開放的な明るさとは対照的である。 松本英一郎の画歴をみると、初期には抽象表現主義絵画《二尺の誤差を持つ進行》などを描いていたが、1965‐70年には高度成長期の幔幕をテーマにした「平均的肥満シリーズ」、1971年からは15年間の長期にわたって独自の「退屈な風景シリーズ」を描き続け、1978年の心臓検査の際に、造影剤で全身が熱くなり、ピンク色の世界を体験し、さらに病室の窓から満開のサクラを見たことをきっかけに「さくら・うしシリーズ」をさらに15年間描き続けた。 ![]() 英一郎はコンスタブルの《オールド・セーラム》、フェルメールの《デルフトの眺望》、ヤコブ・ロイスダールの《ハールレムの遠望》といった空を強調した風景画が好きだったらしい。英一郎の「退屈な風景画シリーズ」にもこれらの先人が好んだコバルト色の空のある風景が描きつづけられている。 評伝の著者多田氏は、松本英一郎の「地球が壊れていく時代には、変わりない平明な風景が意味を持つようになる」という文章を引用して、「高度経済成長期においてなされた自然破壊や原発推進といった愚行が、東日本大震災によって反省させられている現在において、英一郎の画は今日的な意味を持っている」というように断じておられるが、まことにもって同感である。 「さくら・うしシリーズ」について、私の個人的な感想を述べれば、これらの作品たちからは静かな音楽が聞こえてきそうな気がする。クレーの画を想起させるところがある。夫人が音大卒で、一緒に音楽会にも出かけておられたことと関係があるかもしれない。 思うに、英一郎は非常に幸せな人生を送ったのではあるまいか。「うり絵」は描かないという「じゅうげもん」精神を貫けたのも、大学教員としての安定した収入があり、家族の非常に強い支えに恵まれていたからである。その点では、野十郎の人生とは対極的だったというべきではないだろうか。 美術の大学教員は定年後も作品の収入があるという強みがあるが、英一郎の場合には「うり絵」を描くつもりはさらさらなかったのであるから、定年前に人生を終えたこともまんざら不幸だったとは言えないのかもしれない。 このように書いてはきたものの、松本英一郎の作品の実見していないことが気になってきた。よく出かけている東京都現代美術館や府中市美術館で松本英一郎の画に邂逅した際には、かならず本書を思い出すことになるであろう。 ご一読をお勧めする。出版社は弦書房、発行日は2012年2月25日である。 美術散歩 管理人 とら ©2012 reserved by TORA
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||