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ポロックはあまり好きだとはいえない画家で、展覧会でも彼の画の前はサラリと通り過ぎることが多かった。ということで、この展覧会もパスしようかと思っていた。
第1章: 初期 自己を探し求めて(1930-41年) ・アメリカ地方主義、とくに師のベントンの影響: うねるような《綿を摘む人たち》、1935年頃、オルブライト=ノックス・アートギャラリー蔵。 ![]() ・ネイティブ・アメリカン、とくにナバホの砂絵の影響: 《無題 蛇の仮面のある構成》、1938-41年頃、個人蔵。 ・ピカソの影響: 《無題 多角形のある頭部》、1938-41年頃、近美蔵; 《誕生》1941年、テート蔵。 ![]() 第2章: 形成期 モダンアートへの参入(1942-46年) ・ポーリング(流し)・ドリッピング(滴り): 批評家クレナント・グリーンバーグの賞賛。 ・ミロの影響: 《ブルー-白鯨》、1943年頃、大原美術館蔵。 ・シュールやマチスの影響。 ・オートマティズム(自動筆記): マッソンが先駆。ポロックも「制作しているとき、何をしているか分からない」とのこと。ビデオでは、無心ながら細かい配慮がされた動作で制作(アクションペインティング)されていることが分かった。艶が出る速乾性ラッカーや耀きが出るアルミニウム塗料を使用。 ・《ポーリングのある構成Ⅱ》: 1943年、ハーシュホーン美術館蔵 ![]() ・《星座》: 1946年、イースト・ハンプトンに移ってからの明るい画。個人蔵 ・オールオーヴァー: 画面に中心がなく、均質なパターンで覆い尽くす。 ・《無題》: 1946年の、オールオーバーへの移行。黄色と黒。 第3章: 成熟期 革新の時(1947-50年) ・《ナンバー25、1950》: 緑地に朱・白・黒。 ・《インディアンレッドの地の壁画》: ![]() ・《ナンバー7、1950》: ![]() ・《カット・アウト》: 1948-58年、大原美術館蔵。3つの象形文字。右のものは変体仮名に似ている。 ・《黒と白の連続》: 1950年頃、ベネッセホールディングス蔵。5点組。棟方志功の板画を想起した。 第4章 後期・晩期 苦悩の中で(1951-56年) ・ブラック・ポーリング: 黒を中心とした地味な画。具象性への回帰。ポーリング(流し込み)→ステイニング(染み込み) ・《ナンバー11、1951》: ダロス・コレクション蔵。黒の他に褐色も。これも棟方志功的。 ![]() やはり一人の画家の回顧展は、その全貌を把握させる効用がある。ポロックの女性(母親ステラ、妻の画家リー・クラスナー、スポンサーのペギー・グッゲンハイム、画家志望の愛人ラス・クリグマン)関係も勉強した。 ポロックのアトリエが再現されていた。撮影OKだったので、係員に頼んで「とら」の後姿を入れて撮ってもらった。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
鉄鋼業で財を成したフィリップス・ダンカンとその妻マージョリーの個人コレクションをもとに設立された、アメリカで最初の近代美術館としてつとに有名である。
以前に、ルノワールら印象派をはじめとする西欧絵画の大規模なコレクションの展覧会を見ている(記事はこちら)、今回はダンカン夫妻が収集した同時代のアメリカ人画家の作品の展覧会である。 第二次大戦後、アメリカは抽象表現主義で世界をリードしたが、いかにもアメリカらしいリアリズムの伝統も絶えることがなかった。 今回の展覧会は、このように多層的なアメリカ近現代美術を次のような章立で追いかけている。以下、それぞれのお気に入り作品を挙げていきたい。 第1章 ロマン主義とリアリズム ・イネス《月明かり、ターポン・スプリングス》・・・この時代の画は完全にヨーロッパのロマン主義絵画の後塵を拝しているようだ。 ![]() ・ホイッスラー《リリアン・ウォーケス》・・・彼にしては珍しい肖像画。 第2章 印象派 ・プレンダーガスト《バッリア橋》・・・ヴェネチアの街。大きな点描で色彩が豊か。カンディンスキーの初期の点描を想起した。 ![]() 第3章 自然の力 ・ケント《ロード・ローラー》・・・雪道を馬が挽くローラー型の橇。 ・ウェストン《突風、アッパー・オーサブル湖》・・・正面から吹き付ける突風を見ていると眩暈がしてくる。 ![]() ・オキーフ《私の小屋》・・・つつましい生活。 ![]() ![]() ・オキーフ《ランチョス教会、No2、ニューメキシコ》・・・砂漠の中の教会。裏側を描いたものだろうか。 ・ダヴ《赤い太陽》・・・印象的。シカゴ美術館でも似たような構図の画を見たことを思い出した。 ![]() 第5章 近代生活 ・ホッパー《日曜日》・・・今回の展覧会のチラシの裏表紙。淋しいアメリカ人。 ![]() ・スローン《冬の6時》・・・ニューヨークのラッシュアワー。 ・ハーシュ《ニューヨーク、ロウアー・マンハッタン》 ・シーラー《摩天楼》 ・ブルース《パワー》・・・光に照らされるアメリカの底力。 ![]() ![]() ・国吉康雄《メイン州の家族》 ・グランマ・モーゼス《フージック・フォールズの冬》 ・タマヨ《カーニヴァル》・・・民族主義。 ![]() ・グレアム《青い静物》・・・色彩のコントラストが絶妙。 ![]() 第9章 抽象表現主義への道 ・エイヴリー《貝殻と釣り人》・・・家内のお気に入り。なるほど、巧い。 ![]() ・ダヴ《ポッツオーリの赤》 ・ポロック《コンポジション》 ・オッソリオ《母と子》・・・なんとか識別可能。 ・エイヴリー《黒い海》・・・斜めの海岸が面白い。 第10章 抽象表現主義 ・ゴットリーブ《見者》・・・猪熊の画を想起。 ・スティル《1950B》 ・サム・フランシス《ブルー》 ・アルバース《正方形へのオマージュ:テンプラーノ》 ・ロスコ《無題》・・・小型。この頃、医者に大きな作品を描くことを禁じられていた。 ・フランケンサーラー《キャニオン》・・・色彩が美しく、テーマもよく分かる。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
猛暑の東京・練馬。駅から近い美術館でなければ、途中で熱中症になってしまう。西武・中村橋から5分の練馬区立美術館の周囲の気温は36.8℃。展覧会の看板からも強い日差しが反射してくる。
![]() 彼は、マドリード・リアリズムの画家「グスタボ・イソエ」として知られるようになり、国内外で高い評価を受けるようになった。 彼のリアリズム表現は、対象を細部まで見つめて写実的に描くだけでなく、その対象が内蔵する本質的ものまで捉えようとする精神的な営みのようである。 日本でも野田弘志の知己をえて、2005年野田の後任として広島市立大学芸術学部の教授となったが、2007年に53歳で急逝した。 展示品は油彩のみならず、水彩も素晴らしい。模写や写生も楽しめる。幸江夫人が書かれたと思われるキャプションを読むと、描かれた時のいきさつが良く分かった。夫人はマドリードの日本大使館に勤務しておられた由。 お気に入りは、下記のように多数。 ![]() ![]() ・新聞紙の上の裸婦 1993-94:↑中左。この新聞紙も描いたのか。 ・鮭(高橋由一へのオマージュ)1994:↑中中。上手いとしか言いようがないが、高橋由一の《鮭図》中右↑と比べてみると、面白いことに気付く。礒江の鮭は左右が逆で、鮭が紐で板に縛り付けられている。まるでキリストの磔刑図のような気がした。 ・静物(柘榴と葡萄とスプーン)1994:↑下左。静物がスルバランの瓶のように聖なるものに感じられる。 ☆ ☆ ☆ ・薔薇と緑青2002:↓上左。同名の作品が並んでいたが、時間がかかったらしく皿の緑青が濃くなっていた。花はドライフラワーだからOKなのだが。 ・カリフラワーとカーテンのある静物 1988:"Bodegon" やSanchez という書き込みがある。 ・サンチェス・コタンの静物(盆の上のあざみとラディッシュ)2000-01:↓上中。いつか「スペイン・リアリズムの美」展で見た食用アザミの画↓↓を想い出した。 ・静物(鶉)1996:↓上右。キャプションには、「描きだしたときにはグロテスクに思えたが、出来上がってみると良かった」との夫人の感想。 ・Vanitas(虚栄)と私 2000-01:発病前の作品。 ・バニータスⅡ(闘病)2006-07:↓下左。最終作。亡くなったのは日本国内で、死因は呼吸不全とのこと。 ・アーリーレッド2004:↓下右。赤玉ねぎ。 ![]() ![]() ・自画像(習作)1976: デューラーの模写をやっている頃の作品。岸田劉生の人物画を想起させる。 ・人物 1982 ・窓辺の出来事 1987 ・カップとロザリオ 1997 ・棚の上のパンと瓶のある静物 1991 ・棚の中のカリフラワーと瓶のある静物 1992 ・鳥の巣 1996 ・蘭と時計箱 2000年代 ・収穫 1998: 葡萄と玉蜀黍 ・ORCHIDEE 2000: 蘭の花も上手い。 ・横たわる女(未完)2003: 別室に習作とともに展示されていた。 ・ウェイデン《聖母子》の模写 1979:派手な色彩の画だが、このような北方ルネサンスの精密描写の模写からスタートしていたことに驚く。 全体としてみると、厨房画、花卉図、ヴァニタス画などは伝統的なスペインリアリズム絵画の枠内に留まっているともいえるが、《深い眠り》や《新聞紙の上の裸婦》といった白黒写真のような女性像に磯江の独自性が強く表れていた。 印象深い回顧展だった。お勧めします。 美術散歩 管理人 とら 「またもやクレーか」という気もしたが、今回の展覧会はちょっと趣を異にしていた。「クレーの作品が物理的にどのようにつくられたのか」という点に光を当てているのである。そんなことはアマチュアの美術愛好家にとってはどうでもよいことなので、さぞ空いているだろうと思って出かけたが、実際にはかなり混んでいた。観客層は若い。日曜美術館で放映された直後で、外は猛暑。涼しい都心の美術館は格好のデートスポットだったのかもしれない。 第01章: アトリエの中の作品たち クレーはミュンヘン(写真1,2)、ヴァイマール(写真3,4,5)、デッサウ(写真6)、デュッセルドルフ(写真なし)、ベルン(写真7,8,9)という5つの街にアトリエを構えていたが、それぞれのアトリエの写真が意図的に残されており、壁に掛った画と実物が対比して展示されていた。当然、時期によって作風が異なるはずなのだが、それに関する解説はなかったので、写真と実物を確認する作業に終始した。 第02章以降の展示は、広い部屋に3角形、4角形、5角形、6角形、不正形のブロック状ボードに掛けられており、ひどく分かりにくい。具体的には、次のような問題があった。 1.章番号(01-06)とプロセス番号(1-4)がずれている。人間工学的には、観客の立場に立たず、キュレーターの好みを優先させたためだといわれても仕方がないだろう。 第02章: プロセス1-油彩転写の作品 第03章: プロセス2-切断・再構成の作品 第04章: プロセス3-切断・分離の作品 第05章: プロセス4-両面の作品 ![]() 第06章: 特別クラスの作品: さすがこの章には見ごたえのある作品が多かった。↓は「美の巨人」で説明されていた素晴らしいグラデーションの例。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
はじめに:
Olga’s Galleryという有名な美術サイトがある。その中にはもちろんカンディンスキーの項目もある。そこに、この画家の伝記の附記として「ワシリー・カンディンスキーの三人の妻」というタイトルのニュースレターが2003年5月5日の日付で載っている。 最初の妻アーニャ(またはアンナ)、愛人のガブリエル・ミュンター、最後の妻のニーナがこの三人である。読み出すととても面白い。そこで和訳してここにアップすることにした。そして、ちょっとしたコメントを赤字で追加した。 1.アーニャ(またはアンナ)・チミアキン: カンディンスキーは30歳代になってから美術の世界に入ってきた。彼は、ロシアにおける学者としてのキャリアを捨てて、妻のアーニャ・チミアキン(Anya (Anna) Chimiakina)を連れてドイツにやってきた。 アーニャはカンディンスキーの6歳年上の従姉妹だったが、当時としては、特別な女性だった。アーニャはモスクワ大学に入学した最初の女性の一人だった。カンディンスキーは、このモスクワ大学で講師をしていたのである。アーニャの画像を探してみたが、見つからなかった。 彼女が美術を嫌っていたかどうかは分からないが、美術を愛好することと画家と結婚することとはまったく違うことがらである。 アーニャが結婚したのは、弁護士という尊敬されている職業の男性であって、ボヘミアンのような環境にあこがれていたからではなかった。 しかしアーニャは、嫌々ながら夫に従ってミュンヘンに赴いたが、7年後に別居し、1911年に正式に離婚した。 2.ガブリエル・ミュンター: この頃までに、カンディンスキーは別な女性と知り合いになっていた。 ガブリエル・ミュンター(Gabriele Münter)というドイツ人画家である。二人が知り合ったのは、ミュンターが新設されたファランクス画学校(Phalanx Art school)に入学した1901年である。当時、州立アートアカデミーは女性の入学を許していなかったからである。 ファランクス画学校は一年しか続かなかったが、ガブリエルは生徒としてカンディンスキーの許に留まり、二人は親密になっていった。 1904年に、カンディンスキーが妻と別居するや、二人は同棲しだした。20世紀初めの若い女性としては、既婚の男性と同棲することは非常に大胆な行為だった。このことはボヘミアン社会ではある程度認められていたが、二人の出自のブルジョワ社会ではまったく許容されないことであった。 しかし当時の二人はそのようなことは問題にせず、愛に陥っていた。カンディンスキーの画のジャンルとしては肖像画はないが、その唯一の例外はガブリエルの肖像画(→)である。1905年に描かれた彼女の肖像画を見ると、大きな目をもってはいるが、鼻が大きくてあごが小さく、唇が薄くて額が広いため、必ずしも美人とはいいがたい。彼女はアーティストが夢見るような女性だったのだろうか? 彼女自身がアーティストであり、勇敢で野心的であったが、それでも彼女は思慮深く、判断力のある、恋する女性であった。彼女にとって不運なことに、カンディンスキーに対するこの情熱的な愛が、永い年月にわたって彼女を不幸にすることになる。 1904年には、二人はヨーロッパや北アフリカを旅し、1908年になってミュンヘンに戻って落ち着くことになる。ガブリエルはババリア・アルプスのムルナウ(Murnau)に一軒のカントリー・ハウスを購入し、夏の間そこに滞在した。この家は、二人が齢とって引退した時の家としても考えられていた。カンディンスキーはインテリアの簡単な家具をもっていたが、その一部に自分で花や騎手などの装飾をほどこした。 余計なことだが、このような長期旅行の費用はどうしたのだろうか。現在でも、フランスにはこの時代のカンディンスキーの作品が個人蔵として残っているそうだから、売り食いしながら旅を続けていたのかもしれない。しかし、ムルナウの家はカンディンスキーが勧めて、ガブリエルが買ったことになっているが、この支払いはガブリエルの親の遺産によるものだろう。ガブリエルの父親はアメリカから逆移民したドイツ人貿易商であったが、両親ともに早世したとのことである。 ガブリエルは、正式にはカンディンスキーの生徒であったが、画に対しては自分自身の考え方やスタイルを持っていた。こういった彼女の画風がカンディンスキーの画風に多大な影響を与えていたようであるが、そのことがカンディンスキーのガブリエルに対する苛立ちの原因となっていたのかもしれない。時が経つにつれて、二人の関係は次第に複雑になっていき、ある日カンディンスキーがガブリエルに求婚したと思えば、別の日にはすぐに別居すると云いだす始末であった。 一般に、愛について何が起るか、どういう結末となるのか、だれが予測できようか? 彼女が先生を尊敬している生徒である間は、カンディンスキーにとって彼女は元気のもととなるミューズだった。しかし一旦、彼女がカンディンスキーからの独立を志向して、自分自身のスタイルを発展させ、彼女が彼の遣り方に従わないだけでなく、恐らくカンディンスキー自身のスタイルにまで影響を与えだすと、彼女はカンディンスキーの苛立ちの種となった。 第一次世界大戦の勃発はカンディンスキーにとってガブリエルと分かれる絶好の口実となった。初めは一緒にドイツを離れたが、カンディンスキーはすぐにモスクワに戻っていったので、ガブリエルはミュンヘンに帰ってこざるを得なかった。ただ文通は続いており、ガブリエルは何通もの手紙をカンディンスキー宛に書いた。二人が最後に会ったのは、1915年12月、ストックホルムにおいてであった。二人の文通自体はさらに1年間続くが、その後二人は会うことがなかった。カンディンスキーにとっては、ガブリエルはすでに過去の人であったが、ガブリエルはカンディンスキーに対する痛惜で破滅的な熱情を抑えることができなかった。 1916年9月、50歳になったカンディンスキーは新しい恋愛に陥った。そして、その愛は1917年2月に結婚として結実した。このカンディンスキーの結婚の知らせはガブリエルにとって大きなショックであり、その後数年間絵筆をとることができなかった。 しかし、時がこれを癒して、彼女は快復し、画の制作に復帰した。その後、彼女の天才の裏切り行為を忘れることはできなくても、許して、彼女自身が幸せに暮らしたと思いたい。 ガブリエルは一生カンディンスキーを賞賛した。これに対し、カンディンスキーはガブリエルや彼女の作品について述べることがなかった。このことは、カンディンスキーの画家として多くのことをガブリエルから学んでいたというわれわれの疑念を強めるだけである。 この記事にはカンディンスキーの人格にかかわる重要なできごとが省かれているようなので、追加しておきたい。1920年以降、カンディンスキーは代理人を通してミュンヘンに残してきた自分の作品の所有権に関する連絡をしてきたとのことである。作品の大部分をミュンヘンに残したままロシアへ戻ってしまったカンディンスキーは、それを手元に置くミュンターに全作品の返還を迫ったのである。数年に及ぶ法的係争の末いくつかの大作はカンディンスキーのもとに返されたが、他の作品の権利はすべてミュンターに帰属することになったとのことである。 また、この文章の中に、1925年にガブリエルと結婚したヨハネス・アイヒナーのことが記されていないが、彼は10歳年上のガブリエルを支え続けた配偶者として記憶に止めておくべきである。 3.ニーナ・アンドレーフスカヤ: 一方、カンディンスキーにとっては、新しい結婚は幸せであった。ついに理想の女性を見つけたのである。この女性とはどんな人なのだろうか?若いロシア人女性、ニーナ・アンドレーフスカヤ(Nina Nikolayevna Andreevskaya)である。ただ比較的最近の話なのに、彼女については不詳なことがらが多い。ニーナの生年月日すら分かっていない。ニーナ自身の言葉によれば、彼女はカンディンスキーより27歳年下だったという。彼女自身の記憶によると、彼女は将軍の娘とのことであるが、ロシア軍のリストからはそのことは確認されていない。ある研究者は日露戦争で1905年に戦死したロシア軍大尉の娘ではないかとしている。 有名人の妻であり寡婦であったニーナは、自分自身の伝説を作ることに熱心だった。カンディンスキーは普通のハウスメイドと結婚したのだとの説もあるが、ありえない話ではない。彼の周囲に大勢の知性的な人々がいたのに、家庭にももう一人の知識人が必要だったのだろうか。以前に、カンディンスキーはインテリの妻やインテリの愛人を持ったことがある。それで十分だったのではなかろうか。 しかし、ニーナがロシアを離れたその日から、自分が良家の出身であると主張している。良家とは、貴族でないにせよ、インテリゲンチアであるということである。さもないと、すべて良家の出で構成されているロシアからの移民社会に入ることができなかったかもしれないのである。 カンディンスキーとニーナはどのようにして出会ったのだろうか? ニーナの伝説に従えば、ニーナが友達のメッセージを電話でカンディンスキーに伝えたところ、ニーナの声がカンディンスキーに「深い印象」をあたえたのだそうである。カンディンスキーは、「見知らぬ声に」というタイトルの水彩画をニーナに捧げたとの話である。 1917年2月、51歳のカンディンスキーは自分よりずっと若いニーナと結婚した。ニーナの記憶によれば、「私たちの結婚は、自分の人生の秋における春のスタートである。私たちはは初めて会った時に恋に陥り、一日といえども離れたことがない」とカンディンスキーが話していたという。 二人は新婚旅行のためフィンランドに向かったが、ロシア革命のためすぐに帰国せざるをえなかった。同年、二人の間にできた唯一の息子Vsevolodは、1920年、ロシア革命戦争中に、栄養失調と感染症で死亡した。 1921年12月、カンディンスキーとニーナは、飢餓と荒廃のロシアを離れ、ベルリンに向かった。外国においては、ニーナはカンディンスキーと完全に生活を共にしており、「一日たりとも離れず」、彼女の天才的な夫の陰に隠れていた。 1944年に、カンディンスキーが死亡した際には、ニーナが唯一の遺産相続人だった。彼女は、この画家の研究・展示・保存を目的としたカンディンスキー財団を設立した。彼女は、この財団からパリのジョルジュ・ポンピドー・センターに多額の寄付を行った。 ニーナはその後再婚することはなかった。しかし、非常な金持ちとなった彼女は、常にジゴロのような若い男に取り囲まれており、ニーナ自身、それが好きだった。また彼女は、宝石を愛して、熱心に購入し、立派なコレクションを作った。1983年に、彼女はスイスの別荘で殺されたが、これは多分このコレクションと致命的な関係があるのだろう。犯人は逮捕されなかった。ニーナは、パリで埋葬され、すぐに忘れられた。彼女の回想録は面白いが、その中はハリウッドのようなお伽話でいっぱいであるから、十分注意して読むべきものである。 美術散歩 管理人 とら 三菱一号館美術館での「カンディンスキー展」の記事はこちら。
以前にこの美術館を訪れたことがある。カンディンスキー好みの黄色に塗られた印象的な建物。ちょうどカンディンスキーとミュンターの写真展「ミュンターがカンディンスキーと過ごした年月」が特別展示されていて、この2人の愛の物語を十分に知ることができた。 ホームページとブログにその時の記事を書いている。
![]() 展覧会の構成は以下のとおりの時系列展示。 序 章: レンバッハ、シュトックと芸術の都 第1章: ファーランクスの時代-旅の時代 1901-1907年 第2章: ムルナウの発見-芸術的総合に向かって 1908-1910年 第3章: 抽象絵画の誕生-青騎士展開催へ 1911-1913年 序章に出てくるレンバッハは、19世紀末のアカデミックな肖像画家で、画壇の大立者。鉄血宰相といわれた《ビスマルクの肖像》↓を描いているほどである。その自宅は現在市立美術館となっているが、レンバッハ美術館ではなくレンバッハハウス美術館と呼ばれているのが云いえて妙である。この美術館の中心はミュンターの寄贈した青騎士たちの作品だからである。 ![]() ![]() その頃の画は、《コッヘル-シューレードルフ》↓のように、鮮やかな色彩、ペインティングナイフを使った荒いタッチを特徴としている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この頃からカンディンスキーの作風に新たな変化が生じてくる。ペインティングナイフはもはや使用されず、強烈な色彩を使って絵筆で自然を平面的に再構成して抽象化し、さらに表現主義的な要素を加えてくる。 1909年の《ムルナウ近郊の鉄道》↓では、列車・建物・風景・雲は平面化しているが、まだその実体を留めているが、同じ年に描かれた《山》↓↓では、山上の城砦や手前の馬に乗った人や立っている人は、教えてもらわなければ分からないほどに形態が崩れ、抽象化されている。《ムルナウー庭Ⅰ》↓↓↓では、写真が残っているので、東屋、城、教会、そして向日葵の存在が識別できる。、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1911年の元日にマルクがやってきて、翌日マルクや「ミュンヘン新芸術家協会」の仲間と一緒にシェーンベルグのコンサートに出かけ、感銘を受けている。カンディンスキーの《印象Ⅲ(コンサート)》↓は、その時の印象をもとに描かれたものである。グランドピアノ、白い柱、そして聴衆は分かるが、右側に流れる黄色い部分は何だろうか。解説によると、この会場を支配していた音楽的な印象を示しているとのこと。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1914年の第1次大戦の勃発により、マルクとマッケは戦死、カンディンスキーとミュンターはスイスに逃れ、青騎士は解散した。カンディンスキーはまもなくロシアに帰国したが、ミュンターはスカンジナビアに移って、カンディンスキーを待っていた。ストックホルム国立美術館で、ミュンターが描いた窓辺に立ってぼんやりと外を見ている女性の画を見たことがある。画像はみつからなかったが、その画は今も脳裏に刻み込まれている。 ここではその代わりに、ミュンターが1931年に描いた《ロシア人の家》↓をアップしておく。 ![]() ![]() カンディンスキーは、革命後モスクワ大学教授、1921年にはドイツに戻ってバウハウスで教鞭をとり、バウハウス閉鎖後パリ郊外に移住した。 ロシア生まれのヤウレンスキーは、第1次大戦のため、ヴェレフキンとともにスイスに移住するが、1921年には彼女と別れ、ドイツのヴィスバーデンに居を移し、その後、カンディンスキー、クレー、ファイニンガーとともに「青の4人」グループを結成して、制作を続けた。 ロシア生まれのヴェレフキンは、ヤウレンスキーと分かれた後もスイスに止まって制作を続けた。 美術散歩 管理人 とら
この展覧会の副題は、「日本メキシコ交流400周年記念」、「太陽と革命の画家たち、限りない祖国への情熱」。
![]() まず最初に出てくるのは、ポスターの画となっているはフリーダ・カーロの《メダリオンをつけた自画像》↓ これが掛っている壁面はこれ一枚だけ。背景に世田谷美術館の美しい庭がこの画を取り巻いている。 ![]() フリーダ・カーロは交通事故で重傷を負い、リベラと2度結婚した際にも、結婚衣装を着ることがなかったというが、この画はカーロの母親の故郷オアハカ州テワナの伝統的なウィピル(貫頭衣)を身につけている。鳩のメダリオンを着けた衣裳の中のカーロの眼には大きな三つの涙が見られる。身体的な不幸、繰り返す手術、そしてリベラの浮気などの象徴だとすれば、あまりに悲しい自画像である。この画は本邦初公開ということだが、これを近くで見るだけでも価値がある。 同じ女性画家マリア・イスキエルドの作品は3点出ていたが、《マリア・アスンソロの肖像》↓はタマヨと一時同棲したこともある女性の肖像画である。 ![]() 同じ画家の《巻貝》は、新象徴主義、魔術的絵画とされていたが、三岸好太郎の貝の画とソックリのような気がした。 壁画3大巨匠の一人、ホセ・クレメンテ・オロスコは6点も出ていたが、その中では《十字架を自らの手で壊すキリスト》が迫力があった。彼は左手先がなく、左目・左耳の機能もなかったそうだが、良くこのような画を描くことができたものである。 もう一人の壁画3大巨匠ダヴィッド・アルファロ・シケイロスの作品は4点あったが、アステカ帝国最後の王《クアテモックへの賛歌》や《5月1日[メイデイ」の行進》が印象的だった。 最後の壁画3大巨匠ディエゴ・リベラの作品は5点。いずれも良かったが、その中では《夜の風景》↓が面白かった。地主の祝宴を木に登って眺めているのだろうか。シュールな絵画に対するメキシコ的な揶揄が表れているそうである。 ![]() ルフィーノ・タマヨは先住民族サポテカ人であるが、3点のうち《自画像》の青が美しかった。 北川民次の《花》は印象に残ったが、村田の抽象画はピンとこなかった。 展覧会は「文明の受容」「文化の発信」「進歩」の3つの章で構成されていたが、リストと合わないので見にくくかった。 また、今回は名古屋市美術館のホセ・グァダルーペ・ポサダの作品も展示されていたが、これは面白かった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、様々な出来事を骸骨(カラベラ)に演じさせ世相を風刺した版画であった。 美術散歩 管理人 とら
クレーが東洋絵画に興味を持っていたということを仔細に研究した奥田修氏の監修による展覧会。しかし、これは展覧会というより、むしろ学術発表会である。
![]() 自分の硬くなった脳みそをこの展覧会に合わせていくのはちょっと大変であったが、幸いにキャプションの説明が微に入り、細にわたっているので、なんとかフォローした。もちろん結構時間がかかる。 入ってすぐのところに《無題(二匹の魚、一匹は釣針にかかって)》という水彩があった。確かにこれは浮世絵的である。千葉市美術館だから、それらしき江戸時代の画を並べるのは容易である。 クレーのデッサン《片足で踊る三人の裸の人物》の一人は、《北斎漫画 八編》の踊っている男を見て書いたのではないかとのこと。完全なコピーではないが、これはクレーが鵜呑みにしないで、オリジナリティを加えたと説明されればなるほどそうかと思う。 ![]() クレーのチョーク画《怒る女の仮面》は、浮世絵の役者に似ているとのこと。そういわれれば否定する根拠がないので、「これも勉強・・・」と一応納得する。 驚いたのは、この時代に日本美術や東洋美術の本がドイツ語で沢山出版されており、実際にこれらをクレーが所蔵していたということである。 この辺までは、クレーが線描画家であったので、それで良いとして、1914年のチュニジア旅行後の色彩画家としてのクレーには当てはまらない。 しかしここではクレーが「中国のイメージ」を描きこんだ画が多いということが主張されている。その証拠として、《中国の・・・》がというタイトルの画がいくつか出ていたが、それらの「中国のイメージ」は多様なものだった。↓は《中国風の絵》だが、クレーにとってはこういう画が中国的なのである。 ![]() 「詩画図」など文字と画を一体としたアートは東洋画に特異なものであるが、クレーをこれを自分の画に取り入れて「文字画」を描いている。いくつかその例が展示されていたが、クレーの画は形態としての「字」を入れただけで、意味のある「詩」を入れたわけではない。その意味では、両者は本質的に違うものなのであろう。 一番東洋的だと思ったのは、最後に展示されていた《別れを告げて》(←画像)である。まるで墨絵の禅画のようである。そういえば、ポスターの《蛾の踊り》の黒が油彩転写された蛾も東洋的であるといえるかもしれない。 意欲的な展覧会であることには間違いない。ただし、クレーが日本に興味を持ったのは川上音二郎・貞奴の舞台を見て強い印象を受けたからだとか、クレーの興味が日本から中国に移ったのは日本が戦争を始めて西洋化したからだとかいう論理は多少強引な気がした。 美術散歩 管理人 とら
久し振りに孫が来た。GWに小学生を連れて行ける場所? 迷いますね。 安・近・短? 新型インフ・ウイルスがウジャウジャいそうな繁華街はX。 だから上野・原宿・六本木はすべてX。 悩んだ末、マティス展をやっているブリヂストン美術館を選んだ。自分が子どもの時に初めて連れて行ってもらった展覧会がマティス展だったことが影響したかな?
![]() 1.マティスとフォーヴィズムの出現: 1950年ごろまでという章立ては、レベルが高いが、今日は連れの小学生たちが主役なので、飽きないようにかなりのスピードで周っていった。 そのなかでのお気に入りは、マティス《石膏のある静物》↓、ドラン《聖母子》↓↓、マルケ《道行く人、ラ・フレット》↓↓↓。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ホールの彫刻の前で記念撮影。正面のショーウィンドウには、《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》のフィルムが張り付けてあったので、そこでも写真撮影。 側面のショーウィンドーには、小学生の作品展の入賞作品が陳列されており、そのフィルムを貼り付けた車が置いてあったので、もう一度パチリ。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
川村記念美術館にはロスコルームがあり、有名なシーグラム壁画が7点も掛かっているが、部屋全体が暗くてあまり好きになれなかった。今回は世界のシーグラム絵画が、ワシントンから5点、ロンドンから3点が来て、川村の7点とあわせ、合計15点が一室に展示されていると知って、初日に見に行った。
常設展の日本美術室には、清方《四季美人》、等伯《烏鷺図屏風》、又造《鶴舞》、光琳《柳に水鳥図屏風》がでており、マグリット、ジョセフ・コーネル、フランク・ステラ、エンツォ・クキなどの作品にみるべきものが多いのだが、すっ飛ばして、ロスコの企画展示室に飛び込む。 ![]() 1.ロスコ概説: ロシア系ユダヤ人。音楽に興味を持っていた。大学を中退しニューヨークへ移る。1945年ごろ、それまでの具象画から抽象画に変わる。この抽象画は、色面がキャンバスに置かれるものである。 企画展示室に入ってすぐの画は、1958年の作品でシーグラム以前のものである。赤のバックの上方に黒の矩形、下方には朱の矩形が配置されている。 今回の展覧会も、ロスコの希望にあわせて150ルクス程度まで明るさを落としている。通常の油彩では250ルクスぐらいが普通であるから、大分暗い。 ロスコのもう一つの希望は、他の画家の作品と一緒に展示されることを嫌うことであり、さらに1961年にロスコ自身が指揮した彼の回顧展では、非常に低い位置に作品を展示している。 ロスコの場合、最初は明るい色彩も使っていたが、彼は色彩よりもプロポーションが重要であると考えて、装飾的になりかねない明るい色彩を使用しなくなった。その後に使われる色は、主として黒・赤・茶などである。このようにして見る人の心の奥に届くような画を描こうとしたのである。 2.シーグラム壁画の物語: 1958年、54歳のロスコは、ニューヨーク東5丁目のシーグラム・ビルのレストラン「フォーシ-ズンズ」に壁画を依頼され、喜んで30枚の油彩を描いた。この部屋には、その頃の水彩が展示されていたが、赤褐色・オレンジ・黒の窓枠や扉な形の画である。しかし、ロスコはこのレストランの雰囲気が気に入らないため、契約を解除してしまった。 このシーグラム壁画の一部がテートに納まるまでのやり取りについて、16通の書簡が展示されていたが、これはギャラリー・トークの前に読んでおいたので、十分に理解できた。以下にその概要を紹介する。 1965年、テート館長のNorman Reid(リード)とRothkoの間で、テートにロスコの専用室を作る相談を始めた。ロスコのしっかりとした手書きの手紙が残っている。1966年夏にロスコは訪英したが、かけちがってリード館長に会えなかったので、次のような激しいタイプした手紙を送っている。しかし、これらの作品がロンドンに到着した1970年2月25日にロスコは腕を切って自殺を遂げている。テートにロスコルームができたのは、3ヶ月経った5月28日だった。テートのロスコ室の模型が展示されていたが、それでは7点が同時展示されている。 3.シーグラム壁画展示室: 合計15点が一部屋にぐるりと展示されている。展示法はテートと異なり、一つの壁面に複数の画を間隔を空けずに掛け、テートより高い位置とし、天井より光を取り入れている。これによってテートより明るくなって、ロスコの指示に近づいたとのことであったが、わたしの感じでは従来の川村の暗い感じが払拭されて、とても見やすくなったと思う。↓は1面にかけられた5枚の壁画である。 ![]() 5.黒ー灰色の作品: 体力が衰えた1969年の作品。上部は黒く、下部は灰色で、そこにはブラッシュ・ワークが残っている。このようなロスコの画は内面に向かっているようである。一般にロスコの画は日本の伝統の色に近く、日本人しか分からないのではなかろうかという大胆な発言で締めくくられた。 終了後、林学芸員と直接にお話できる機会があったので、日本には「四十八茶・百鼠」という色彩を重んずる伝統があることをお話して、学芸員の結論に満腔の賛意を表しておいた。 百聞は一見に如かず。お勧めの展覧会である。 美術散歩 管理人 とら < 前のページ次のページ >
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