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日曜の朝は忙しい。日曜美術館を見たら、すぐに美術散歩にでかけたくなる。番組のメモをとっておいても、よほどでなければブログに感想をアップしている余裕がない。
今朝の「十和田現代美術館ー水野美紀」と「青森県立美術館ー須藤元気」の「アートの旅」は出色の出来だったので、メモをそのままアップする。メモ用紙を節約しているわけではないが、今朝は朝刊の行間に書いてしまった。 ![]() 赤のボールペンで紙面の行間にメモされている 「感覚がギュット詰め込まれる」十和田現代美という水野美紀の新鮮な言葉や「魂がこもっている」青森県美という須藤元気の奥深い言葉が、社会の暗い現実を表す黒くて硬い活字たちと鋭い対照を示している。 とすると、このメモは「現実現代アート」あるいは「現々代アート」といえるかも・・・??? 【追加】 番組では、この後、「コートールド美術館」の紹介がなされた。大分昔のことで恐縮だが、ある暑い夏の日に、ロンドンの地下鉄を下りて、急坂を上って、ここを訪れると、あいにく閉館中で、やむなくカタログだけ買って帰国した。すると、まもなく日本で「コートールド美術館展」が開催され、お目当てのマネ・モネ・セザンヌなどを見ることができた。(記事はこことここ)その時に日本に来なかったゴッホの《頭に包帯をした自画像》に、今朝TV画面の中で初めてお目にかかった。 美術散歩 管理人 とら
一年ぶりで横浜美術館を訪れた。「みなとみらい」駅の美術館出口付近工事のためかなり迂回させられた。美術館の前の人通りは非常に少なく、灰色の葬祭場のような雰囲気であり、一瞬「今日は休館日だったかな」と同行の家内にむかってつぶやいたほどだった。
![]() チラシによると、「この展覧会は、現在、その活動が最も注目される画家のひとり、松井冬子(まつい・ふゆこ)の、公立美術館における初の大規模な個展です。横浜美術館では、2006年に「日本×画展 しょく発する6人」において、日本の古典絵画が受け継いできた美意識や主題、様式、技法などのうち、近代になって「日本画」の概念が成立する過程で捨て去られたものに、新たな価値や創作のてがかりを見いだし制作にとりくむ若手のひとりとして松井冬子をとり上げました」となっている。 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻の卒業制作《世界中の子と友達になれる》が今回のチラシのヴィジュアルとなっており、本個展の副題ともなっている。 上記のチラシを再び引用すると、これは「芸術表現が呼び起こす精神的肉体的な『痛み』を始点として、恐怖、狂気、ナルシシズム、性、生と死などをテーマに挑発的とも言える作品を制作してきた松井冬子の原点と言える作品です」となっている。 藤の花を凝視すると、無数のスズメバチがおり、女性の足や手から出血までしている。右奥には空のゆりかごが置かれているが、その意味は一見不明。本人の弁によれば「堕胎」を暗示しているとのことだが、こういう謎解きは困る。 とにかく、この非現実絵画あるいは幻想絵画に意味を求めること自体がむなしい。感覚的には美と醜の対比、それも「主体の醜を強調するために従属している美」ととらえてみた。 題名の《世界中の子と友達になれる》とは、松井が画家を志した子供の時の気持ちのようだったが、この画を描いた際にもこの画で《世界中の子と友達になれる》と信じていたとは思いたくない。 幽霊画のように、足がなく、長い髪を強調した女性の絵がいくつも出ていたが、円山応挙の幽霊画のような品格がなく、例えば《夜盲症》では幽霊の女性が死んだ鳥をぶら下げている。この鳥で靉光の作品を想起したが、これはあくまで個人的な感想。 若い女性の身体を割って、内臓を露出させた絵が、《浄相の持続》以下、沢山出展されており、そのデッサンや下絵も出ていた。このことは、内臓を醜悪なものと捉え、これを若い女性の裸体の美をアクセントとして強調するという計算に基づいて制作されたものであれば、まことにおぞましい。 内臓のデッサンや本絵をしっかり観察してみたが、これは医学の解剖図を引き写したもので、実際の臓器を見て描いたものではない。これは「《圧痕は交錯して網状に走る》のための写生腑分け図:卵管」の女性生殖器のスケッチを見れば明らかだった。 本来、正常人の解剖は医学の進歩のために行われ、人類の福祉に役立ってきているものである。解剖に付される遺体は、生前の本人の意志に基づいて大学医学部に寄付され、故人のその芳志に基づいて医学部学生が解剖を行っている。病気の人に対して行われる病理解剖も、医学の進歩のために家族の芳志によって許可されて初めて実施されている。解剖を開始するにあたって、実施者が遺体に対して敬意を表して深く頭を下げるのはこのためである。 解剖図を描いた画家としては、まずレオナルド・ダヴィンチがあげられるが、彼の場合にはあくまで科学者としての解剖であって、その画稿のなかの心臓弁などは現在の医学水準からみても素晴らしいものである。ミケランジェロも解剖のスケッチを残しているが、これは筋肉を正確に制作したいという芸術家としての気持ちに沿ったものであった。レンブラントの局所解剖図もあくまで医学者たちのアクティヴィティの表現の一部であった。 これに対して、前述したように、松井冬子の臓器は実見されたものではなく、美術解剖学の教科書あたりからとったものであると考えられる。 美術解剖学会のホームページを参照すると、「今日の美術解剖学は、このような骨格、筋の運動機構を中心とした内部構造と外形との関係、動きにともなうかたちの変化、比較解剖学、発生学からのかたちの由来を学ぶ芸用解剖学を教育的側面としてもっています。同時に、研究分野としての広がりが加わりました。芸術表現として人のすがたがもつ美しさや、生物のかたちがもつ意味を考察すること、人体とかかわるものの関係を研究する応用解剖学的研究もあります。人間、そして人体に関わる関連諸学との有機的な関わりの中で、美術解剖学の研究範囲は広範なものとなっています」となっている。 この美術解剖学会の役員を調べると、松井冬子が含まれていたので驚いた。そうだとすると、現在の美術解剖学には、遺体を提供していただいた篤志者への感謝の気持ちはなく、生前その篤志者の一部であった内臓は「醜悪なるもの」として扱うことを許容していることにもなる。 入場してきた際には、会場は閑散として、寒々とした作品だけが並んでいた。ところが、途中から大勢の高校生の団体が入ってきた。皆、驚いたようで、声も立てずに見入っていたが、高校生の美術の演習に松井冬子展が適切であるとは思えない。高校生や中学生の興味本位の刃物殺人が多発している現況では、むしろ問題があるのではなかろうか。 これは学校の問題であるが、だといって学校や担当教師を責めるのは酷である。問題はこのようなこのような問題を引き起こしかねない現在の「公立美術館」の在り方であろう。 現在、公立美術館には強い逆風が吹いている。横浜美術館でも「指定管理者制度」が導入されたが、当時の横浜市長・中田宏氏は、「この美術館も工夫が足りているとは言えない。改革のために刺激が必要だ」と述べている。 このため、積極的な美術館では企業のように「経営改革」を掲げて「個性化」や「独自性」を意識した取り組みで動きだしている。「横浜美術館」では、明確な「目標」のもとに、「具体的な取り組み」や「指標」を掲げ、「企画展」の来館者の達成数字目標までもはっきりあげている。そして「横浜美術館」では、地元のショッピングセンターやホテルと一緒に多数のイベントを行っている。 今回の「松井冬子展」もこのような「イベント性の強い企画展」である。出展作の所蔵先を見ると、成山画廊がもっとも多く、今回の展覧会イベントの協力者となっていた。それよりも驚いたことは、所蔵先の個人名が沢山リストに記されていたことである。例えば、月や枯葉が描きこまれた幽霊画《咳》の所蔵者は今を時めく「山下裕二」氏である。この辺にも、新しいビジネスマインドが感じられるが、その正体は知りたくもない。 松井冬子の作品の題名が難解なのは、ダリの前例があるから「まあ良い!」としよう。しかし、キャプションの精神分裂的表現は、本人に任せたものではなかろうか。この点においては、横浜美術館はその教育的任務を放棄していた。 結局のところ、会場でストンと胸に落ちた作品は、穏やかな《盲犬図》、タイムリーな《陸前高田の一本松》、ヤゴから《生れる》トンボぐらいだった。才能のある画家だけに・・・と思った。 この会場を出てほっとして、椅子で休んだ。続いて、コレクション展の会場に移ったが、こちらは良い企画があり、大勢の観客が松井冬子の桎梏から解放され、①横浜開港から昭和までの洋画、②タゴールと三溪ゆかりの日本画家たち、③写真展などの企画を楽しんでいた。 これらについては写真も撮ってきたので、別報とするが、「美術鑑賞は自分が楽しむためのものである」ということを再確認した。 美術館は visiter-oriented のものでなければならない。bisiness-oriented の美術館は消えてほしいし、早晩消滅するであろう。 美術散歩 管理人 とら
今を時めく現代アート・キュレーター長谷川氏の新著(2011年11月10日、NHK出版新書364)を読んだ。
![]() そこで今注目すべきアーティストの作品と観賞のポイントのガイダンスを受けながら、上記の『なぜか』の追求法を読みだした。 章立てとアーティスト名は下記のようである。 第1章 本画の遺伝子: 村上隆、奈良美智、落合多武 第2章 出会う場所でアートは変わる: 草間弥生、オラファー・エリアソン、レアンドロ・エルリッヒ、マイケル・リン 第3章 アートが科学を越えるとき: ジェームス・タレル、池田亮児 第4章 「見る」ということ: ソフィ・カル、河原温、アンリ・サラ 第5章 身体性を呼び覚ます: エリオ・オイチシカ、リジア・クラーク、エルネスト・ネト、サラ・ジー 第6章 アートのポリティククス: マシュー・バーニー、フランシス・アリス、ロバート・スミッソン、蔡国強 第7章 越境するアート: SANAA、石上純也、トビアス・レーベルガ-、リクルット・ティラバーニャ、シムソン・ギル、wah、フセイン・チャラヤン 自分のブログやHPを検索してみると、上記下線の13人がヒットした。本著で述べられている26人のうちの半数であるから、現代美術が苦手な私「とら」も仲間の若手ブロガーのおかげで、現代美術の半可通となっていることがわかる。 東京都現代美術館はもとより、金沢21世紀美術館、岩手山感覚ミュージアム、下山発電所美術館などにもでかけているのだから、まんざら素人というわけでもないが、本書の「よくわからないけれど、なぜか惹かれる」というのは私のようなものをいうのだろう。したがって本書のレビューを書く資格はないが、序論の部分から、お気に入りの文章を選び、ちょっとした感想を述べることぐらいは許されるだろう。 ・アートは、時を越えて生き残る「適時性」と、共有する現在をときめかせる、いまを生きていきるという「共通性」の、二つの力をあわせもっている。・・・「忘れられていくものはアートとはいえない」ということになりますね。 ・一方で、現代とそれ以前では、一点、決定的に違うことがあります。デジタル記憶装置が普及した1990年代の後半以降、「物」として残っていかなくても、「情報」として歴史に残っていくという選択肢がでてきた。・・・すべてが情報宇宙の「ゴミ」として残ってしまうのも困るので、何かを捨てていくという「ゴミ捨て作業」が必要になりませんか。 ・何がいいアートで、残っていくアートなのか、私たちの生は、アートにどのようにかかわっていくのかという根本的な問いを、多様な形で考えてみるのは面白い。・・・面白すぎて困りますが、これが本書の狙いなのですね。 美術散歩 管理人 とら
副題は「31人の気鋭作家が切り拓く、現代アートシーン」。
「冒険家マルコ・ポーロが、わが国を黄金郷であると伝えた時と同じように、いま日本は新鮮な発見と驚きをもって世界に迎えられている。今回の展覧会も国内の高島屋をまわった後、外国にも展開する予定である」とのこと。これが外国の画廊主の言葉ならば、説得力があるのだが、日本のギャラリーからの言葉だといささか注意して聞かなければならない。 ![]() その中で、会田誠《大山椒魚》や山口晃《歌謡ショウ図》はおなじみ。ただ、これらは日本的なイメージなので、欧米ではどのように受け取られるだろうか。 池田学の小さい作品も良かったが、大きな《仏陀》がダントツ。細密なモティーフと大きな仏の対比は、ブリューゲルの《バベルの塔》を想起させた。この作者の作品は欧米でも十分に通用するだろう。 天明屋尚の刺青画、町田久美の《とまり木》、宮永愛子のナフタリン芸術はわが国では有名だが、外国でも通用しそうな気がする。 三瀬夏之介の《だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる》は、チラシ↑の上段の巨大な屏風絵。墨だけではなく、胡粉、アクリル、インクジェットのコラージュである。縄文のエネルギーの爆発のようだ。こういった祖先からのDNAを揺さぶるアートが、どの程度外国人に受容されるか見ものである。 日本の得意技のアニメーションにお気に入りが多かった。ゆっくり時間をかけて楽しませてもらった。 まずは、鴻池朋子の《minio-Odyssey》。スクリーンに相当する台座が本のように中央がくぼんでいるだけで、実際にマンガの本を読んでいるようだった。 次に、近藤聡乃《てんとう虫のおとむらい》が、今回のマイベスト。白黒に赤だけの色の使い方に安心感が持て、ストーリーも面白かった。 もう一つのアニメ、束芋の《にっぽんの台所》は以前にも見たが、またしっかり見てしまった。 その他に印象深かったのは、指江昌克の《moon》、熊澤未来子の《侵食》、渡邊佳織の《開け心》。 青山悟、石原七生、上田順平、O JUN、岡本瑛里、風間サチコ、樫木知子、熊澤未来子、染谷聡、棚田康司、南条嘉毅、藤田桃子、森淳一、山口藍、山﨑史生、山本太郎、山本竜基、吉田朗、龍門藍などの作家はこれからよく見ていこう。 (追 加) 高島屋の6階美術画廊の展示が必見。 まずはジパング関連の「Nippon現代アート外伝」。近藤聡乃の《てんとう虫のおとむらい》のアクリル箱詰めが傑作だった。 それより強烈だったのは「妖怪奇譚-金子富之展」。山形在住の孤高の妖怪絵師・金子富之の個展。恐るべき日本画です。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
お世話になっている「あおひー」さんの個展。最終日になってしまった。
![]() 次に、あおひーさんからタイトル(リストはこちら)と撮影対象を教えてもらって、ちょっとお話をした。そして自分なりのタイトルを考えてみた。 #4 Hanasaki(いくつものタクシーの頭)→とらタイトル=START(徒競走) #7 散華の街(銀座)→とらタイトル=PIECE(戦争を知らない子供たちの街) 二人で、川端龍子の《爆弾散華》の画や特攻隊員の「散華」の話をした。「時代の差」ということで両者納得。↓はこの作品で、案内状のヴィジュアルになっている。 ![]() 最後の壁面はお気に入りの連続だったので、あおひーさんの背中とともに撮影。 ![]() ![]() #13 Green2 ↓(水に映る橋)→とらタイトル=TANIMA(東山魁夷《たにま》の下絵↓↓を想起) ![]() ![]() その他にも、クレーを想起させる「薬局の店頭」やカンディンスキーを想起させる「おもちゃの台紙」は音楽性のある抽象絵画のように思われた。 アーティストがアーティストたるためには独創性がもっとも大切である。あおひーさんの作品は、上記のように過去のアートのDNAを保有しつつ、あおひー独自の感性が見事に花開いていると思った。 美術散歩 管理人 とら
しばらく極寒休眠中だった「とら」が美術散歩を再開した。題して「中央線美術散歩」とでもしようか。まずはミズマ・アートギャラリーへ。目黒にあった時に「山口晃 ラグランジュ・ポイント」展を見に行ったことがあるが、あまりに老朽化した建物なので、わが国の現代アートの問題点に眼を覆ったことを覚えている。
今回はしばらく前に移転した神楽坂ビル2階の新しいギャラリー。外階段を使っているところは相変わらずであるが、少なくとも清潔な感じがして、これならばアートを観る環境としては十分である。 中には三畳台目の茶室も出来ていて、中国風景らしい横長の画が掛けてあった。最近の茶会では古めかしい一行ものの書だけではなく、このように絵を掛けることもあるという。これは同行した家内の話。そういえば自宅での今年の初釜の床は《鉢の木》だった。 ![]() 今日は、「焦点」展に関するブロガーたちの記事を読んで、最終日に出かけた。今回は全ての作品が22×27cmという小画面。「小さな部分に焦点を当て、そこから外に広がっている大きな世界を想像する作品たち」ということで展覧会タイトルを「焦点」としたとのこと。 確かに池田の作品のような細密画はこのような小画面にまとめたほうが、テーマが拡散せず分かりやすい。全20点と展示数は限られているが、その濃密さは驚くべきものである。新作の《Gate》はギャラリー入り口のポスターに使われていたので写真に撮った。 ![]() その他のお気に入りは、大きな水車のようなものとその上の小さな農夫たちの対照の面白い《farmer's tank》、廃屋となった病院から樹が生え、ベッドが出てくる《Hospital》、波頭を小さな人間が登っていく《波/wave》、太い樹の根っこの中の地底湖や骸骨の描かれた《地下の種/Seed of underground》など多数。 発想の豊かさと確かな技術力は、新しいシュールの世界を切り拓いている。この作家のますますの発展を期待したい。 昨日、この池田学と同年齢の三瀬夏之介の座談会があったという。色合いのまったく異なる2人なのでどんな話が出たのだろうか。どうせ両者の画集の出版社の作戦なのだろうから、このようなものに影響されず、それぞれ独自の道を進んでもらいたい。 そういうこともあって以前に三瀬夏之介の展覧会を見た「佐藤美術館」に足をのばすことにした。こちらの記事は別記とする。 美術散歩 管理人 とら
Twitterは便利。たった4日間の「BASARA展」はTwitterを見ていなければミスしてしまっていただろう。
茶道をやっている家内に、「侘び・寂び・禅の対極にある『バサラ』というものは知っているか?」と聞いてみたところ、早速「佐々木道誉でしょう」という返事。そこで淡交会の「原色茶道大辞典」で「佐々木道誉」を引いてみると、「南北朝動乱期の武将。足利政権の重鎮。豪放の性格から尊氏もこれに一目を置く権勢を振るったうえ、華美を好むバサラ大名の名を高くした。特に闘茶会の豪華を誇った」となっている。 Wikiでは、「ばさら、婆娑羅、vajra = 金剛石」とは、身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む南北朝時代の美意識とされている。 ![]() 現代美術家・天明屋尚氏のキュレーション。チラシには、「侘び・寂び・禅の対極にあり、オタク文化とも相容れない華美(過美)で反骨精神溢れる覇格(破格)の美の系譜『BASARA』をテーマに、大胆かつダイナミックな和の世界が展開されます」と書いてある。 家内が一番感心したのは、入ってすぐ右に置いてあった中島靖貴の《タイムマシーン》。蒔絵のバイク。座席に畳表が敷かれている。確かに時を超えるマシーンである。 このバイクの側に、桃山時代の兜。この兜をかぶってタイムマシーンに跨り、246を飛ばす若者がいたら面白い。 その奥に、素晴らしい根付つき煙草入れ、刀の鍔の向こうを張ってデコ電が並んでいたが、これはさすがに見劣りする。 ![]() その側には、河鍋暁斎の《風流蛙大合戦》、国芳の《源頼光館土蜘蛛作妖怪記》のお化けたち。さらに国芳の水滸伝の刺青男《浪裡白跳張順》と《九紋龍史進》。 これに張りあう現代美術は池田学の《興亡記》。これは何回見ても素晴らしい。バベルの塔のような城の屋根の上では大勢の侍が戦っているかと思えば、天守閣はクレーンで工事中。各層には列車が入り込んでいると思えば、大きな手から蜘蛛の糸が垂れ下がり、それにしがみつく人間も描かれている。 その隣は、山口晃の《土民図》。昔の農民が軽トラに竹やりを積んでいる。明智光秀を討ち取った小栗栖の住人たちなのだろう。これは得意の時代超越絵画だが、池田学の努力作に比べればあっさりしすぎている。 その隣には、横尾忠則の《夢千代日記》。洋風な感じがして、この展覧会ではちょっと浮いていた。 正面入口横の階段横には、滝の水を浴びる刺青の男と浴衣の女が描かれた豊原国周の五枚続き浮世絵《有瀧恵花形》と現代の刺青男たちの写真《不動明王》など。後者は一昨日に実物を見られたとのこと。 綺麗だったのは村山瑠里子の《愛のドレス》。これは前に見たことがある。これは国周の浮世絵の女性の向こうをはっているのだろうか。 縄文土器の側には、現代陶芸のドクロ。 階段を上ったところに金理有の玉虫色の兜のようなものをかぶって、目・耳など顔の一部だけが露出されている不思議な陶芸があった。 版画としては、月岡芳年の《椿説弓張月》と河鍋暁斎の《元禄大和錦》シリーズの2枚も出ていた。いずれも兜をかぶった武者。これは金理有の作品と対応させているのだろうか。 驚いたのは成田久の《衣殖》。美しい着物の布地を細かく縫って縮みのような雰囲気を出し、これを繋いで超ロングドレスにしていた。 その左右に観音菩薩を取り巻く四天王と芸者の人形が置かれていたが、「ばさら」との関係は不明。このホールの壁面には岡本太郎の作品を想起させる激しいタッチの壁画があった。これぞ岡本太郎のいう縄文の精神、「ばさら」の美意識に連なるものであった。 辻惟雄の「日本美術の歴史」によると、時代や分野を超えた日本美術の特質は、①かざり、②あそび、③アニミズムであるとされている。「ばさら」とはこのような日本美術の特質の具体的な表現であるともいえる。おもしろい発想の企画だった。 写真撮影禁止だが、ランチを食べたレストランの背景に作品の一部が写っている。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
38歳で夭折した画家の没後25年回顧展。
![]() 描かれている人物が特徴的である。頭部が比較的小さく、猪首、肩が張って、腰がすこぶる大きい。そして手足は比較的小さい。有元の画にはこのような人物が繰り返し出てくる。 女性なのだろうか、男性なのだろうか、それも定かではない。 この人物が舞台のようなところから天に向かってかけられた梯子を上っていく。この梯子はカーテンの陰に透けて見える。舞台の背景は低い緑の山並み。その上には青い空と不思議な形の雲。 色彩は全体に薄く、フレスコ画のようでもある。ひどく平面的な画でロマネスク調。梯子の影も描かれているが、これは舞台の端で切れている。 題名は画家の好んだバロック音楽に由来するものだろうが、画と結びつけて考えることはできない。 一言でいえば、シュールな画である。画家の脳裏に浮かんだままに描かれ、画家の思いつくままにタイトルがつけられたのではあるまいか。 このように一人だけの不思議な人物が繰り返し出てくる。2年前にこの美術館に棲み付いた舟越桂の怪人たち(記事はこちら)が、画となって再訪してきたかのようである。 なるほど、夏の庭園美術館は、このような怪奇な人物にピッタリの風格を備えている。 人物が舞台から階段を下りていく画や彫刻もあった。カーテンの中から手が出てくる画もあった。空と雲が切り取られて画中画として再現されている作品もあった。こういった点はマグリットの画を想起させる。 《室内楽》↓では、そのような空と雲の画が室内に取り込まれている。この人物は乳房が大きいが本当に女性なのだろうか。顔つきは中性的でもある。 ![]() 「見ているうちにどこからともなくチェンバロの調べが聞こえてくるような、そこに音楽が漂っているような場面を作りたい」という有元の言葉が記されていた。この画から音楽が聞こえてこないのは、私のバロック音楽の素養が足りないからなのであろうか。 あるいは、有元の脳が特殊で、彼の後頭葉にはこのような人物が棲み付き、側頭葉にはこのような音楽が刷り込まれていて、作品の中で共振しあうのだろうか。 いずれにせよ、暑い夏の邸宅にふさわしい不思議な企画だった。 美術散歩 管理人 とら トリック・アートの歴史は16世紀にさかのぼる。トロンプ=ルイユ(騙し絵)、アナモルフォーズ(歪み絵)、ダブル・イメージ(隠し絵)などなど・・・。今回の展覧会は現代アートにおけるトリック・アートを紹介している。高松市美術館のコレクション!看板のヴィジュアル↑は、佐藤正明の《Subway No23》。NYの地下鉄の床・壁・天井に穴や突起! ![]() 美術館に入ると、子供用のワークショップ会場。その裏のトリック・アートには、靴を脱いで上がり、写真撮影。手前のりんごの向こうは鏡だが、なぜかずっと向こうまで床が続いているように見える。TORAの姿も写っているが、これはもちろん虚像。 チケット↓には、森村康昌の《ボデコン(鼻つき洋梨)》。これはルイス・メレンデスのボデコン《果物》の梨に画家自身の鼻をつけたもの。もちろんチケットが破れているのではありません。 ![]() 第1章 虚と無をめぐって・・・画像1番右 ![]() ![]() 一応お勧めの展覧会。 美術散歩 管理人 とら
これは先月のことです。次のような有難い案内状をいただきました。
皆様のご尽力とご功績への御礼として記念の品を謹呈いたしたく、下記の山本容子氏の版画より一点お選び頂ければ幸甚です。同封の葉書に第三希望までの番号を記して頂き、ご投函ください。同封されていた画像は↓でした。 ![]() わたしは、第一希望( N0.5 )、第二希望( No.4 )、第三希望( No.9 )と書いて、早速投函しました。 GWが終って出勤したところ、ワレモノ注意の宅急便が着いていました。急いで開けてみると、出てきたのは( No.4 )でした。 週明けに実物の写真を撮って、上記の( )内の番号とともに、アップ ![]() 美術散歩 管理人 とら < 前のページ次のページ >
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