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平成館で開催中の「ボストン美術館展」を見て、古い日本の仏画が大切に保存されていることに感心し、今まで本館で素通りしてきた仏画をもう少ししっかりと見ることにした。
・国宝《千手観音像》 平安時代・12世紀: 截金模様が美しい。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら 【同日記事へのリンク】 1) 東洋の青磁 2) 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 3) 仏画鑑賞 4) 絵巻鑑賞 5) 屏風・掛軸鑑賞 6) 浮世絵鑑賞 7) ボストン美術館 日本美術の至宝(再訪)
聖徳太子1390年御遠忌記念と銘打った今回の展覧会には、法隆寺が所蔵する彫刻・絵画・工芸・染織・書跡など約130点が展示されていた。
![]() 聖徳太子は6世紀後半から7世紀にかけて実在した皇族の一人、厩戸皇子のことだと考えられている。当時の日本は、国の基礎が整っていない状態で、政治の中心は、天皇や皇族たち有力な豪族たちとの話合いによって決まっていた。豪族たちは、各々領地と民をかかえ独立した力を持つため権力争いが絶えず、天皇の地位も不安定なものだった。こういう時代に現れた厩戸皇子は、推古天皇の補佐役として後世、聖徳太子と讃えられる活躍をしたといわれている。厩戸皇子が亡くなってから100年後の歴史書「日本書紀」に記されている彼の業績をまとめると、以下の4点に絞られる。 A.憲法十七条の制定 B.冠位十二階の制定 C.仏教の導入 D.遣隋使の派遣 このうち、Aの憲法十七条については、文法上の誤りが多いので、日本書紀・推古記の作者が書いた疑いがあるとされている。他方、Dの外交上の業績については、かなりの証拠が揃っている。外交的事項を経年的にまとめると、以下のようになる。 1.外交の失敗(600年) 遣隋使の失敗は「隋書・倭国伝」に記されている。 朝鮮をバイパスした隋との直接国交を目的としたが、日本の政治・外交の未熟さのため、不成功に終わった。 2.国際都市の建築(601-605年) 飛鳥京より海に近い場所に斑鳩宮建設。(発掘調査で確認) 3.国際的知識の吸収: 高句麗の高僧・慧慈の招聘。 4.第2回遣隋使(607年) 「日出づる処の天子 書を 日没する処の天子に致す」に始まる国書を携えた遣隋使を派遣、当時高句麗に手を焼いていた隋の煬帝は日本と国交樹立。 厩戸皇子死亡(622年頃)後、日本書紀完成(720年)までの約100年間については、以下の3件が重要である。 1.厩戸皇子が天皇の軍勢の一員として参加した豪族との戦い 587年: 厩戸皇子の仏教の守護神四天王に祈願による勝利を呼び込んだとの日本書記・崇峻記の記載は後の加筆とされる。 2.乙巳(いっし)の変 645年: 厩戸皇子の協力者蘇我馬子の次の代になると天皇の一族と蘇我氏は決裂。中大兄皇子・中臣(藤原)鎌足たちが蘇我入鹿を殺害、その父・蝦夷も自害に追いこんだ。日本書紀の蘇我入鹿の非道を記した部分は別人が加筆した可能性がある。 3.大化の改新 646年: 天皇の一族と豪族が並び立つ従来の状況から、豪族とその土地や民を全て天皇の下におき、天皇を頂点とする国家へ新しく作りかえるという大改革。その勝利者の歴史書である「日本書紀」には厩戸皇子の業績が誇大に記され、その後の聖徳太子信仰のもとになっていった。 前置きが長くなってしまったが、今回の展覧会は法隆寺に伝わる文物を多数展示し、聖徳太子の後世への影響を改めて考えさせている。以下、記憶に基づいて記述するが、間違いがあるかもしれない。指摘していただければ、すぐに修正します。 会場に入るとすぐに《聖徳太子曼荼羅》。下部に聖徳太子と弘法大師が見て取れる。この手の絵は初見。なかなか面白い。 次に出てきたのは、《聖徳太子絵伝》。これは聖徳太子の季節ごとのエピソードを集めたもので、各年齢のものがそれぞれの絵に入っていた。 美しい刺繍があったが、これは《天寿国曼荼羅繍帳》のコピーらしい。本物はボロボロだそうだから、奇麗なコピーで見られるのはありがたい。 肝心の飛鳥時代のものはほとんどないが、しっかりと作られたコピーでその時代を感じ取ることができる。例えば、今回出ていた《聖徳大師像》は、江戸時代の幽竹法眼の模作であるが、宮内庁蔵の国宝の絶妙のコピーである。 《玉虫逗子》は、本物よりも色彩が濃くてよく見えたが、肝心の玉虫の翅の光は分からなかった。 仏像としては、チケットやチラシ↑に使われている平安時代の内刳なしの一木造《持国天像》・《増長天像》が出ていたが、古拙な感じのする飛鳥時代の《四天王立像》と比較すべくもない。 金色がよく残っている豪快な《十一面観音菩薩立像》はなかなか良かった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 《善光寺如来御書箱のうち漆蒔絵箱》が出ていて驚いた。これは、信濃善光寺の阿弥陀如来から聖徳太子に送られたとされる手紙を納める五重の箱のうちの最外側の箱で、見事な蒔絵で葵の紋が描かれていた。徳川綱吉の生母、桂昌院の寄進によるもとのこと。 傍のパネルには、五重の箱の写真が出ていたが、最内側の箱は美しい朱色の綾錦だった。展示品のなかに飛鳥時代にこれを包んだ木綿の袋があったが、この最内部の箱は開かずの箱となっていたはずなのに、明治時代に無理に開け、中に納められていた三巻の巻物のうち、一つを模写してしまったといういわくつきの箱を包んでいた袋ではないかと思った。ただし会場には、この点についての説明はなかった。 ![]() ![]() 近代の歴史画としては、安田靭彦や吉村忠夫ら有名画家の優品が出ていた。吉村忠夫の《多至波奈大女郎(聖徳太子妃の橘大郎女)像》↓はお気に入り。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
東博で開催中の「法然と親鸞 ゆかりの名宝」。NHKや朝日新聞社もこの仏教美術展の共催者なのだが、今朝の朝日新聞の番組紹介コーナー「試写室」に面白い紹介記事が載っていた。井上秀樹氏の署名入り記事である。ちょっとピックアップさせていただく。
・浄土宗と浄土真宗の違いのように、今さら聞けない基本から、法然の直筆書の内容など、実物を見ても恐らくわからないことまで(解説する)。共催者の新聞記事としてはずいぶん正直であることに感心した。 ![]() ![]() ![]() 五木寛之氏の近著「生かされる命をみつめて」(東京書籍、2011.8.16)を読んだが、「法然、親鸞、蓮如という人たちの仕事を振り返ってみると、なによりも大きなことは、その当時の知識人や、あるいは国家や朝廷などの選ばれた人たちより、野に生きる庶民大衆に語りかけたことでした」という文章が印象的だった。 ![]() 私は北陸出身で家は浄土真宗である。仏壇の阿弥陀如来の両脇には親鸞↓と蓮如の軸が掛けられている。 ![]()
東京国立博物館で「空海と密教美術」展が開かれている。自分のブログ記事はこちら。
これあわせて、NHKのBSプレミアムでは三夜連続で「空海の至宝と人生」を紹介した。一応通して見たのでメモを残しておく。 第1集 仏像革命 メインのテーマは、東寺の立体曼荼羅に含まれている怒りの表情を露わにしている不動明王や降三世明王な↓ど5体の明王たち。 ![]() それにしても、なぜ怒りの仏像が必要だったのか?慈悲だけでは人は救えないのか?それまで日本にはなかった仏像をもたらした空海の人間観や宗教観では、「人間は一筋縄ではいかない。人間を救済するには慈悲だけでなないものが必要だ」という考え方によるのである。 作家・夢枕獏は、西安を訪ね、「石刻美術館」で1958年に下水道工事の際に発見された唐代の明王像に対面した。この体験をもとに執筆された「怒りの仏像誕生のドラマ」が番組の中で演じられた。 現代の大仏師・松本明慶も不動明王では怒りだけでなく、怒りも優しさも同時に表現することが求められたと推理している。 長時間番組だったが、内容が薄く、最後は飽きてしまった。 第2集 名筆の誕生 空海は平安時代の三筆と称えられ、優れた直筆の書をいくつも残している。「聾瞽指帰 (ろうこしいき)」↓はスピード感があって、一文字一文字に力がある。書聖「王羲之」の書体と似ており、「是」・「懐」・「視」・「楽」などはそっくりである。空海の優等生ぶりが想像できる。 ![]() その後の空海の字体は多様で、読ませるより見せるというにふさわしいデザイン文字のようなものまである。東寺宝物館を訪れた書家・岡本光平が見た「真言七祖像」に空海が書きこんだ賛がそれで、王羲之以前の礼拝の対象であった「飛白体(ひはくたい)」で書かれている。かすれた線が波打つように続いている字である。岡本は、筆として革・海綿・フェルト・経木・竹を使ってみたが、竹筆で書いたものがもっとも近いという。↓の「飜」は、「白鳥」と「龍」の意味が一つの文字に込められているとのこと。 ![]() ![]() ![]() 第3集 曼荼羅の宇宙 空海自らが「密教の教えは深く、文字では伝えられないので、絵図を用いて表現する」と語っているように、密教美術は造形の宝庫であり、多彩さと秀逸さは仏教美術の中でも群を抜いている。 その頂点に立つのが「両界曼荼羅図」。 紹介されたのは、高野山の「血曼荼羅」、東寺の「西院曼荼羅」、神護寺の「高尾曼荼羅」、奈良博にある修復後の「子島曼荼羅」。 平安時代の色彩を鮮やかに残す「西院曼荼羅」に描かれた大日如来とその高画質映像では、胎蔵界の大日は修行のスタートの子供の顔で、金剛界の大日は成人で、瞑想の半眼として描かれている。 ![]() 「高尾曼荼羅」↓は1967年に文化財研究所の調査を受け、金粉と銀線で光り輝く曼荼羅だったことが明らかになった。 ![]() ![]() この章ではハイビジョンの威力を感じたが、ダンスとのコラボはちょっと無理があるように思った。 美術散歩 管理人 とら
密教はインドで大乗仏教より分かれて成立したものであるが、初期の密教仏は奈良時代の日本にも十一面観音や千手観音のような変化観音として入ってきている。しかしインドの中期密教が中国を経て平安時代のわが国に到達したのは、空海・最澄らの遣唐使僧の努力による。この中期密教は中国ではとだえ、わが国で今日まで受け継がれている。インドでその後に発展した晩期密教はチベットやネパールに伝えられ独自の発展をとげている。これについても以前に記事を書いた(こちらとこちら)。
![]() 空海は図画をもって密教に対する理解を広めるという方針だったため、真言密教には数々の優れた造形作品が残っている。とくに東寺の「仏像曼荼羅」の一部が展示される他に、空海自筆の書が5点全文展示される(展示期間に注意↓)ことが今回の展覧会の特徴のようである。 国宝「聾瞽指帰」展示期間:上巻 7月20日~8月21日 下巻 8月23日~9月25日第一章 空海ー日本密教の祖 ・「弘法大師像」大阪・金剛寺蔵: 顔をやや右に向けて椅子に坐り、右手に五鈷杵、左手に数珠。 ・空海筆「聾瞽指帰(ろうこしいき)」: 24歳の書。 力強い筆致。上巻だけでも相当に長い。儒教・仏教・道教の教えを対決させ、仏教の優位性を説いているとのこと。 ・祐高等筆「弘法大師行状絵詞」東寺蔵: 数多い空海の伝記絵巻の一つ。 第二章 入唐求法ー密教受法と唐文化の吸収 ・李真等筆「真言七祖像」 東寺蔵: 空海の師・恵果が、空海に与えるため唐の宮廷画家・李真等に制作させた金剛智・善無畏・不空・恵果・一行の5人の密教祖師像に、821年に空海の指導のもと、日本で制作された龍猛・龍智の肖像を加えたもの。今回は龍猛・善無畏の2点を見ることができた。 ・「兜跋毘沙門天立像」東寺蔵: これの模刻は以前に奈良博で見た(記事と画像はこちら)。多聞天が単独で祀られるときには毘沙門天とよばれるが、兜跋毘沙門天はこの異形で、地天が両手で毘沙門天を捧げ、尼藍婆・毘藍婆の2邪鬼を従えている。これは唐からの請来品で、異国風の外套のような甲冑を付けている。 ![]() 第三章 密教胎動ー神護寺・高野山・東寺 日本の密教寺院の原点ともいえるこれらの寺院に関わる絵画、書、仏像、工芸などだ展示されている。 ・「五大力菩薩像」和歌山・有志八幡講十八箇院: 以前にも見たが、激しい絵。3枚出ていたが、↓はその中央のもの。 ![]() ・「両界曼荼羅図 (高雄曼荼羅)」神護寺蔵: 現存最古の両界曼荼羅図。精緻な線描だが、見にくくなってしまっている。 ・「両界曼荼羅図 (血曼荼羅)」金剛峯寺蔵: 以前にも見た。清盛が胎蔵界の大日如来の宝冠に自らの頭の血をまぜて彩色したとの伝えから「血曼荼羅」とも呼ばれるものであるが、これも見にくくなってきている。 ・空海筆「灌頂歴名」神護寺蔵: 空海は812年から3度にわたって高雄山寺(神護寺)において両部灌頂を授けた。これはその受者の名簿。その中には最澄も含まれている。時間のない中で急いで記されたものらしく書風や筆致に差がある。 ・仏像曼荼羅 東寺蔵:東寺講堂の21体のうち8点が出展されている。金沢文庫で見た称名寺聖教↓のうち赤い点線で示したものが、今回登場している。 ![]() ![]() ![]() ・「両界曼荼羅図 (西院曼荼羅)」東寺蔵: 胎蔵界が展示されていた。彩色の両界曼荼羅としては最古の遺品。展示されていた胎蔵界曼荼羅の中心の「中台八葉院」には、本尊の大日如来とその属性を分担する4仏、およびそれらを補佐する4菩薩が描かれている。 左右(南北)3重、上下(東西)4重の合計12院(部分)からなっている。登場する尊格数は409尊、方位は上方が東である。 ![]() ・「如意輪観音菩薩坐像」醍醐寺蔵: ふくよかな顔と、くつろいだ姿は優雅。斜めに傾けた頭部と体部、それに6本の腕という複雑な姿をうまくまとめている。 ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
東博1階のセミナー室を通りかかったところ、ちょうど国宝室の列品解説が始まるところだったので、聞いてみた。中国の影響の強い8-9世紀の仏画が次第に和様化して、11世紀には今回展示されているような穏やかで華やかな仏画になってきたとのことだった。
そこで早速2階の国宝室で、兵庫・一乗寺蔵の善無畏像・慧文像を見てきた。 前者の善無畏↓は椅床に坐って経巻を捧げる7~8世紀の密教僧の老年の姿。 ![]() ![]() ・天竺僧:龍樹菩薩・善無畏 ・漢人僧:慧文・慧思・智顗・章安灌頂・荊渓湛然 ・日本人:最澄・円仁・聖徳太子 である。 このうち「日本国宝展 @東京国立博物館、2000」で見たのは、↓と↓↓。いずれも大きな人物像であるが、色彩は繊細優美。 ![]() ![]() この展示は5月29日まで。いつの日か、全10幅を揃って見たいものだ。 美術散歩 管理人 とら
「白洲次郎・正子の世界」展を福岡アジア美術館で見たことがある(記事はこちら)。
私のその記事は、「激しい格差社会の上位を生きることができた夫妻の遺物を、高い入場料を払って見ている自分がおかしかった」と締めくくっている。こういった上流階級の人間に対するコンプレックスを拭い去れなかったのだろう。 今回の展覧会でも、白洲正子が 出版社の依頼で、西国三十三ヶ所の観音巡礼を取材した。日本中がオリンピックで沸いているのを尻目に、旅に出るのがいい気持ちだった。(中略) 近江の山の上から、黄金色の早稲の中を、新幹線が颯爽と走りすぎるのを見て、優越感にひたったものだ。お前さんはすぐ古くなるだろうが、こっちは数千年を生きた巡礼をしているんだ、ざまぁ見ろ。と書いているのを知って、このセレブの上からの視線に対する反感を抑えきれなかった。 この冬、郷里の家を整理していると、白洲正子の「私の古寺巡礼」(法蔵館 昭和57年2月25日発行の初版本)↓が出てきたので、東京まで持ってきた。親父は当時、仏像行脚を続けていたので、列車の中で読んでいたらしい。本の中に京博の観覧券と「他はこれ我にあらず」という道元の言葉のコピーがはさんであった。 ![]() ![]() 第1キーワード: 自然信仰 会場の入り口には、那智の滝の大きな映像がスクリ-ンに映し出されている。「私の古寺巡礼」には次のように記されている(p10-11)。 「那智」は滝がご神体です。わたしははじめて見てひどく心を打たれました。富士山と並ぶ絶景だと思ったのです。高い山の上から岩を割って落ちてくる滝の勢いと、雷のような水音は、私の心に強い衝撃を与えました。純真だった昔の人たちにとってはなおさらのことでしょう。それは美しいというより、恐ろしい風景で、自然というものの偉大さを目に物みせて教えるように感じました。(中略) 那智は、太古の昔から日本人の間に行われた自然信仰の一つで、人間にとって欠くことのできない水を与える源です。ひいては水をもたらす山も木も崇拝されたことは、今も残る「神体山」や「神木」によって知ることができましょう。別の言葉でいえば、山にも木にも水にも、神さまが宿ると信じられていたのです。会場には、《那智参詣曼荼羅図》が二つ並んで展示されていた。「補陀洛寺本」↓と「那智大社本」である。 ![]() ![]() 相撲人形(滋賀・御上神社、鎌倉時代)というものを初めて見た。国技といわれる大相撲も最近は不祥事の連続で少し怪しくなってきているが、相撲取りや行司がずいぶん古い時代から現在とあまり変わらぬ姿であったことを確認した。 大阪・金剛寺からは、《日月山水図屏風》(室町時代)↓が出ていた。 ![]() 中でも室町時代の「日月山水図屏風」一双は、絵画の中の逸品といえる。片方は、春から夏への風景で、重なり合った山の向こうに、日輪が輝き、もう一つの方は、雪の山に月がかかっている、大胆無比な構図である。一説には、那智を写したというが、一種の宗教画であることは確かだろう。日本の風景画は、自然を拝むことから発達したが、拝む心を持たないものに、このような崇高な景色は描けなかったに違いない。雪の山は、葛城であろうか。眺めていると、これはやはり那智ではなく、金剛寺に住んだ画僧が、自然と長い間つき合って、すっかり自分のものにした後、心の中の風景を描いたように思えて来る。桃山時代という説もあるが、そこにただよう静かな風韻、浪の描写の軽さなど、桃山の豪華さと押しつけがましさはなく、むしろ宗達の手本になったような気がしないでもない。もう一つの大阪・金剛寺からの出展品《野辺雀蒔絵手箱》(平安時代)↓については、次のように述べている(p101-102)。 ![]() 「野辺雀の手筥」も、私の好きなものの一つである。これは平安朝の蒔絵だが、蒔絵というよりざんぐりした漆絵の感触に近い。八条院の御料でもあったのか、それとも御村上帝の母后は、この寺で亡くなられたというから、その御遺品でもあろうか。何にしても、女人高野の名にふさわしい優雅な宝物である。第2キーワード: かみさま 国宝《家津美御子大神坐像、平安時代》(熊野速玉神社)↓も「祈りの道」以来の再会。これには仏像からの影響が見られず、俗体の神像に徹している。冠を被り、両手で笏を執っている。 ![]() ![]() この章で展示されていた和歌山・熊野速玉大社の《彩絵檜扇、南北朝時代》↓は、「祈りの道 @世田谷美術館」以来の再会。27枚の檜の薄板に描かれた山水花鳥の金銀の輝きと華麗な彩色が魅力的である。白洲正子は、いわゆる琳派の装飾美術はあまり好まないが、このようなそれ以前のものは美しさが自然で好きだとのことである。微妙な線引きであるが、辻惟雄のいう日本美術の「かざり」の伝統にも歴史的な変化が認められるのかもしれない。 ![]() 西国巡礼のスタートの那智については第1キーワードの章で述べているが、ここでは《道成寺縁起物語絵巻》や《粉河寺縁起絵巻》に再会した。さらに奈良・岡寺の小ぶりの《菩薩半跏像、奈良時代》もゆっくりと観賞できた。 長谷寺の国宝《銅版法華説相図(千仏多宝仏塔)》↓は初見。釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもので、鋳銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した、いわゆる押出仏を板面に貼っている。 ![]() この寺には有名な千仏多宝塔がある。正しくは「法華説相図銅盤」といい、奈良博物館に保管されている。三重の塔のまわりを多くの仏菩薩が取巻き、台座の下の方に縁起文が鋳刻してある。三尺に満たない小さなものだが、仏教美術史の上では重要な位置を占め、長谷寺の最初の本尊として、忘れることのできない遺品である。念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままの《空也上人像、平安時代》(六波羅密寺)にもお目にかかれた。 第4キーワード: 近江山河抄 《長命寺参詣曼荼羅図 長命寺十界図》(滋賀・長命寺)の他に、《大津絵(釈迦涅槃図)》(滋賀・月心寺)》、円空作《歓喜天像》(愛知・観音寺)などの庶民的な作品が出ていた。 第5キーワード: かくれ里 《福太夫》や《翁》の面(滋賀・油日神社)が出ていたが、ここでの最高傑作は滋賀・油日神社の《ずずい子》→である。この巨根人形に対する白洲正子の評価を興味深く読んだが、「決して卑猥なものでなく庶民のエネルギーの発露である」というような優等生的な文章だった。滋賀・櫟野寺の《毘沙門天立像》↓は、ちょっと太めの堂々たる体躯だが、顔つきは何となく憎めないゆるい感じの仏さまである。 ![]() ここは十一面観音のオンパレードだが、それぞれに顔つきが違うから面白い。 印象に残ったのは、唐招提寺の《銅造十一面観音立像(押出仏)、白鳳奈良時代》、奈良・松尾寺の《焼損仏像残闕、奈良時代》などの特殊なものの他は、那智山経塚出土で日本最古例である東博の《金銅十一面観音立像、飛鳥時代》(↓左)と美形の京都・海住山寺の重要文化財《十一面観音立像、奈良~平安時代》(↓右)、三重・観音提寺の33年に一度の御開帳の重要文化財《十一面観音立像、平安時代》↓↓などであった。 ![]() ![]() ここで国宝《明恵上人座禅像》に再会した。これは明恵の弟子であった恵日坊成忍の筆とされるもので、上人が高山寺の裏山の松の二股で静かに座禅を組む姿が生きいきと描かれている。音声ガイドでは「目を凝らすと飛ぶ鳥や樹のリスが見える」とのことなので、一生懸命に探してみた↓。 ![]() ![]() 明恵上人は、鎌倉時代に、栂尾の高山寺を開いた名僧である。今年(昭和56年)は750年忌にあたるので、高山寺では盛大な法要が営まれ、京都の博物館では、上人にゆかりのある宝物の数々が展示される。有名な「鳥獣戯画」や「華厳縁起絵巻」をはじめとし、事物の「仏眼仏母像」、自筆の「夢の木」や書簡など枚挙にいとまないが、なかでも「明恵上人樹上座禅像」はみごとなもので、自然の中に没入しきった人間の美しい姿を描いている。そのほか、生前愛した石とか道具とか、犬の彫刻とか、上人の生活が身近に感じられるものばかりで、そういう点でも、このたびの展覧会は、普通の美術展や秘宝展とは、いささか趣が違うのである。なぜ違うか。それはほかならぬ明恵自身が、普通の高僧とは違っていたからである。上段の白洲正子の文に出てくる明恵が愛した高山寺の《狗児、鎌倉時代》↓は可愛い!のひとことである。 ![]() ここでは平等院の琴を弾いている《雲中供養菩薩像(北1号)》↓が絶品。意外に大きな像。まさに平安の宝である。定朝一派の力量が十二分に表れている。 ![]() 中でも魅力があるのは長押の上の白壁にかかっている52体の飛天である。正しくは「雲中供養菩薩像」といい、檜の一木つくりの群像で、或いはさまざまの楽器を奏し、或いは蓮華や宝珠をささげ、雲に乗って舞ったり歌ったりしている。創建当時は、華やかに彩られていたらしいが、今は漆も彩色も剥落して、美しい木目の生地を現しているのが却って趣がある。滋賀・聖衆来迎寺の国宝《六道絵 黒縄地獄、鎌倉時代》にも遭遇したが、この手の地獄絵は苦手である。 第9キーワード: 修験の行者たち 白山の修験者《泰澄大師像、1493年》(文化庁)に初めてお目にかかった。岐阜・日吉神社のあどけないお顔の《十一面観音坐像》↓や福井・大谷寺の《十一面観音坐像・阿弥陀如来坐像・聖観音坐像》はいずれも平安時代の素晴らしい仏さまたち。前者は30年ぶりの公開だそうだが、この観音菩薩について、白洲正子は次のように述べている(p169-170)。 ![]() その一つに、美しい木彫りの十一面観音がある。重要文化財などという、いかめしい称号には、およそ似つかわしくない可憐な仏さまで、大きさも30センチほどである。実際にはもっと小さいかもしれないが、今この世に生をうけたといったようなうぶなお姿で、胡粉や朱の彩色も程よく残っている。また奈良・櫻本坊の《役行者神変大菩薩像》↓は、鎌倉時代の作品であるが、そのにこやかな笑顔は忘れがたい。 ![]() 第10キーワード: 古面 面白い舞楽面や能面がたくさん出ていた。これは幼いころから能に親しんできた白洲正子の真骨頂を示す展示なのだろう。 親父が持っていた白洲正子の「私の古寺巡礼」に導かれて素晴らしい神さま仏さまに遭遇できた。今まで偏見を持って考えていた白洲正子のおかげで、これだけの名品に接することができたのである。白洲正子が突然私のミューズに変身したというほどでもないが・・・。 美術散歩 管理人 とら
昨日のこと。美術散歩からの帰途、自宅近くでバスを降りた途端、「ひどい眩暈に襲われた」と思った。
しかし歩行者が皆、柱につかまっている。これは大地震らしいということに気付いた。上の高速道路の電柱が大きく南北に振れている。サンフランシスコ地震の際に高速道路が落ちてきたことを思い出して、急いで自宅に帰った。 自宅では、本棚の書籍が落ちて散乱していたが、幸いなことに割れ物は見当たらないと思った。TVをつけると、東北地方を震源とする震度8.8の巨大地震であり、7m以上の大津波が三陸海岸などを襲っていることが分かった。 大勢の犠牲者が出ていることはすぐに考えられたが、連絡のあった自分の親族はすべて安全が確保されているようで一安心した。 そこでご先祖様に報告するために仏壇を開けて驚いた。木造の阿弥陀如来像が倒れ、ばらばらになっているではないか。精査すると、本体の右手が手関節で取れ、台座がばらばらになっており、面倒なことに光背の軸も何本か折れていた。 なんとか修理できそうだったので、時間をかけた大手術を開始した。この仏さまには「極」がついており、それによると寛政九年(1798年)の作となっている。 ![]() ![]() 心を込めて修理した阿弥陀仏におすがりして、不幸な犠牲者の方々のご冥福とこの未曽有の危機からのわが国の復興を祈念した。合掌。 美術散歩 管理人 とら 追 記 3月13日(日): 本日、の報道では、マグニチュードは9.0に上方修正され、死者・行方不明者は1万人を超え、さらに原発による被爆者も出てきている。 東京電力では、明日より計画停電を行うとのことである。日本人は一丸となって、この難局に当たらなければならないと思う。 追 記 3月14日(月): 昨日、ホトケサマを仏壇に戻した。ちょっと目じりの下がった阿弥陀佛は微笑んでおられるようだ。 ![]() ![]() 追 記 4月1日(金): 当初、気象庁は今回の「地震名」を「東北地方太平洋沖地震」としていたが、本日、政府は今回の「震災名」を「東日本大震災」に統一したという。 今回の地震と津波による被害の規模は「貞観大震災」に匹敵する千年に一度の大災害である。「東日本大震災」だけではこういう歴史的な大災害という意味が十分表現されていない。 わたしがこの記事のタイトルに、「地震名」として「平成大津波地震」を選んだのはのはそういう意味を込めていたのであるが、「震災名」としても「平成大震災」のほうがふさわしいと思う。 「平成大震災」には、「貞観大震災」における大地震と大津波という「天災」に加えて、原発破損という「人災」が含まれていることはいうまでもない。 われわれは今回の災害に「平成」という年号を冠して、将来にわたる戒めとしなければならないと思う。 ![]() 出展されている運慶作の仏像は、下記の通り。残念ながら本日は6.は出ていなかった。 ![]() 密教世界のトップ。智拳印を結ぶ金剛界の像。運慶青年時代、平安時代後期の作。像高98.2cmという等身大の坐像。金色が良く残っており、若か若しい面相と整ったプロポーションが印象的。 蓮華の天板裏に運慶と書かれた銘文の写真が出ていた。関連史料として《円成寺縁起》も出ており、運慶の名を読み取ることも出来た。 ![]() 四天王のうちの多聞天が単独で祀られる場合は毘沙門天と呼ばれることはつとに有名。甲冑をつけ、右手に戟、左手に宝塔を持ち、邪鬼の上に立っている。玉眼はカット見開き、顔貌はいかにも力強い。 像内に納入された銘札から、発願者が和田義盛と夫人の小野氏で、製作者が運慶と小仏師10名であることが判明した。 3.重文 不動明王立像 (1189年、神奈川・浄楽寺所蔵)↑上左、展示期間2月27日まで: 不動明王は大日如来の命令を受けて行動する明王。この像は和田義盛の発願。がっしりとした体躯と腕を有する像。火炎光背をはずした形で展示されていたのはちょっと残念。莎髻と呼ばれる巻き髪。右目を開き、左目を半眼に閉じた天地眼。右手に剣、左手には羂索(縄)を持って、岩座に立っている。 こちらに入っていた銘札も展示されていた。 4.重文 帝釈天立像 (1201年頃、愛知・滝山寺所蔵)↑中左と←:運慶・湛慶の合作と伝えられる。一面三目二臂で手に金剛杵を持っている。身に纏っている天衣には美しい赤と緑の色彩が良く残っており、裏地が見えるなどの巧みな立体表現には舌を巻く。この像が今回のナンバーワン。裏面も良く見えるように展示されており、ちょっと腰をひねっているところがよく分かった。 同じ滝山寺には聖観音菩薩立像と梵天立像があり、いずれも美しい写真が出ていたが、加えて聖観音については装飾金具がいくつも展示されていて目を見張った。 5.重文 厨子入大日如来坐像(鎌倉時代初期、栃木・光得寺所蔵)↑中右: この仏像と厨子は東博でも見ているが、今回は厨子の中を注目して見た。多数の小仏の群像、蓮華の華から垂れる水晶の珠、台座を支える獅子たちはまことに見事である。 この仏像のX線コンピュータ断層撮影がでていたが、これには発願者足利義兼の歯が入っているのが見えた。これは像の完成後追納されたものだとのこと。 6.重文 大日如来坐像(鎌倉時代初期、東京・真如苑所蔵)↑中央、展示期間2月8日以降: この仏像は外国のオークションにかけられたことで一躍有名になったもの。東博で2度見た(①、②)ので、今回は出ていなかったがまあ良いとした。 7.重文 大威徳明王坐像(1216年、神奈川・光明院所蔵・神奈川県立金沢文庫保管)↑下と→:2007年の保存修理の際、像内納入品の奥書から運慶の最晩年作と確認された像。大威徳明王は戦勝祈願の本尊。六面六臂六足で水牛にまたがっている異様な姿であるが、展示作は損傷のため正面と左の顔ならびに右側3本の手しか残っていない。顔は青く、3つの目がある。 その他に運慶作の可能性のあるものとしては、鎌倉時代初期、神奈川・瀬戸神社所蔵の重文 舞楽面《陵王》と重文 舞楽面《抜頭》が展示されていた。 運慶で有名な静岡・願成就院の不動明王二童子像や毘沙門天立像は参考写真だったが、像内納入銘札の実物が出ていた。 奈良・東大寺所蔵のものとしては、金剛力士立像の《阿形金剛杵材銘文レプリカ》、《像内納入品》、《東大寺続要録》。 また称名寺聖教所収の運慶関連史料として、東寺講堂御仏所史料をまとめて見ることができた。 午後から暖かくなってきたので、トンネルを抜けて称名寺の境内を散歩し、築100年以上の「ふみくら茶屋」の座敷に上がって、冬の三浦半島名物「しらす雑炊」を食べた。美味かった。 これは素晴らしい展覧会。絶対のお勧めである。 関連ブログ記事: 1.大日如来坐像(真如苑蔵) @東京国立博物館 2.大日如来坐像(光得寺蔵) @東京国立博物館 美術散歩 管理人 とら
以前は何時でも見られVRだが、人気が出てきたらしく、当日予約はすぐにというわけにはいかない。ということで「誕生!中国文明」展の途中でこのVRを見に行くことになった。
![]() 後者は横浜美術館や東京国立近代美術館の東山魁夷展(記事はそれぞれ①、②)で見ているが、通常は一般公開されていないということである。 まずは南大門から金堂へのバーチャルツアー。金堂の屋根の左右の鴟尾(しび)に着目。魚をかたどった屋根の上の魔除けであるが、国宝。左のものは創建当時のもので、天平の甍そのものである。右のものは鎌倉時代に交換されたものである。今回の修理に伴い、両方の鴟尾は交換されているが、VR画像では交換前のものとなっている。この建物は和上没後20年を記念して759年に創建されたもの。平安・鎌倉・江戸・明治時代と過去4回の大修理画行われている。屋根は元禄大修理の際より2メートル高くなっている。屋根の下の古くからの魔除け、新しく付けた補強材、明治に加えられたトラス構造などをVRで確認することができた。 ![]() このほかに、天井が彩色画で満たされていたことも判明した。今回はそのうちの天井支輪板の彩色画をVRで再現したもの(↑左)が紹介された。VRでこれを天井に張りつけてみると(↑右)、見事な色彩空間が出現する。天平の姿の再現であり、これは一見の価値がある。ただし、大虹染側面下絵は現在作業中とのことでで、今回のVRではまだ白い壁のままとなっていた。 金堂を出て、境内をVRツアー。講堂・舎利殿・礼堂・校倉造の宝蔵と経蔵を見ながら、御影堂に達する。(地図参照) 中にはもともと興福寺にあった鑑真和上坐像が安置されている。「宸殿の間」にはいる。ここには魁夷の《涛声》(↑チラシ上部参照)。右は和上が越えてきた海上の波、左には目が見えなくなった和上が心の目で見たであろう日本の浜の風景が透き通るような青で描かれている。 この襖の正面を開けると《鑑真和上坐像》(↑チラシ下部)に対面する。 一旦この正面の襖を閉めて、左の襖を開ければ「上段の間」に入る。ここには青い《山雲》(↓上段)の画が待っている。違い棚の上の天袋にはホトトギスが一羽。その向こうの滝の先は中国の風景を水墨で描いた《黄山暁雲》である。 ![]() 非常にすっきりとしたVRだった。 美術散歩 管理人 とら < 前のページ次のページ >
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