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![]() 室町時代に創建された増上寺は、芝に移転後、関東における浄土宗の拠点となり、徳川将軍家の菩提寺となって隆盛を極めた。 以下は、目についた展示品のメモ。 ・増上寺の《扁額》(模造)は、さすがの迫力。 ・広重の浮世絵は、この増上寺をテーマにしたものが多いことを再確認。 ・重文の《法然上人伝》↓は今回のメダマ。鎌倉~室町時代の絵巻物の迫力にしばし圧倒された。 ![]() ・両者の間にあった《法然上人像》は、いかにも包容力のありそうな容貌。 ・秀吉や家康の書状が出ており、この寺と政治の中枢との関係がみてとれる。 ・《黒本尊阿弥陀如来立像御前仏 阿弥陀如来如来》は顔は黒くなっているが、身体には金が残っており、背丈は中程度ながら、大層立派なホトケサマである。 ・家康や秀忠の《浄土宗諸法度》ならびに知恩院満誉の《関東浄土宗法度》から、幕府の厳しい宗教管理体制が分かる。 ・《東京芝三縁山増上寺境内全図》や《台徳院御霊屋絵図》などは、貴重な文化財。 ・徳川家宣の墨跡《君が代は》は上手。 ・特別出品の《四天王像立像》4躯は、1714年制作のもの。なくなっていた持物は最近付けたとのこと。お見事。 ・《紺紙金泥浄土三部経》は、千姫が父・秀忠の霊廟に供えたもの。千姫自身の書ではないが、女性の繊細な字は心を打つ。 ・《崇源院霊廟定書》は、お江の葬儀の際に役人に出された細かい注意書き。こんな注意が必要だったとは、今も昔も同じ。 ・《伝崇源院所用阿弥陀如来立像》は、蓮の蕾の扉の奥に立っておられるミニ仏。単眼鏡でしっかり見たが、顔と手の金が剥げており、お江の方が撫でておられたのかな・・・と思ったりした。 ・《龍文格天井板》はゴージャス。三本爪である。 ![]() ・《将軍御施餓鬼用散華》も美しい。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
アイルランドのダブリンは、フェルメール巡礼を続けている人には聖地だろうが、日本からはなかなか行きにくい場所。TVで街の美術館や有名観光地を周ったような気分になった。以下は、そのメモ。
Ⅰ. アイルランド国立美術館 1853年にアイルランド産業博覧会を開催した鉄道王ウィリアム・ダーガンの尽力によって、1864年に開館した美術館。有名な作品が多く、海外からの来館者も少なくない。常設展の入場は無料とは素晴らしい。 番組で紹介された画は10点(↓)。 ![]() 1.イタリア絵画 ・フラ・アンジェリコ《聖人コスマスと聖ダミアヌスの殉教》: 炎は処刑人たちの方に向かい、聖人たちは助かっている。 ・ティツィアーノ《エッケ・ホモ》: キリストは、既にいばらの冠をつけている。 ・カラヴァッジョ《キリストの捕縛》: この画の再発見の物語は、このブログの「よみがえった名画の謎~天才画家カラバッジオが描くキリスト @BBS地球伝説ーBS朝日」(こちら)に書いている。 2.オランダ・フランドル絵画 ・レンブラント《エジプトへの逃避の途中の休息》: レンブラント光線が素晴らしい。 ・フェルメール《手紙を読む女》: フェルメール巡礼者の目標の絵画。幸い来日した際に、見ることができた(こちらとこちら)。 3.スペイン絵画 ・スルバラン《無原罪の御宿り》: 沢山の天使の顔が可愛いですね。 ・ベラスケス《エマオの台所の女中と夕食》: 有名な初期の厨房画。 4.フランス絵画 ・モネ《アルジャントイユの船着き場とボート》: 印象派の真骨頂。 ・ゴッホ《パリの屋根》: パリに来て、明るい画を描くようになっていますね。 5.アイルランド絵画 ・イェイツ《リフィ川の水浴》: アイルランドを代表する画家の作品。 Ⅱ. 聖パトリック大聖堂 アイルランドは、複雑な国の歴史とともに、カトリック・国教会派・プロテスタントの問題を抱えてきているが、ここは国教会派の大聖堂で、聖パトリックはアイルランドの守護聖人。 ガリバー旅行記の作者であるジョナサン・スイフトは、1713年から1745年までこの大聖堂の首席司祭であった。 Ⅲ. 国立装飾美術・歴史博物館 6日間で鎮圧された1916年のイースターの蜂起や1919-21年の独立戦争の実際をここで知ることができる ↓のアイルランド国旗は、1916年のイースター蜂起の際に中央郵便局 の上に「Irish Republic」と書かれた緑の旗と共に掲げられ、三色旗が国旗として認識されるようになった。緑はケルトの伝統を、オレンジはウィリアム3世(オレンジ公ウィリアム)の支持者たちを、白はその両者の平和を表している。 ![]() 1916年のイースター蜂起の際に、中央郵便局が蜂起軍の司令部となった。英軍の攻撃によって建物はく損傷し、独立後数年経つまで修復は行われなかったとのこと。 ![]() ![]() ギネス・ビールにことを知りたい方の聖地。 Ⅶ. トリニティ・カレッジ図書館 ここに保管されている「ケルズの書」は680ページの福音書装飾写本。 ![]() ![]() 鉄道王ウィリアム・ダーガンが晩年を過ごしたブレイの名所。 美術散歩 管理人 とら
シダネルはかなり前から知っている画家である。その穏やかな点描風の画は、なんとなく和むものでありながら、実際には、ちらとは見つつ彼の画の前を通り過ぎていた。10年間も続いている自分のHP「美術散歩」で「シダネル」を検索しても、出てくるのは2件だけだった(こちらとこちら)。
今回、この画家の回顧展が国内を巡回している。この展覧会には副題が二つ付いている。一つは「薔薇と光の画家」、もう一つは「フランス ジェルブロワの風」である。 ![]() ということで、新宿に行ってきた。この画家の展覧会を見るのに新宿駅前の喧騒を行き帰りするのはふさわしくない感じがして、別ルートで往復した。 渋谷駅南口から、京王バスの新宿駅西口行きのバスを使うと、損保ジャパンビルの目の前で降りることができる。バスは、NHKの脇から北参道を通り、甲州街道を突き抜けて、新宿公園の先で右折して、ビル街に入っていく。電車と違い、バスの乗客はみな穏やか。 閑話休題、展覧会は次のように9章に細分されており、それに従って観ていくと、自然にシダネルの全貌がつかめるようになっていた。 1.自画像 2.エタブル 3.人物像 4.オワーズ県の小さな町々 5.取材旅行 6.ブルターニュ地方 7.ジェブロワ 8.食卓 9.ヴェルサイユ この展覧会では、地図で画家の足跡を詳細に辿れるようになっていて、シダネルが激しく動いたことは分かった。 大雑把にいうと、シダネルはインド洋のモーリシャス島生まれだが、10歳で北フランス・ダンケルクに戻っている。18歳で、パリに行き カバネルのアカデミズム絵画を学び、さらに国立美術学校にも通ったが、これらになじめず、1885年(23歳)には北フランスの漁村エタブルに移った。 ここでシダネルは自然主義や印象主義のように、自然の光を描くことを学んでいったようだ。↓は、1889年の作品だが、ミレーの絵を彷彿とさせる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() マルセル・プルーストが「失われた時をもとめて」の中で、フェルメールの《デルフトの眺望》に言及していることは有名だが、Wikiによると、シダネルについては、皮肉を込めて次ぎのように紹介しているとのこと。 Marcel Proust's mention of Le Sidaner's work in his novel In Search of Lost Time confirms its later reputation. In Sodom and Gomorrah, the narrator mentions that an eminent barrister from Paris had devoted his income to collecting the paintings of the "highly distinguished" but "not great" Le Sidaner. 画家にとっては、偉大といわれなくても名声があれば、それで十分だという意見もあるだろう。いずれにしてもシダネルは、彼の画と同様に、平穏で幸福な人生を送ったものと思われる。この展覧会を観に来られた方々も、このような幸せを一瞬だけでも共有できたのではないかと思う。わたしもその一人でした。 美術散歩 管理人 とら
2010年から始まっているこの番組。3年目に入って、今回はパリのプティ・パレ。
![]() 展示されている18世紀の古典主義絵画としては、ダヴィッドの《セネカの死》やモンシオの《アギスの死》。 19世紀のクールベの《セーヌ川のお嬢さんたち》↓の一人は下着姿で、ボートは近くに男性がいることを表している。すなわちこの「お嬢さんたち」は「娼婦たち」だと非難された。 ![]() 印象派の作品としては、モネの《ラヴァクールの日没、冬の効果》は、マルモッタンの《印象、日の出》を想起させる素晴らしい画↓。 ![]() 再び《黒い犬を連れた自画像》↓や《田園の恋人たち》などクールベの登場。 ![]() ![]() クールベは、1819年、この地の裕福な地主の息子に生まれている。街にはクールベの《かじか捕りの少年》像が建っているが、これはクールベの少年時代の姿なのだろう。 クールベ美術館の一部に、彼が過ごした建物が保存されているが、彼の部屋には絵具入れ箱が置かれている。屋外で画を描ける時代になっていたのである。 2005年に、三鷹市美術ギャラリーで「クールベ美術館展」が開かれたが、その時の記事はこちらである。 クールベ美術館には、この画家の《ナアンの橋》、《仔山羊を抱く村の娘》↓、《オルナンの製紙所》↓↓、《オルナンの少女》などが展示されている。 ![]() ![]() クールべは、1840年、パリのソルボンヌ大学法学部に入学するが、結局、画家になってしまった。番組では、パリで彼が住み始めた「ラ・アルプ通り」や彼のアトリエがあった「オートフィユ通り」が紹介された。 第1回パリ万国博(1855年)には《オルナンの埋葬》(オルセー美術館蔵)を提出したが、出展を拒否され、「アルマ広場」で歴史上初めての個展を開くことになった。 1867年の第2回パリ万博でも同様だった。クールベの《眠り》は、この第2回万博の前年の1866年に描かれたものであるが、同性愛の二人の女性が抱き合っており、室内には女性好みの品々が描き添えられている↓。 ![]() ![]() ![]() プティ・パレには、45,000点もの作品が所蔵されているが、入場料は無料とのことである。 美術館としてのプティ・パレの紹介とクールベの生涯や作品の紹介が渾然一体となった不思議な構成の番組だった。 美術散歩 管理人 とら
今年は、クリムト(1862-1918)の生誕150年ということで、これを祝う展覧会がウィーンでいくつか開かれている。
今朝の日曜美術館のゲストの画家・横尾忠則氏のコメントが素晴らしかったので、思わずメモをとった。以下は、そのコメントを含む放映の概略。 1.ベルベデール宮殿(国立オーストリア美術館)ーここは懐かしい(訪問記事)。 《接吻》:着衣の文様(男=棒、女=円)は、男女の秘所を暗示。 ![]() 《水蛇Ⅰ》:水中で愛しあう二人の女性の許されざる官能美。覗いてはならぬ世界を表現。 ![]() 2.ウィーン美術史美術館ーここも懐かしいが(訪問記事)、↓の天井画は良く見えなかった(記事)。 ![]() 3.ウィーン大学講堂 《天井画:医学・法学・哲学》-エロスの世界を描いたこの作品は大学の受け取りを拒否され、その後戦火で焼けたため、現在は白黒写真が飾られている。 横尾氏のコメント:大学の固い頭に対して、「学問だけではこの世は救えず、感性が必要」ということを表現したのだ。 4.ウィーンの金持ちの妻たちの肖像画 《ソーニア・クニップスの肖像》-大金持ちが高いお金を払って描いてもらった。 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》-クリムトは裸身のエロスを想像した後、着衣像を描いた。 ![]() ![]() 5.分離派会館-ここも懐かしい(短い訪問記事)。 屋根には、黄金の月桂樹、正面には「時代には時代の芸術を。芸術には自由を」との宣言。 《ベートーベンフリーズ》-音楽に酔いしれている乙女、黄金の騎士の姿のベートーベン↓、行く手を阻む怪物と淫靡な世界に誘う金の蛇を首に巻いたその娘たち。 ![]() ハープや文様を含め金が大量に使用されている。これは金細工師だった父親の影響もあるが、永遠に輝きを放つ黄金によって作品に永遠の生命を与えようとしたものである。 開館初日には、マーラーが指揮して「第九」が演奏された。あの狭い部屋がさぞ轟いたことだろう。合唱はどうしたのだろうか。 調べてみると、これは「第九」の終楽章「倒れ伏すか、数百万の人々よ? 創造主を予感するか? 世界の人々よ~」が管楽アンサンブルで演奏されたもので、マーラーの指揮による演奏は「花崗岩のように力強ぃ響き」があったとのことである。(三宅幸夫:ウィーン世紀末の輝きークリムトとマーラー.アサヒグラフ別冊 美術特集 西洋編15「クリムト」.1991.3, p.81) 横尾氏のコメント:悪魔や蛇は「大学」を意味しているように感じる。金は宗教的な色で、現世を超えた力をもっており、インドでは性行為は神と一体化することととらえられている。自分自身は、装飾的になってしまいそうなので金を使わないが、クリムトの金を使った画は決して装飾絵画的となっていないないことに感心する。 6.レオポルド美術館-この美術館は時間切れで入れなかった残念な思い出がある(ナミダ記事はこちら)。 現在、ここで生誕150年記念の「旅するクリムト」展が開かれており、にぎわっている。美術館のサイトにアクセスすると、展覧会名はKLIMT PERSONALLYで、会場の様子の動画や講演会(ドイツ語)も視聴できる。 7.アッター湖 ここはザルツブルグ近く。クリムトは、毎夏、汽車と馬車で出かけている。現在も、クリムトの別荘が残っており、その所有者のおばあさんの話や古い写真が出てきた。 お礼に画を一枚あげようというクリムトの申し出を、「自分が持っていても仕方がないと」断った船頭さんの子孫が残念がっているという話には、サモアリナン!と笑ってしまった。 子供と遊び転げるクリムトの姿はほほえましかった。彼に、こういった一面があることを納得させる素晴らしい写真だった。この写真はこちらで見られます。 クリムトの風景画は全220点にうちの50点。放送で出てきたのは《アッター湖にて》と《花ざかりのポピー》。そこには女性どころか、人物がまったくいない。風景画は売らずに、すべて手元に置いたとのこと。 ![]() そして、「クリムトは時代の空気に非常に敏感であった」とも話され、最後に「55歳で亡くなられてむしろ良かった。もっと長生きされるとわれわれがやることが何も残らなくなってしまう」という最大限のオマージュで話をまとめられた。 美術散歩 管理人 とら 【追記】 ウィーンでのクリムト生誕150周年展の全貌は、こちらで見られます。
前報の特別展「ユベール・ロベール」展にも、ピラネージの大型版画集がいくつも出ていた。この版画素描展示室のピラネージ展もそれに因んだものだろう。
この《牢獄》は、町田市立国際版画美術館の「ピラネージ版画展」でも見ているが、今回は第1版14点と第2版16点が全点みられるということで、特別展の後に足を運んだ。 ![]() ![]() ![]() 1.表題紙 ![]() 2.拷問台の男(第2版のみ) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
「廃墟の画家」と呼ばれる18世紀のフランス風景画家ユベール・ロベール Hubert Robert の作品は、今まで何度も見てきたが、いつもサラリと見る程度だった。
今回、ユベール・ロベールのサンギース(赤チョーク)素描を沢山所蔵するヴァランス美術館(Musée des beaux arts et d'archéologie de Valence)の増改築を機に、この展覧会が開かれた。油彩が比較的少ないのは物足りなかったが、この画家の全貌を知ることができたのは良かったと思う。 ![]() 章別の解説パンフレットのみで、作品リストがなかったので、メモを頼りに記事を書くこととする。(註: その後、HPでリストを見つけたので、記事を修正した) 第1章 イタリアと画家たち ・ユベール・ロベールのこと: 1733年、パリ生れ。父ニコラ・ユベールはスタンヴィル侯爵の侍従。1754年、侯爵の息子のイタリア旅行に随行したロベールは、以後11年間にわたって画の研鑽にはげんだ。幸せ者ですね。 この画↓の原作者はエリザベート・ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお抱え女流画家。後に、フランス革命を逃れて亡命している。 ![]() ・18世紀になって、古代の遺物が画面を構成する重要な要素となってきた。その例は、セルヴァンドーニ《コロッセウムとガイウス・ケスティウスのピラミッドのあるローマのカプリッチョ》、国立西洋美術館蔵のパニーニ《古代建築と彫刻のカプリッチョ》。 第2章 古代ローマと教皇たちのローマ ・大きなピラネージの版画集「ローマの遺跡 第1巻」と「ローマの景観」が出ていた。前者には《ローマの地図》↓ ![]() ・時代別に並んでいる淡彩画↓やサンギース素描によって、ロベールがローマの名所旧跡を夢中でスケッチしていたことが分かる。中には、ロベール本人を思わせる写生する画家が描きこまれている素描↓↓もあった。 ![]() ![]() ・古代遺跡、教会建築の他に、古いヴィラの庭園、ローマから離れた場所のピトレスクな風景など多彩なモティーフの作品を残している。 ・《サンピエトロ大聖堂の柱廊の開口部の人々》ヴァランス美術館蔵↓。 ![]() ・《ティヴォリの滝》プティ・パレ パリ市立美術館蔵↓。 ![]() ・フラゴナールの《丘を下る羊の群れ》国立西洋美術館も出ていた。 第4章 フランスの情景 ・1765年、フランスへ帰国。翌年王立絵画彫刻アカデミーへの入会許可。フランス貴族社会の中枢で活躍。 ・1780年代、ルーヴル宮内にアトリエ。王室絵画コレクションの管理。 ・旧体制期のフランス風景を描いた。《サン=ドニ教会の内部》ヴァランス美術館蔵↓。 ![]() ![]() ・《古代遺物の発見者たち》ヴァランス美術館蔵↓には、古代との出会い、地下へ下ろした梯子、アーチ、奥から差し込む光などが見られる。これらはイタリア時代の素描に描かれているもので、古代が日常生活内に溶け込んでいたイタリアの思い出の中の古代遺物を組み合わせたもの、すなわち「奇想の風景」である。 ![]() ・この章には、ロベールの他の作品としては、《スフィンクス橋の眺め》東京富士美術館蔵と《教会の中の埋葬の場面》ヴァランス美術館蔵、《凱旋橋》ヴァランス美術館蔵↓が出ていた。 ![]() ・その他の画家の作品としては、ヴェルネの《夏の夕べ、イタリア風景》国立西洋美術館蔵、リチャード・ウィルソンの《ティヴォリの風景》国立西洋美術館蔵が出ていた。 ・《メレヴィルの城館と庭園》イル・ド・フランス美術館蔵も出ていた。 第6章 庭園からアルカディアへ ・イタリア時代のモティーフは庭園デザインにも役立った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ロベールが獄中で描いた皿絵《牢獄風景(サン・ラザール牢獄の囚人たちの散歩)》国立西洋美術館蔵も出ていたが、「盛者必衰の理」を表しているようだった。死刑を宣告されていたロベールが死を免れたのは、他の囚人が間違って彼の代わりにギロチンに送られたからだった。まさに危機一髪。 ロベールは、1794年7月のロベスピエールの失脚・処刑後に釈放され、1795年には、ルーブル美術館の前身である「美術館ギャラリー」の管理者の職に就いているのだから、まことにしぶとい男である。 美術散歩 管理人 とら
3月に入り、急に暖かくなった。早速に「美術散歩」開始。まずは近くの渋谷から。
![]() ![]() ![]() 写真2は、太宰治。織田の写真を撮った時に奥にいた太宰が「おれも撮れよ」と言ってきたため撮ったもの。残っていた最後の1枚のフィルムで、トイレの便器をまたいで撮ったものだという。これが林の代表作の1枚となっているが、本人としては他にもっと良いものがあるので納得していなっかったらしい。 写真3は、川端康成が鋭い眼で骨董品を見つめているところ。初めのうちは、畏れ多くて、なかなか川端の近くでクローズアップ撮影することができず、このように近くで撮れるようになったのは20年間も付き合ってからだとのこと。 写真4は、三島由紀夫。彼の性格が出てくるような写真を撮るのが難しかったとのこと。撮影時間にはいつも早めにきているような几帳面さがあったのに、その後ボディビルを始めたり、あのような最期をとげてしまった三島の性格について興味ある考察が記されていた。 林忠彦の作品には、このように必ずストーリーが内在しているだけでなく、撮影対象の性格が非常に正確に映し出されている。林本人はこれはその対象の人物が一流の人物であるためだと述べていたが、林自身が一流の写真家だからこその言葉だと思った。 なかなか良い展覧会だった。会場には、年配の男性が多かったが、3人の若い人が熱心に見ておられる姿が印象的だった。ちょうどそのうちの一人、唯一の女性が見おわられたようだったので、写真撮影を頼んだ。会場は全体としては撮影禁止だが、太宰の大きなパネルと椅子の場所だけは撮影可能だったのである。 ↓は、このミューズの撮影作品。とても上手い。写真家を目指している方だったのだろう。感謝。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
宮廷の首席画家たゴヤが1年がかりで描いた国王一家13人の集団肖像画。
![]() ![]() 王は愚鈍でお人好しに描かれているが、本人はこれで満足していたらしい。ふと、現在の防衛大臣を思い出した(失礼)。 いずれにせよ、容赦のないゴヤの描写である。 ![]() ![]() この画の左側には、将来、王に背く皇太子やスペインの長期にわたる戦争の原因を作ったその弟の姿がある。 さらに、人選が終わっていなかったために後ろ向きに描かれた「皇太子の未来の花嫁」もいる。 後ろには、カルロス4世の姉マリア・ホセファ。 背景には、ゴヤの自画像も描きこまれている。《ラス・メニーナス》のベラスケスをまねたのだろう。 この画の右側には、国王カルロス4世の弟アントニオ・パスクアル・デ・ボルボーン・イ・サホニアが小さく描かれ、その隣にはカルロータ・ホアキナ、国王と王妃の2番目の娘でポルトガル王ジョアン6世の王妃。 右端にいるのがマリア・ルイーザ。これは国王と王妃の成人した7人の子供たちのうちの3番目。抱いているのが息子カルロスで、後ろには背が高くブロンドの旦那パルマ公ドン・ルイス。 カルロス四世の時代のスペイン王室は、フランス革命の恐怖をを知り、その後、実際にナポレオンの侵略を受けるという歴史の渦中にあったのであるが、そのことについてはゴヤ展の記事に書いた。以下に当該の文章を引用しておく。 ・フランスのナポレオン・ボナパルト皇帝の野望によって、1804年、それまで平和だったスぺインは、突然戦争と混乱の惨禍に投げ込まれた。フランス軍侵攻後のクーデターによって、1808年に、カルロス4世は退位し、息子のフェルナンド7世が即位した。その後ナポレオンによって、この2人の王は収監され、ナポレオンの兄ジョセフ・ポナパルトが即位した。このフランス支配に対して市民の反乱が勃発し、独立戦争(半島戦争)に発展した。その後の数年間、スペインは戦争の恐怖とたたかわなければならなかった。ところで、この画の背景に掛けられている大きな画には何が描かれているのだろうか。今回の番組でこの点に触れられなかったのはまことに残念だった。自分で、画像をいじってみると、ぼんやりと複数の人物像が浮かび上がってくる↓。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
大分暖かくなってきたので、そろそろ「TV美術散歩記事」から卒業しようと思いつつも、良い番組があると、つい・・・。昨夜の番組では「バーゼル市民が守ったピカソとホルバイン」という副題に惚れてしまい、またもや書いてしまった。
Ⅰ.バーゼル市の歴史 バーゼルはアイルランドから移住したケルト民族によって作られた町であるが、4世紀にローマの支配下に入り、7世紀には司教都市となり、10世紀にはハンガリー騎馬民族に蹂躙された。しかし、15世紀にイタリアから紙の製造法が伝えられ、グーテンベルグの印刷機の発明後には、ルターの「95条の論題」やエラスムスの「改訂版新約聖書」がこの地で印刷され、16世紀には医学書も盛んに造られた。このような印刷出版業者が芸術の庇護者となっていった。 Ⅱ.バーゼル市立美術館 1671年に開設された欧州最古の公共美術館。バーゼルで印刷業などで財を成したアマーバッハ家(Amerbach)がコレクションした美術品をバーゼル市が購入し公開したものが基となっている。アマーバッハ家の後援を受けたハンス・ホルバインのコレクションをはじめ、西欧絵画のコレクションが充実している。HPはこちら。 Ⅲ.収蔵品の概観 メムリンク《懺悔する聖ヒエロニムス》: 背景に風景が描かれ始めた最初の頃の画。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 17世紀、ホルバインの画を収集していたアマーバッハ家の没落によって、ホルバインの作品は海外流出の危機にさらされた。これに対して、1661年、バーゼル大学が立ち上がり、大学が3分の2、市が3分の1を拠出して作品流出を防いだ。これを契機にバーゼル市立美術館が設立されたのであるが、これはルーヴル美術館ができる100年以上も前のことだから驚く。 ホルバイン《ボニファチウス・アマーバッハの肖像》: 有名なヨハン・アマーバッハの息子。 ![]() ![]() ホルバイン《窓の際にある2つの骸骨》: だまし画。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2人の兄弟: 1906年、バラ色の時代。フェルナンド・オリヴィエとの幸せな時代の作品。 ![]() ![]() このようにアマーバッハ家によってその基礎がつくられた芸術愛好の心はバーゼル市民によって引き継がれているのである。 美術散歩 管理人 とら < 前のページ次のページ >
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