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多田茂治氏は名著「野十郎の炎」の著者で、高島野十郎展の会場でお目にかかる機会をえた。そのご縁で、新しく出版された「母への遺書―沖縄特攻 林市造」をご恵送いただいた。
1928年のお生まれと聞くが、矍鑠としておられ、このような力作をものされている。本書は、このあまりにも悲惨な事実を、戦争を知らない世代に語り継いでいくという重要な使命を果たしている。 少しでも大勢の方に読んでいただくことが大切であると考え、mixiに載せたレビューの概要をブログに転載する。 本書は、特攻隊員として死んでいくことを強制された若者の母親に対する思い、そしてその母親の息子に対する思いを、切々と語っている。 林市造は、京都大学の学業半ばで学徒動員され、昭和18年12月に海軍に配属された。父親は交通事故でで早くに他界しており、母まつゑはそのころ福岡の女学校の舎監をしていた。 市造は、入隊前に母に会いに行った。キリスト者であった母は、「千人は汝の左にたおれ、万人は汝に右にたおる。されどその災いは汝にちかずくことなからん」という章句を詩篇第91編7節の中から選んで、市蔵の日章旗に書きいれた。 市造は入隊の朝、母と姉に思いを込めたお茶の一服を献じている。彼はその時に使った茶箱を持って入隊したという。 翌年2月に市造に会いに来た母は、靖国神社には詣でようとはしなかった。市造がそこに祭られる日がくるのを恐れたのである。市造が戦死しても、まつゑは一度も靖国に詣でなかった。 「神風特別攻撃隊」作戦は、すでに日本海軍が壊滅状態におちいり、米軍の日本本土空襲が本格化した昭和19年10月に開始された。これを主導したとされる大西瀧次郎中将も、「こんなことをせねばならぬということは、日本の作戦がいかにまずいかということだ。これは統率の外道だ」と語っていたという。 林市造は、昭和20年1月から特功出撃の日まで、「日なり盾なり」と題する日記を書いている。この題は旧約聖書の詩篇第84編からとったものであり、彼も洗礼を受けていたのである。最後の戦闘機にも聖書を持ち込んだと信じられている。 市造の母まつゑへの訣別の手紙は、昭和20年3月31日、沖縄特攻の命を受けた時に書かれている。「お母さん、とうとう悲しい便りを出さなければならないときがきました」という言葉で始まるこの手紙の全文が本書で紹介されている。特攻出発地の鹿屋に移ってからの手紙も紹介されている。これらの手紙こそ市蔵の心中をさらけ出したもので、その内容はこのレビューのなかで簡単に伝えるにはあまりにも重い。是非、これらの「母への遺書」をこの本の中で読んでいただきたい。 4月12日にいよいよ出撃。出撃直前の写真が本書の表紙↑となっている。握り飯か稲荷ずしを頬張る右側の市造と左側の友人の笑顔。これから死地に赴く若者たちの姿とはとても思えない明るさである。 沖縄をめざして南進中に敵艦を発見、午後3時15分に突入し、全機散華して果てた。戦死の報道は5月31日。姉の話では、母は髪の毛が真っ白になり、幽霊のような姿になっていて、「市造さんのことは聞きとうない」と激しく拒否したという。 8月15日に終戦の詔勅。これを聞いたまつゑは、祭壇の前で「大西中将には死んでいただく」と言い放った。その言葉に答えるように、その夜、大西中将は自刃した。 終戦の決断があと半年早ければ、多くの人が死を免れたし、林市造の若い生命も絶たれることはなかった。判断が悪く、決断の遅いリーダーを持った国民は悲惨であった。 美術散歩 管理人 とら ©2007 reserved by TORA
by cardiacsurgery
| 2007-10-02 20:59
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