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府中市美術館の常設展はなかなか良い。今回、児島善三郎展のついでに観た中には、有名な《逝く春》があった。126.2X83.3の大作である。
《逝く春》は明治38年(1906年)4月2日から28日まで、上野公園五号館で開催された第四回太平洋画会展覧会に、福田たねが出品した作品である。太平洋洋画会は明治31年に設立された団体だが、同37年には福田や青木が所属していた不同舎がそっくり吸収されていたのであるから、福田の作品が出品されているのは決して不思議ではない。 明治37年ごろから青木繁と福田たねの恋愛が深まり、この画が描かれた頃には、青木が足しげく彼女の下宿に通っていたという。このころの青木は《天平時代》や《春》などの古典的モチーフを得意としていたこととも符合しており、この画の作成には青木の影響が少なからず加わっていることは間違いない。もちろんどこまでが福田たねの筆で、どこまでが青木繁の筆によるのかは知るよしもない。 明治38年5月号の「明星」所載の石井柏亭の批評には、「福田胤子女史の『行く春』が、顔色ものすごき女の、危うげなる膝に琴上せて、其鳴るも鳴らざるも問う処にあらず、足下に源氏の小本取り散らしたる狂乱姿、実に有難き理想画なる」となっており、言外に理想画を得意とした青木との合作であることを匂わせている。 府中市美術館の図録によると、青木がこの画の構図はそのままで大胆な加筆を加えたことは、資料調査と紫外線撮影で明らかになっているとのことである。しかしこの加筆は展覧会出品後のことであったのかもしれない。画の右上隅の署名は、「S. AWOKI 1906」となっているが、この署名を入れたまま福田たねが展覧会に出品したはずはないからである。明治38年の8月には一子幸彦(後の福田蘭堂)が出生しており、一家は栃木県に寄寓しているが、この頃に青木が大胆な加筆を行ったのではあるまいか。 共通の友人であった坂本繁二郎は、「だいたい青木君は才気にまかせてひとの絵に手を加えるくせがありました。他人の絵の、もたもたした感じがいらだたしかったのだと思います。普通なら傍若無人、許しがたい行為ですが、とにかく藝術の鬼のような風貌と自信たっぷりの迫力に押されて、おとなしい連中は迷惑しても公然と歯向かう者はいませんでした。一番の被害者は福田たね君で、どこまでが自分の絵だかわからぬほどぬりかえられておりました」と述べている。 しかしながら、福田たねは、この画を生涯手許に置いておいたという。彼女にとって青春の記念碑的な作品であったことには間違いない。 【参考文献】 中島美千代:青木繁と画の中の女.TBSブリタニカ、1998.12美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2007-07-19 23:52
| 国内アート
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