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今回の吉田博展の出品作は、通期115点、前期66点、後期66点と多数であるが、ここでは通期・前期出展作に限って述べる。
【展覧会の構成】 第1章「不同舎の時代 1894-1899」第1章「不同舎の時代 1894-1899」 吉田博は、明治9年久留米市の上田家に生まれたが、幼少時から画才に恵まれ、地元の洋画家・吉田嘉三郎家に養子入りした。 明治26年に京都で田村宗立の明治画学館、次いで明治27年に東京で小山正太郎の画塾・不同舎に入門した。 この章でのお気に入りは、以下の3点。 ・《花のある風景》明治27年以前? 水彩 郡山市美術館 明治29年に東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田清輝と久米桂一郎らの「新派」が教授となって、その門下生の岡田三郎助や和田栄作が国費留学生としてフランスに留学するようになったが、「旧派」の中心だった不同社の若い面々には国費留学の機会は望むべくもなかった。 吉田博は、このためフランスではなくアメリカを留学先に選んだ。明治32年、借金で調達した片道切符と一か月分の生活費、それに描きためた水彩画を抱えた博は、不同舎の友人・中川八郎とともに渡米した。二人はサンフランシスコからデトロイトに直行した。横浜で東洋美術の収集家チャールズ・フリーアから紹介状をもらっていたからである。 頼みのフーリアには旅行中のため会えなかったが、訪れたデトロイト美術館でグリフィス館長に見せた自作が絶賛され、急遽同館で展覧会を行うことになった。作品は売れに売れて、いきなり当時の小学校教員の給与13年分を売り上げるという大成功を果たした。その後、ボストンで開いた展覧会も成功し、金持ちになった二人はヨーロッパへの旅に出発した。 博と中川はロンドン、パリ、ドイツ、スイス、イタリアを回って、一旦米国に戻り、明治34年7月、二人は1年9ヶ月ぶりに日本に帰国した。 久々の日本で、博らは白馬会の勢いに押されて停滞したいた明治美術会の改革に乗り出した。若手を会の中心にすえ、名称を「太平洋画会」と改めた。欧州ではなく太平洋を越えたアメリカで成功を掴んだ博が命名したのである。 明治36年12月には、16歳の義妹・ふじをを伴って再渡米し、「兄妹展」を次々と成功させ、米国のみならず欧洲(イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、モロッコ、エジプト)を回って、日本に帰国したのは明治40年2月であった。 本章でのお気に入り作品は以下の4点。 ・《街道風景》明治35年 水彩 個人 黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片きれとをながめていた。すると、 「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。 「兄さんとは……」 「この絵は兄さんのほうでしょう」 「だれの?」 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。 「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。 「違うんですか」 「一人と思っていらしったの」 「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、 「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。 畳一畳ほどの大きな画がある。其画は肖像画である。そうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別出来ないほど光線を受けていない中に、顔ばかり白い。顔は痩せて、頬の肉が落ちている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-07-10 22:43
| 近代日本美術
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