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これは、ザ・プロファイラー「“森羅万象”に挑んだ天才画家~葛飾北斎~」@NHK BS プレミアム のメモ。
2017年1月5日に初回放送されたこの1時間番組の再放送を、本日2017年2月2日に聴いた。 【司会】岡田准一、【ゲスト】いとうせいこう、大宮エリー、しりあがり寿で、番組中この4人の議論が沸騰してなかなか面白かった。 去年10月、オランダから驚きのニュースが届いた。今から190年前にシーボルトが日本から持ち帰った6枚の絵画はこれまで作者不明とされてきたが、北斎の西洋画ではないかと言われている。 ディオールのドレス(↓)やアニメなどの現代アートにも影響を与えている。 北斎の手掛けた作品は3万点ともいわれている。役者絵、美人画、風景画、歴史物語や妖怪など多種多様なテーマに挑んだ画家はいない。 また、海外に流出していた北斎の幻の傑作「隅田川両岸景色図鑑」が、2008年に100年ぶりに発見された。これは北斎が描いた絵巻物としては最も長いおよそ7メートルの大作で、昨年開館した隅田北斎美術館に展示されている。 2.30代での勝川派からの独立 北斎は、1760年東京都墨田区で誕生。幼いころから、ありとあらゆるものを書いていた。 10代の頃、絵を描きたかった北斎は、貸本屋の使いっ走りになり、空いた時間に本の挿絵を模写した。そして版画の彫り師の見習いもし、絵を学び続けた。 1778年、19歳の時、名門勝川派に弟子入り。当時、勝川派は、役者絵で新風を巻き起こしていた。 1779年、勝川春朗の名でデビュー。デビュー作は「岩井半四郎のかしく」。 その後、幕府御用達の狩野派や、朝廷お抱えの土佐派からも教えを乞われることになり、兄弟子から反感を買って絵を破られてしまうこともあった。 このような嫌がらせに耐えながら、北斎は次々と作品を世に送り出していった。 しかし、30代半ばでとうとう勝川派を去ることとなった。 師匠や兄弟子が活躍していたので、同じ役者絵のジャンルでは評価されにくく、いろんなテーマを描くことによって、新しい自分の活路を見出していこうとしたのかもしれない。 この点についての【司会】や【ゲスト】の意見は次の通りである。 独立後、暮らしは激変した。画の仕事だけでは食べていけなくなり、日銭を稼ぐために唐辛子を売り歩くまでになった。 ところが、北斎の才能を早くから見出していた大手版元の蔦谷重三郎の元で、「狂歌絵本」を手掛けることになった。 北斎はこの狂歌絵本に新風を吹き込んだ。風景と人物が一体となった繊細な描写で絵の魅力を前面に押し出した。北斎が描いた女性は上品で、ほっそりとしていた。 この成功で、フリーの画家として生きていくこととなった39歳の北斎は、1798年「北斎辰政」と名乗った。「北辰」とは北極星のことで、全ての星の中心である北極星と自分が、それぞれの世界の中心となるという願いが込められていた。 40歳を越えても北斎は自信をもって狂歌絵本に取り組んでいたが、そこに時代の荒波が押し寄せた。 飢饉などで財政が厳しくなった幕府が、庶民たちにも質素倹約を求め、派手な色遣いの狂歌絵本も規制の対象になった。 この北斎の窮地を救ったのが「読本」だった。読本とは歴史や伝説を題材とした文章主体の物語であるが、北斎は滝沢馬琴という名パートナーに巡り合い、大ベストセラーになった「椿説夢張月」などの挿絵を描くことになった。 挿絵は、黒一色で表現しなければならないのであるが、北斎は、色がない分、墨の濃淡を使い分け、緻密な描写を心がけ、さらに物語の挿絵を今の漫画のようにディフォルメした。 しかし、この読本の仕事も長くは続かなかった。 ある日、馬琴は北斎に対し、主人公の立ち回りシーンについて「口に草履を加えながら、裾をまくりあげているところを描いてくれ」と指示した。これに対し、北斎は「きたねえ草履なんか、誰が口にくわえるものか、お前が草履を加えてみろ」と答えた。 この喧嘩きっかけに二人は決裂し、自分の実力に自信がついていた北斎は読本の世界から遠ざかった。馬琴の文章よりも自分の絵の方を重んじたのである。 しかし、すでに名前が売れている北斎には、次々と仕事が舞い込み、11代将軍・家斉の御前で描くことにもなった(参照)。 北斎は、長い紙を広げ青い線を一本引き、その上をニワトリの足に朱肉をつけ歩かせた。 そして北斎は「紅葉で名高い龍田川の風景でございます」と言上し、将軍は北斎を大いに褒めたたえたという。 55歳の時に描かれた「北斎漫画」は絵の手本として出版された。これは全15編に渡り、4000図が描かれている。ちなみに番組内でこの「北斎漫画」の現物が紹介された。 北斎の暮らしぶりは、背中を丸め、布団をかぶり、朝から晩まで絵を描いており、目がくらみ、腕が疲れると筆を置き、そのまま眠りについたと云う。 出前の料金を請求されると、貰っていた報酬を中身も視ずにそのまま払っており、稼いだお金は湯水のように出て行った。 いつも出前だったが、食べ残しはそのままで、結局ゴミ屋敷に住んでいたのだが、それでも絵の依頼を来た人には「人が北斎の館はどうだ」と聞いたら、「綺麗で立派なところだった」と答えてくれと言っていたが、結局はゴミでいっぱいになると引っ越すことになっていた。実に生涯で93回もの引っ越しを繰り返した。 この引っ越し癖には常に新しい生活空間に身を置きたいという考えもあったようで、常に、心機一転を求めて生活も画業も新しいものに切り替えていったようだ。 さらに画材にもこだわったため、手元にはお金が残らず借金を繰り返す生活でだった。 それでもお金に困った時の奥の手は、自らの画号を弟子に売ることだった。改名すること30回以上に及び、世間にその名を知らしめた北斎という画号そのものも売り渡していた。 名声をほしいままにしていた北斎だが、75歳の時の作品のあとがきには「70歳までに描いたものは、実に取るに足らぬものばかり」と書いている。 北斎はどうして70歳までの作品を否定したのだろうか。 40代後半で書いた《くだんうちがふち》は、西洋画の技術を取り入れた作品で、遠近法を使った空間の奥行きが使われ、深い陰影やそれまでの日本の絵にはなかった人物の影まで描かれている。 北斎は、こうした作品をすべて否定して、72歳で傑作を世に送り出した。それが「富嶽三十六景」である。 様々な場所から見える富士山を描いた。東は霞ケ浦から東は名古屋まで、70歳を越えた北斎が現地に赴いて描いたのである。 北斎が今まで培ってきた様々な表現、北斎らしい奇抜なアイデアがいたるところに盛り込まれている。これは北斎自身の集大成だった。富士山という大きく神々しい存在を、自分の筆力で支配したいといった気持ちがあったかもしれない。 北斎が富嶽三十六景を仕上げることができたのには画材の進歩もあった。 北斎が昔描いた海の絵は青がすぐにくすんでしまったが、西洋から輸入された「ベロ藍」という顔料が手に入り、波を生き生きと描けるようになった。 北斎が、「諸国瀧廻り」を描いたのは74歳の時である。北斎にとって「水」は、富士山と並ぶ重要なテーマだった。目には見えるけれども形として描きづらい「水」を自分の筆の力で描けるようになったのである。北斎は、これまで浮世絵では「人物」の背景でしかなかった「風景」を独立させ、風景画を浮世絵の代表的なジャンルとして確立させた。 5.ライバル広重の登場 しかし、その直後、北斎の人気はある男に奪われてしまう。北斎より37歳年下のライバル「歌川広重」である。 広重が発表した「東海道五十三次」は、江戸から京都まで旅した広重が、宿場町を描いた風景画だった。人々の暮らしや、四季の変化を写実的に描いたこの作品は、大ヒット。 東海道五十三次が発表された翌年、北斎は新しい作品を発表した。「富嶽百景」である。これは100を超える富士の姿を想像で描いたもので、実際に見た風景を描いた広重とは対照的だった。 この作品のあとがきに北斎は次のように記している。 「70歳までに書いたものは実に取るに足らぬものばかり。73歳でようやく動植物の骨格や生まれを知ることができた。80歳になれば、益々腕は上達し、90歳になれば、絵の奥義を極め、百歳に至っては神妙の域に達するだろう」 これに対する【司会】や【ゲスト】の意見は次の通りさまざまである。 晩年の北斎は、彫師、刷り師との共同作業である版画から離れ、肉筆画に専念した。 北斎の絵が、凄みを増していく。 小布施の上町祭り屋台の天井に描かれた「怒涛図」男浪・女浪 二面の激しくうなる二つの波は、その波しぶきを星に見立てて深遠な宇宙を表現したと言われる。 しかし、1849年、90歳の時息を引き取った。ただひたすらに描き続けた人生だった。 「あと十年、いや、せめて五年生かしてくれ。 そうすれば、真の絵描きになってみせる」 北斎が亡くなる3か月前に描いた「富士越龍図」。これは生涯最後の作品と言われている。 かつて描き尽した雄大な富士を、悠々と越える一匹の龍。常に高みを目指した北斎のように、真っすぐに天へと登っていく。 北斎の辞世の句は「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-02-02 20:25
| 浮世絵
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