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これは「松濤美術散歩」の第2報(第1報はこちら)である。
まず二階に置いてあった「古九谷展 展示解説シート」を椅子に座って熟読して、初期伊万里(↓左)と古九谷様式(↓右)の違いを勉強した。以下は、その要約である。 1. 初期伊万里から古九谷様式へ: 前者は伊万里焼の草創期(1610~40年代)、後者は技術革新期(1640~60年代)に焼かれたものである。このシートでは、それざれの代表作を一点ずつ取り上げて解説されていた。三つの展示室に分かれて展示されていたが、古九谷様式のものは第1展示室にまとめられていた。 以下は、その中でのお気に入りで、絵葉書を購入したもの。 ・色絵 瓜文 皿 伊万里(古九谷様式) ・染付 樹下群鶏文 手鉢 伊万里 「古九谷」の真のルーツが「肥前」なのか「加賀」なのかという点に関しては、戦前からの発掘調査の結果を基に前者の説が有力であるとされてきたが、1998年に、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。この「古九谷論争」については、2010年に衆議院で問題(参照)になるなど複雑な様相を呈している。 8月1日からステーション・ギャラリーで開かれる「九谷焼の系譜と展開」展で、この点についてさらに勉強したい。 美術散歩 管理人 とら 【追記】 石川県九谷焼美術館のページの概略 A 九谷焼の歴史 1.江戸時代前期: 九谷焼の誕生期。九谷焼は、大聖寺藩初代藩主・前田利治のもとで、1655年に作り始められた磁器。鉱山開発の最中に、領内の九谷村で磁器の原料となる陶石が発見されたことがきっかけとなり、伊万里焼で有名な有田(佐賀藩)の技術を導入して、九谷村に窯を築いて磁器の生産を始めた。この時期に作られた九谷焼は、後世「古九谷」と呼ばれ、その青手や色絵の美しい絵付けのスタイルとともに、磁器の職人や知識人たちの間で特別視される名作として、大切に受け伝えられてきた。この古九谷は制作開始からおよそ50年後に、突然生産が終わった。 2.江戸時代後期: 江戸時代後期は、古九谷の制作中止以来途絶えていた九谷焼の制作が復活し、さらには赤絵のスタイルが誕生した時期で、この時代に生まれた九谷焼は「再興九谷」と呼ばれている。加賀藩の城下町・金沢で、京都の磁器職人の技術指導によって磁器生産が再開された。この試みは短期間で終わるが、大聖寺の商人・吉田屋伝右衛門が青手古九谷の復活を強く願い、1824年、古九谷窯の隣に磁器制作のために「吉田屋窯」を築いた。この窯はその後山代地区に移されたが、1831年に経営不振で閉鎖された。山代の「吉田屋窯」は閉鎖直後、現場の支配人・宮本屋宇右衛門に引き継がれ「宮本屋窯」として再開された。宮本屋窯は、加賀藩の磁器の影響などから、赤絵のスタイルを採用し、絵付け職人・飯田屋八郎右衛門の緻密な赤絵が好評を得て、20年以上操業を続けた。吉田屋窯の閉鎖で衰えた青手の九谷焼制作は1848年、大聖寺藩が新たに築いた「松山窯」で再び盛んになった。 3.明治時代~昭和時代前期: 「窯元の中の一職人」が「美術工芸品の作家」として自立し、明治政府の産業振興により、九谷焼の輸出産業が盛んになった時期。彼らの中から、絵付け技術の指導的立場で次世代の作家をリードした「竹内吟秋・浅井一毫兄弟」や、北大路魯山人に陶芸を教えた「初代須田青華」などの名工が輩出した。一方で、旧加賀藩の職人たちは、輸出産業に活路を見出し、金彩をふんだんに施した赤絵の九谷焼を中心に、欧米向けの作品を数多く生産しました。彼らの中心となったのが、赤絵と金彩による精密な色絵付けで名高い「九谷尚三」である。 4.昭和時代後期~現代: 伝統的な美術工芸品としてのブランドを確立した九谷焼が、現代芸術の要素を取り入れて、「工芸品」の枠を超えた「美術品」として制作され、新たなライフスタイルにあわせた多種多様なデザインの器が生み出されるようになった時期。加賀市では、伝統的な色絵の技法をもとに、中近東のエキゾチックなデザインや彫刻による飾り付けなどを取り入れて独自の作風を築いた「北出塔次郎・不二雄親子」が現代九谷焼作家をリードした。小松市では、色絵の具のグラデーションによる鮮やかな絵付けを完成させた「三代徳田八十吉」や、金の飾り付けを釉薬でコーティングすることにより上品な輝きを放つ作品に仕上げた「吉田美統」が「人間国宝」の認定を受けた。 B 九谷焼の絵付け様式 1.青手: 緑の色絵の具で絵付けされたスタイル。素地の余白をほとんど余すことなく、器全体に色絵の具を塗り埋めすることも、青手の特徴。青手は、「古九谷」、「再興九谷」の「吉田屋窯」・「松山窯」などで名品が生み出されており、九谷焼を代表する絵付けである。 2.色絵 (五彩手): 緑・黄・紫・紺青・赤の「五彩」の絵の具を活用して、絵付けされたスタイル。器の中央に、作品のモチーフ、とくに中国風の人物・動物・山水を絵画的・写実的に描くことも、色絵(五彩手)の特徴。 3.赤絵 (金襴手): にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かして、器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイル。赤のほかに、金で彩られた作品が多いことも、赤絵の特徴。背景を赤で塗り埋めた器に、金で絵付けしたスタイルは、赤絵のなかでも特に「金襴手」と呼ばれる。九谷焼の赤絵は、京焼の青木木米の指導により金沢の「春日山窯」で制作された作品がもととなり、「宮本屋窯」の飯田屋八郎右衛門が細描の様式を確立して、近現代の赤絵作品のルーツとなった。 【参考】 YouTube: 中島誠之助「古九谷の謎」
by cardiacsurgery
| 2015-07-12 14:17
| 国内アート
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