記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
橘小夢(さゆめ): 注目の怪奇幻想画家。 版画では《嫉妬》、《刺青》、《水魔》、《沢村田之助》、《小夜福子》、挿絵では、十一谷義三郎「唐人沖お吉」の挿絵など、お気に入り多数。自分にこんな倒錯趣味があったかな?次に遭遇した橘小夢の作品は、2011年7月に東京国際フォーラムで開かれた「ART FAIR TOKYO 2011」で見た《芍薬の歌》である(ブログ記事はこちら)。 今回の「日本の妖美 橘小夢展」に関しては、弥生美術館のHPは次のように紹介している。 橘小夢の作品のうち、初期の肉筆画は、あまり公開されたことがありません。なぜなら大正12年、31歳の時に小夢は関東大震災に遭遇し、作品の多くを焼失したからです。しかし、郷里の秋田県で数点確認され、ご紹介できることになりました。若き日の瑞々しい感受性にあふれた作品を含む総数約200点の作品により、橘小夢の妖しく幻想的な世界を堪能いただきます。すなわちこの画家の久しぶりの回顧展なのであるが、残念ながら約200点の「展示作品リスト」は館内にはなく、HPにも載っていない。 そこで、自分でメモを取りながら鑑賞していったが、壁面展示の作品はほとんど網羅できたものの、中央のガラスケース展示の挿絵・カット・装幀などについてはすべての作品のメモを取る余力は残っていなかった。 会場には、図録と画集が置いてあったので、帰りに図録を買ってきたが、この中にも今回の展示作品のすべてが収録されているわけではなかった。 (伝説・神話・破戒僧をテーマとした作品): 《玉藻前》5点↓、《唐人お吉》2点、《八百屋お七》、《お蝶夫人》2点、《日本武尊》2点、《お玉が池》、《振袖火事》2点、《柳の前・感応丸》2点、《お浦・伊之助》、《吉祥天に恋した僧》、《安珍清姫》、《破戒》、《高野聖》 (幻想・怪異・情念をテーマとした作品): 《嫉妬》2点↓、《海の幻想》、《旅姿》(初公開)、《佐賀の化け猫》、《梅若塚》5点、《若菜姫》、《艶笑》(初公開、「雨月物語・蛇性の淫」より)、《花魁》(初公開)↓、《水妖》、《水魔》2点↓↓、《摂政関白行状記》(初公開)、《牡丹燈籠画譜》9点、《刺青》、《押絵と旅する男》↓↓↓、《鏡地獄》
江戸川乱歩「押絵と旅する男」より。 《地獄太夫》↓↓↓
(初期の作品): 《花菖蒲》、《紫陽花》、《木通》、《雉》、《白い芍薬》、《赤い芍薬》、《火桶》(初公開) (日本画構想図): 《夕顔》、《紫式部妄語地獄》、《ガラシャ昇天》、《軍荼羅明王》、《清玄と白菊丸》 (木版画): 《中村もしほ》、《やよいひばり》、《澤村田之助》↓ 橘小夢、本名・加藤凞、は先天性心疾患を有していたが、ここでその「病名」について考えてみたい。中村圭子編「橘小夢 幻の画家 謎の生涯を解く」を通読すると、橘小夢の心臓病の病名の参考になる記載がいくつかあった。 ・加藤凞「幻影」川端画学校出版部『天眞』第2巻第2号: かるたの読み手にされた彼は、常からの弱い身体は、声が出なくなったばかりか、道の二、三里も休みなく後のように疲れてしまって、ダクダクと波打つ心臓をおさえながら、横になった。(中略) しんとした闇の中に、只、彼の心臓ばかりが、大波が動いているようにダクダクと鳴って、いつまでも静まらなかった。彼は、身じろぎもせず両手を胸の上にあてたまま、「胸が静まればいい、一分でも早く安らかな眠りに入りたい」というような気持ちで、じっと仰向きになったまま、目をとじてみたが心臓はいつやむこともなく大波をよせ、耳までがいやに、電話機でもあてている時のように風の音をおこして、どうしても眠ることは出来なかった。 ・長男・加藤眞彦: 幼少期には、病弱さゆえに、家にこもり、民話伝説の世界に傾倒していった。小夢が一時画壇から姿を慶したのも、心臓疾患の悪化による。 ・次女・設楽鏡子: 駅の階段をのぼってホームにたどり着くと、唇が紫色になってしゃがみこんだ。 ・長男の妻・加藤美智江: 時々心臓病の発作に見舞われることがあった。その時には、右手人差し指と中指で左手首を押さえじっと置時計の秒針を睨み脈を計っていた。緊急時用に常備してあった救心や六神丸を様子を見ながら飲んだ。「幼いころ、ひろちゃんの寿命は20歳までと云われていた」と義父が話していた。義父の発作の原因はわからず、治すには手術しか方法はないのですが、しかし昭和40年頃の日本では心臓手術成功例は少なく大変危険を伴いました。義父は「入院したら私は帰ってこれないだろう。私の最期は畳の上と決めています、どんなに苦しくても耐えるから入院させないで」と云っていた。 以上の複数の証言から、(↓)のような推定が成り立つのではなかろうか。
by cardiacsurgery
| 2015-05-19 14:52
| 近代日本美術
|
ファン申請 |
||