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・1997年 《題名忘却》 プーシキン美術館所蔵「イタリア・バロック絵画展」@東京都庭園美術館グエルチーノは、カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕を開けられたバロック美術を発展させ、一方ではアカデミック絵画の基礎を築いた一人だったが、19世紀半ばには忘れられていた。しかし、20世紀半ば以降になって、イタリアを中心に再評価されてきている。今回は「わが国初のグエルチーノ展」ということである。 作品の多くはチェント市立絵画館からの出品である。チェントは2012年5月20日に地震に襲われ、倒壊を恐れた消防士が幸いにも無傷だった絵画を運びだしたが、絵画館はいまもって閉館したままということである。 本展の収益の一部は絵画館の復興に充てられるということである。折しも、東京国立博物館では、 東日本大震災で被害を受けた作品の修復展が開催中である。このような自然災害に対して、世界の美術愛好家を含む美術関係者が助け合うことは、極めて有意義なことである。(展示リストはこちら) 序: 画家グエルチーノ グエルチーノ はボローニャ近郊の小都市チェントに 生まれ、ローマに一年半ほど滞在したほかは、生涯をチェントとボローニャで過ごした画家である。 17世紀の ボローニャはイタリア美術の中心地のひとつであり、「ボローニャ派」 と呼ばれる画家たちが活動していた。グエルチーノはその代表的な存在である。 彼はボローニャのカラッチ一族やフェッラーラの美術を参考に、ほぼ独学で絵画を学んだとのことである。初期の作品はドラマチックな明暗と色彩、それに力強い自然主義を見せているが、ローマ滞在 (1621‐23年) を境に、落ち着きのある構図と理想的で明快な形態を持つ画風に変化していった。 彼はチェントとボローニャを主な拠点として、多くの君主や有力貴族の注文に応え、ローマ滞在中には、教皇や枢機卿に依頼されてサン・ピエトロ寺院などの重要な建物に作品を描いた。その名声はヨーロッパ中に届き、辞退したために実現しなかったものの、イギリス国王チャールズ1世およびフランス国王ルイ13世らからは、その宮廷に招聘されている。 また、1629年にはイタリアを旅行中だったスペインの宮廷画家ベラスケスが、わざわざチェントにグエルチーノを訪問している。 ゲーテは彼の作品を見るためにわざわざチェントを訪れ、その折の感動を 「イタリア紀行」に記しており、スタンダールもグエルチーノを高く評価する記述を残しているとのことである。 展覧会は、下のような5章立て。会場では、作品の背景のパネルの色彩が、章ごとに「青」または「赤」になっていたので分かりやすかった。 Ⅰ.名声を求めて 1591年~ 作品#01-10Ⅰ.名声を求めて(画風の形成期 1591年~ 作品#01-10) グエルチーノは生地チェントでほぼ独学で画家としての修業を行い、自らの画風を形成していった。その際、グエルチーノはカラッチ一族の写生に基づく制作法に影響を受けており、またベネチア絵画と明るい色彩を共有するフェッラーラの美術作品を参考にしている。 #01 ルドヴィコ・カラッチ 《聖母子と聖人たち》1591年 油彩/カンヴァス 225×166cm チェント市立絵画館: この祭壇画は、ルドヴィコ・カラッチがチェントのカップチーニ聖堂内のピオンビーニ礼拝堂に描いたものであるが、初期バロック美術の傑作であるばかりでなく、グエルチーノに決定的な影響を与えた作品である。 幼子イエスは聖母マリアの膝の上で左足を前に出して歩こうとしている。下部に描かれた人物は、左から右に向かって、注文主のピオンビーニ、聖フランチェスコ、聖ヨセフ(イタリア語では注文主と同じ名前)、注文主の親族夫婦。 小都市チェントで独自の自然主義的な画風を成熟させたグエルチーノの名は、近隣にも届くようになり、1617年にはボローニャの枢機卿アレッサンドロ・ルドヴィージに呼ばれボローニャに滞在して、作品を制作した。 グエルチーノは、17年の年末以降はチェントに戻って多数の作品を制作したが、これらの多くは、揺らめくような光によって人体が空間の中に溶け込んでいるドラマチックな「宗教画」であって、「対抗宗教改革」を推進しているカトリック教会にとっては都合の良い作品だった。 展示作品はこの時代の宗教画の特徴を表わしている。聖人を介抱する聖女 や 聖像崇拝、あるいは 教会の正統性を表す図像は「対抗宗教改革」の運動のなかで、教会の教えと合致していた。 #13 グエルチーノ《ロレートの聖母を礼拝する聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》1618年 油彩/カンヴァス 239×149cm チェント市立絵画館: 天使の持つ赤いカーテンの影が聖母子に落ちており、聖母マリアの真っ白な衣に注ぐ明るい光と見事な対照をなしている。右側の聖フランチェスコの両手には聖痕が描かれている。 Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い(ローマ滞在と画風の変容 1621年~ 作品#23-27) 1621年2月9日、ボローニャでグエルチーノを重用したアレッサンドロ・ルドヴィージが教皇に選ばれ、グレゴリウス15世となった。同年の夏、彼と甥の枢機卿ルドヴィコ・ルドヴィージはグエルチーノをローマに呼び寄せた。 ローマではルドヴィコの邸の一角にあったヴィラ、カジーノ・ルドヴィージ Casino Ludovisi の天井装飾(今回は一階の《アウロラ Aurora》↓と二階の《名声の寓意》がパネル表示されていた)、サン・ピエトロ大聖堂のための祭壇画 《聖ペトロニラの殉教と昇天》↓↓ などの大作を描いたほか、教皇の肖像画も手掛けた。 1623年7月に教皇が亡くなると、グエルチーノはローマからチェントに戻り、ピアチェンツァ大聖堂の天井画↓なども描いた。1620年代を通じて彼の作品の構図や形態は次第に明瞭になっていった。 #27 グエルチーノ 《聖母のもとに現れる復活したキリスト》1628-30年 油彩/カンヴァス 260×179.5cm チェント市立絵画館: 聖書には描かれていないテーマだが、北イタリアでは人気があった。ゲーテもこの画を称賛したとのこと。この部屋は「青」の部屋であるが、隣の「赤」の部屋からも見られるようになっていた。 今回の展覧会には、ボローニャのグイド・レーニ (1575-1642年) の作品が2点展示されていた。写実にこだわらず、天からの啓示による理想美を追求したレーニの優美な絵画を、この時期のグエルチーノは強く意識していた。グエルチーノは、レーニが歿すると、直ちにボローニャへ移住して、この町の重要な注文を数多く引き受けた。 #31 グイド・レーニ 《ルクレティア》1644年頃 ボローニャ、ウニクレヂット銀行: 短刀や胸の傷を描いた部分は切り取られてしまっている。当時のコレクターは残酷な画を好まなかったためである。 1630年代半ばには、グエルチーノ の作風は古典主義的なものとなった。初期の自然主義的で光の効果を駆使したドラマチックな表現は影をひそめ、代わって画面には明るい光を当てられた理想的な人体像が、調和と均衡を保って配置されるようになった。ここでは、グエルチーノの後期の「女性像」と「宗教画」が展示されていた。 #41 グエルチーノ《説教する洗礼者聖ヨハネ》1650年 油彩/カンヴァス 321×196.5cm チェント市立絵画館: チェントの聖堂の注文主の礼拝堂に置かれていた。 #42 グエルチーノ《ゴリアテの首を持つダヴィデ》1650年頃 油彩/カンヴァス 120.5×102cm 国立西洋美術館: ダヴィデは天を仰いで勝利の神に感謝している。 お勧めします。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2015-03-04 23:49
| バロック
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