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「スラヴ叙事詩」は、最大6mx 8mに達する画面の大きさを有する20面の油彩画シリーズで、スラヴ人とその文明の歴史を描いたものである。ミュシャは、このシリーズをすべてのスラヴ人の記念碑ととらえ、芸術家としての自分の後半生をこの制作に捧げた。
この作品の構想が生れたのは1899 年のこと。当時のミュシャは、1900 年のパリの万国博覧会に際して、オーストリア・ハンガリー帝国政府から委託されたボスニア‐ヘルツェゴヴィナ館の内装デザインを考えていた。第1次大戦でオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、チェコスロバキア共和国が独立する。画家ミュシャと支援者クレーンは、1928 年、国の独立10周年記念日にあたり「スラヴ叙事詩」シリーズ全面をプラハ市に寄贈した。 しかし、ナチス・ドイツの干渉にさらされた祖国は1939年に解体される。ミュシャはナチスの秘密警察に捕らえられ、厳しい尋問を受け、釈放されたものの体調を崩して間もなく死去した。 ミュシャの思想は冷戦時代、共産主義イデオロギーと相反するものとされ、作品も無視されていた。「スラヴ叙事詩」全20面の画像はこちらで見られる。 1.《原故郷のスラヴ民族》: トルコ民族の鞭とゲルマン民族の剣の間で(歴史4-6世紀)(制作1912年) この画の手前に描かれたブッシュに隠れている二人連れは、地平線に見える自分たちの村の焼き討ちから逃げてきたところである。右上部に描かれた異教の宗教者は戦争と平和を象徴する二人の若者に付き添われており、戦争を通じて独立を獲得した暁には平和と自由がもたらされることを予言している。 2.《スヴァントヴィットの祝祭》: 神は戦い、救済は芸術なり(歴史8-10世紀) (制作1912年) 8-10世紀には、スラヴ民族は西方に拡大し、現在はドイツのリューゲン島となっている場所にアルコナ市を建設し、スラヴの異教の神スヴァントヴィットを祀る寺院を造った。ここには、スペインなど遠方から巡礼者がやってきて、秋の収穫祭を祝った。1168年に、デーン人が この島を襲い、寺院を破壊した。 バルチック地方がゲルマンの支配下に入ると、スヴァントヴィットはバルチック・スラヴの過去の繁栄のシンボルとなった。 ミュシャは、寺院自体よりも、キャンバスの下3分の1に白い衣装を着た祭りへの巡礼者を描いている。彼らは、狼を先導にしてやってくる敵と戦っている神のことなどすっかり忘れている。不吉な色の空が太陽の光に満ちた地上と対照的で、子供を抱いた若い母親だけが迫るくる街の崩壊を恐れるかのようにこちらに心配そうなまなざしを投げかけている。 3.《スラヴ式典礼の導入》: 母なる言語による主の称賛(歴史810年)(制作1912年) ミュシャは、メトディオスがローマから大モラヴィアに凱旋したところを描いている。髭のあるメトディオスと二人の従者は画面左方に描かれている。ロスティスラフ公の後を継いだスヴァトプラク公は右端の玉座に坐り、法王の手紙を読んでいる司祭の声を聞いている。画の右上方には、キリスト教をスラヴ語で広めた統治者たちが描かれている。ブルガリアのボリス公夫妻とロシアのイゴール公夫妻である。前景の若者は左拳を握り、右手に環を持っているが、これはスラヴ民族の団結を象徴している。 4.《ブルガリアの皇帝シメオン》: スラヴ文学の大空に輝く明星(歴史10世紀初め)(制作1923年) モラヴィアの大司教メトディオスが亡くなった後、スヴァトプラク公は新しい聖書の翻訳作業への援助を止め、翻訳者たちをモラヴィアから追放した。これに対して、ブルガリア皇帝のシメオンは、ビザンチン文学を好んだ学識深い指導者であり、彼らに避難場所を与え、翻訳作業を続けるよう激励した。 ミュシャは、これらの追放されたスラヴ語祈祷書を書き継ぐ者たちを、聖堂を飾るビザンチン壁画の中に描き込んでいる。画の中央にはシメオン皇帝を描き、前景には皇帝が語りかける学者たちを入れ、教会や宮廷の公的なメンバーは後景に押し込んでいる。 5.《プシェミル・オタカル2世》: スラヴ諸王朝の統一(歴史1261年)(制作1924年) プシェミル・オタカル2世は、1253 ‐78年の間、ボヘミアを支配した。彼は、軍事力から「鉄の王」と呼ばれ、また銀鉱山で蓄積した財産によって「金の王」とも呼ばれていた。彼は、13世紀において、スラヴィア・ボヘミア間の平和的関係を将来にわたって確実なものとした。 自分の姪・ブランデンブルグのクンフタとハンガリー王ベラ4世の息子との婚姻の際には、プシェミルはスラヴの支配者たちを招いて出席者たちの永続的な同盟関係を固めていた。 ミュシャは、プシェミル・オタカル2世が結婚式への招待客を迎える場面を描いている。礼拝堂の中に作られた豪華なテントの中央に王は立ち、二人の招待客と握手して、親密の情を表している。 6.《東ローマ皇帝としてのステファン・ドウシャンの戴冠》: スラヴ法典の施行(歴史1346年)(制作1926年) ステファン・ドウシャンは、1300年代にスラヴの領土を拡大し、帝国内全土に通用する法典を整備した。 1346年には、ビザンチン帝国に対して連続的な軍事的勝利を収め、マケドニアのスコピエでセルビアとギリシャの王位についた。 ミュシャは、この皇帝戴冠後の行進を描いている。ドウシャンは行列の中央に立ち、両脇の男が帝服を持っている。更新の先頭の若い女性はセルビアの民俗衣装を着けている。これは若い年代の者は汎セルビアな理想を持つというミュシャの信念を表している。 7.《クロミジャージュのヤン・ミリーチ》: 修道院となった売春宿(歴史1372年) (制作1916年) クロミジャージュのヤン・ミリーチは若いが学識のある神学者で、カルル4世の教会と宮廷で責任ある地位に就いていた。聖職者たちの不道徳とふしだらに恐れおののき、ミリッチは役職を辞し、自らの人生を街の貧民に捧げ、教会の罪を指摘する説教を行った。彼の道徳的教育の結果、1372年には、多くの売春婦が悔悛して病めるものや貧しき者へ献身するようになった。 カレル4世や何人もの市民に寄付によって、ミリーチは避難所を作り、聖マグダラのマリアを奉じる礼拝堂・修道院を設立した。 ミュシャが描いたのは、悔悛した売春婦の避難所の建設場面である。伸びた白髭のミリーチが青い衣に身を包み、足場の上から説教を行っている。悔悛した女性たちは、自分の宝石と新たな清純を意味する白の衣服とを交換している。前景の赤い服装の女性は噂話を禁じるための猿ぐつわをかまされている。 8.《ベツレヘム教会で説教するヤン・フス》: 真理は勝利する(歴史1412年)(制作1916年) ミュシャは、1412年、プラハのベツレヘム教会で説教し聴衆を魅了しているフスの姿を描いている。将来フス戦争の軍事指導者となるヤン・ジシュカ が左の壁際に立ち、ヴァクラフ4世の妻であるソフィア女王が赤い天蓋の下で、両側の侍女に付き添われて、熱心に聴いている。 9.《クジージュキの集会》: 聖体拝領は両者とも(歴史1419年)(制作1916年) 火刑の後ヤン・フスはカトリック教会の不道徳な行為に対するチェコ人の戦いの象徴となった。ローマ教皇の規則に背くチェコ聖職者の数は次第に増え、チェコの言葉で説教を行うようになった。彼らは教皇からは異端者とされ、コンスタンツ公会議は彼らを教区から追放すべきであると命じた。彼らの教育を中止するため、プラハのカレル大学も閉鎖された。その結果、暴動が起こり、フス派の者たちは市の城壁外の遠隔地に集結し、反乱の準備を始めた。 ミュシャが描いたのは、1419年9月30日にプラハ南方のクジージュキで行われたもっとも重要な集会である。急進派牧師コランダは、フス派の者たちに信仰を守るために武器を取るよう呼びかけた。彼は急場しのぎの説教壇に立って祈り、クジージュキに到着したフス派の群集に対峙した。上空の暗さは、フス戦争の勃発が近いことを表している。 10.《グリュンヴァルドの戦いが終り》: 北スラヴ人たちの団結(歴史1410年)(制作1924年) ミュシャは、朝の戦闘場面を描いている。ポーランド王ヴワディスワフは人体の散乱する戦場の中央に立ち、恐怖に満ちた顔を隠している。彼の国は解放されたが、その自由には多大の犠牲を伴ったのである。 ミュシャ《スラヴ叙事詩》概説 その2はこちら。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2013-03-23 22:43
| 国外アート
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