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はじめに:
Olga’s Galleryという有名な美術サイトがある。その中にはもちろんカンディンスキーの項目もある。そこに、この画家の伝記の附記として「ワシリー・カンディンスキーの三人の妻」というタイトルのニュースレターが2003年5月5日の日付で載っている。 最初の妻アーニャ(またはアンナ)、愛人のガブリエル・ミュンター、最後の妻のニーナがこの三人である。読み出すととても面白い。そこで和訳してここにアップすることにした。そして、ちょっとしたコメントを赤字で追加した。 1.アーニャ(またはアンナ)・チミアキン: カンディンスキーは30歳代になってから美術の世界に入ってきた。彼は、ロシアにおける学者としてのキャリアを捨てて、妻のアーニャ・チミアキン(Anya (Anna) Chimiakina)を連れてドイツにやってきた。 アーニャはカンディンスキーの6歳年上の従姉妹だったが、当時としては、特別な女性だった。アーニャはモスクワ大学に入学した最初の女性の一人だった。カンディンスキーは、このモスクワ大学で講師をしていたのである。アーニャの画像を探してみたが、見つからなかった。 彼女が美術を嫌っていたかどうかは分からないが、美術を愛好することと画家と結婚することとはまったく違うことがらである。 アーニャが結婚したのは、弁護士という尊敬されている職業の男性であって、ボヘミアンのような環境にあこがれていたからではなかった。 しかしアーニャは、嫌々ながら夫に従ってミュンヘンに赴いたが、7年後に別居し、1911年に正式に離婚した。 2.ガブリエル・ミュンター: この頃までに、カンディンスキーは別な女性と知り合いになっていた。 ガブリエル・ミュンター(Gabriele Münter)というドイツ人画家である。二人が知り合ったのは、ミュンターが新設されたファランクス画学校(Phalanx Art school)に入学した1901年である。当時、州立アートアカデミーは女性の入学を許していなかったからである。 ファランクス画学校は一年しか続かなかったが、ガブリエルは生徒としてカンディンスキーの許に留まり、二人は親密になっていった。 1904年に、カンディンスキーが妻と別居するや、二人は同棲しだした。20世紀初めの若い女性としては、既婚の男性と同棲することは非常に大胆な行為だった。このことはボヘミアン社会ではある程度認められていたが、二人の出自のブルジョワ社会ではまったく許容されないことであった。 しかし当時の二人はそのようなことは問題にせず、愛に陥っていた。カンディンスキーの画のジャンルとしては肖像画はないが、その唯一の例外はガブリエルの肖像画(→)である。1905年に描かれた彼女の肖像画を見ると、大きな目をもってはいるが、鼻が大きくてあごが小さく、唇が薄くて額が広いため、必ずしも美人とはいいがたい。 彼女はアーティストが夢見るような女性だったのだろうか? 彼女自身がアーティストであり、勇敢で野心的であったが、それでも彼女は思慮深く、判断力のある、恋する女性であった。彼女にとって不運なことに、カンディンスキーに対するこの情熱的な愛が、永い年月にわたって彼女を不幸にすることになる。 1904年には、二人はヨーロッパや北アフリカを旅し、1908年になってミュンヘンに戻って落ち着くことになる。ガブリエルはババリア・アルプスのムルナウ(Murnau)に一軒のカントリー・ハウスを購入し、夏の間そこに滞在した。この家は、二人が齢とって引退した時の家としても考えられていた。カンディンスキーはインテリアの簡単な家具をもっていたが、その一部に自分で花や騎手などの装飾をほどこした。 余計なことだが、このような長期旅行の費用はどうしたのだろうか。現在でも、フランスにはこの時代のカンディンスキーの作品が個人蔵として残っているそうだから、売り食いしながら旅を続けていたのかもしれない。しかし、ムルナウの家はカンディンスキーが勧めて、ガブリエルが買ったことになっているが、この支払いはガブリエルの親の遺産によるものだろう。ガブリエルの父親はアメリカから逆移民したドイツ人貿易商であったが、両親ともに早世したとのことである。 ガブリエルは、正式にはカンディンスキーの生徒であったが、画に対しては自分自身の考え方やスタイルを持っていた。こういった彼女の画風がカンディンスキーの画風に多大な影響を与えていたようであるが、そのことがカンディンスキーのガブリエルに対する苛立ちの原因となっていたのかもしれない。時が経つにつれて、二人の関係は次第に複雑になっていき、ある日カンディンスキーがガブリエルに求婚したと思えば、別の日にはすぐに別居すると云いだす始末であった。 一般に、愛について何が起るか、どういう結末となるのか、だれが予測できようか? 彼女が先生を尊敬している生徒である間は、カンディンスキーにとって彼女は元気のもととなるミューズだった。しかし一旦、彼女がカンディンスキーからの独立を志向して、自分自身のスタイルを発展させ、彼女が彼の遣り方に従わないだけでなく、恐らくカンディンスキー自身のスタイルにまで影響を与えだすと、彼女はカンディンスキーの苛立ちの種となった。 第一次世界大戦の勃発はカンディンスキーにとってガブリエルと分かれる絶好の口実となった。初めは一緒にドイツを離れたが、カンディンスキーはすぐにモスクワに戻っていったので、ガブリエルはミュンヘンに帰ってこざるを得なかった。ただ文通は続いており、ガブリエルは何通もの手紙をカンディンスキー宛に書いた。二人が最後に会ったのは、1915年12月、ストックホルムにおいてであった。二人の文通自体はさらに1年間続くが、その後二人は会うことがなかった。カンディンスキーにとっては、ガブリエルはすでに過去の人であったが、ガブリエルはカンディンスキーに対する痛惜で破滅的な熱情を抑えることができなかった。 1916年9月、50歳になったカンディンスキーは新しい恋愛に陥った。そして、その愛は1917年2月に結婚として結実した。このカンディンスキーの結婚の知らせはガブリエルにとって大きなショックであり、その後数年間絵筆をとることができなかった。 しかし、時がこれを癒して、彼女は快復し、画の制作に復帰した。その後、彼女の天才の裏切り行為を忘れることはできなくても、許して、彼女自身が幸せに暮らしたと思いたい。 ガブリエルは一生カンディンスキーを賞賛した。これに対し、カンディンスキーはガブリエルや彼女の作品について述べることがなかった。このことは、カンディンスキーの画家として多くのことをガブリエルから学んでいたというわれわれの疑念を強めるだけである。 この記事にはカンディンスキーの人格にかかわる重要なできごとが省かれているようなので、追加しておきたい。1920年以降、カンディンスキーは代理人を通してミュンヘンに残してきた自分の作品の所有権に関する連絡をしてきたとのことである。作品の大部分をミュンヘンに残したままロシアへ戻ってしまったカンディンスキーは、それを手元に置くミュンターに全作品の返還を迫ったのである。数年に及ぶ法的係争の末いくつかの大作はカンディンスキーのもとに返されたが、他の作品の権利はすべてミュンターに帰属することになったとのことである。 また、この文章の中に、1925年にガブリエルと結婚したヨハネス・アイヒナーのことが記されていないが、彼は10歳年上のガブリエルを支え続けた配偶者として記憶に止めておくべきである。 3.ニーナ・アンドレーフスカヤ: 一方、カンディンスキーにとっては、新しい結婚は幸せであった。ついに理想の女性を見つけたのである。この女性とはどんな人なのだろうか? 若いロシア人女性、ニーナ・アンドレーフスカヤ(Nina Nikolayevna Andreevskaya)である。ただ比較的最近の話なのに、彼女については不詳なことがらが多い。ニーナの生年月日すら分かっていない。ニーナ自身の言葉によれば、彼女はカンディンスキーより27歳年下だったという。彼女自身の記憶によると、彼女は将軍の娘とのことであるが、ロシア軍のリストからはそのことは確認されていない。ある研究者は日露戦争で1905年に戦死したロシア軍大尉の娘ではないかとしている。 有名人の妻であり寡婦であったニーナは、自分自身の伝説を作ることに熱心だった。カンディンスキーは普通のハウスメイドと結婚したのだとの説もあるが、ありえない話ではない。彼の周囲に大勢の知性的な人々がいたのに、家庭にももう一人の知識人が必要だったのだろうか。以前に、カンディンスキーはインテリの妻やインテリの愛人を持ったことがある。それで十分だったのではなかろうか。 しかし、ニーナがロシアを離れたその日から、自分が良家の出身であると主張している。良家とは、貴族でないにせよ、インテリゲンチアであるということである。さもないと、すべて良家の出で構成されているロシアからの移民社会に入ることができなかったかもしれないのである。 カンディンスキーとニーナはどのようにして出会ったのだろうか? ニーナの伝説に従えば、ニーナが友達のメッセージを電話でカンディンスキーに伝えたところ、ニーナの声がカンディンスキーに「深い印象」をあたえたのだそうである。カンディンスキーは、「見知らぬ声に」というタイトルの水彩画をニーナに捧げたとの話である。 1917年2月、51歳のカンディンスキーは自分よりずっと若いニーナと結婚した。ニーナの記憶によれば、「私たちの結婚は、自分の人生の秋における春のスタートである。私たちはは初めて会った時に恋に陥り、一日といえども離れたことがない」とカンディンスキーが話していたという。 二人は新婚旅行のためフィンランドに向かったが、ロシア革命のためすぐに帰国せざるをえなかった。同年、二人の間にできた唯一の息子Vsevolodは、1920年、ロシア革命戦争中に、栄養失調と感染症で死亡した。 1921年12月、カンディンスキーとニーナは、飢餓と荒廃のロシアを離れ、ベルリンに向かった。外国においては、ニーナはカンディンスキーと完全に生活を共にしており、「一日たりとも離れず」、彼女の天才的な夫の陰に隠れていた。 1944年に、カンディンスキーが死亡した際には、ニーナが唯一の遺産相続人だった。彼女は、この画家の研究・展示・保存を目的としたカンディンスキー財団を設立した。彼女は、この財団からパリのジョルジュ・ポンピドー・センターに多額の寄付を行った。 ニーナはその後再婚することはなかった。しかし、非常な金持ちとなった彼女は、常にジゴロのような若い男に取り囲まれており、ニーナ自身、それが好きだった。また彼女は、宝石を愛して、熱心に購入し、立派なコレクションを作った。1983年に、彼女はスイスの別荘で殺されたが、これは多分このコレクションと致命的な関係があるのだろう。犯人は逮捕されなかった。ニーナは、パリで埋葬され、すぐに忘れられた。彼女の回想録は面白いが、その中はハリウッドのようなお伽話でいっぱいであるから、十分注意して読むべきものである。 美術散歩 管理人 とら 三菱一号館美術館での「カンディンスキー展」の記事はこちら。
by cardiacsurgery
| 2010-12-01 16:29
| 現代アート(国外)
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