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以前にこの美術館を訪れたことがある。カンディンスキー好みの黄色に塗られた印象的な建物。ちょうどカンディンスキーとミュンターの写真展「ミュンターがカンディンスキーと過ごした年月」が特別展示されていて、この2人の愛の物語を十分に知ることができた。 ホームページとブログにその時の記事を書いている。
展覧会の構成は以下のとおりの時系列展示。 序 章: レンバッハ、シュトックと芸術の都 第1章: ファーランクスの時代-旅の時代 1901-1907年 第2章: ムルナウの発見-芸術的総合に向かって 1908-1910年 第3章: 抽象絵画の誕生-青騎士展開催へ 1911-1913年 序章に出てくるレンバッハは、19世紀末のアカデミックな肖像画家で、画壇の大立者。鉄血宰相といわれた《ビスマルクの肖像》↓を描いているほどである。その自宅は現在市立美術館となっているが、レンバッハ美術館ではなくレンバッハハウス美術館と呼ばれているのが云いえて妙である。この美術館の中心はミュンターの寄贈した青騎士たちの作品だからである。 その頃の画は、《コッヘル-シューレードルフ》↓のように、鮮やかな色彩、ペインティングナイフを使った荒いタッチを特徴としている。 この頃からカンディンスキーの作風に新たな変化が生じてくる。ペインティングナイフはもはや使用されず、強烈な色彩を使って絵筆で自然を平面的に再構成して抽象化し、さらに表現主義的な要素を加えてくる。 1909年の《ムルナウ近郊の鉄道》↓では、列車・建物・風景・雲は平面化しているが、まだその実体を留めているが、同じ年に描かれた《山》↓↓では、山上の城砦や手前の馬に乗った人や立っている人は、教えてもらわなければ分からないほどに形態が崩れ、抽象化されている。《ムルナウー庭Ⅰ》↓↓↓では、写真が残っているので、東屋、城、教会、そして向日葵の存在が識別できる。、 1911年の元日にマルクがやってきて、翌日マルクや「ミュンヘン新芸術家協会」の仲間と一緒にシェーンベルグのコンサートに出かけ、感銘を受けている。カンディンスキーの《印象Ⅲ(コンサート)》↓は、その時の印象をもとに描かれたものである。グランドピアノ、白い柱、そして聴衆は分かるが、右側に流れる黄色い部分は何だろうか。解説によると、この会場を支配していた音楽的な印象を示しているとのこと。 1914年の第1次大戦の勃発により、マルクとマッケは戦死、カンディンスキーとミュンターはスイスに逃れ、青騎士は解散した。カンディンスキーはまもなくロシアに帰国したが、ミュンターはスカンジナビアに移って、カンディンスキーを待っていた。ストックホルム国立美術館で、ミュンターが描いた窓辺に立ってぼんやりと外を見ている女性の画を見たことがある。画像はみつからなかったが、その画は今も脳裏に刻み込まれている。 ここではその代わりに、ミュンターが1931年に描いた《ロシア人の家》↓をアップしておく。 カンディンスキーは、革命後モスクワ大学教授、1921年にはドイツに戻ってバウハウスで教鞭をとり、バウハウス閉鎖後パリ郊外に移住した。 ロシア生まれのヤウレンスキーは、第1次大戦のため、ヴェレフキンとともにスイスに移住するが、1921年には彼女と別れ、ドイツのヴィスバーデンに居を移し、その後、カンディンスキー、クレー、ファイニンガーとともに「青の4人」グループを結成して、制作を続けた。 ロシア生まれのヴェレフキンは、ヤウレンスキーと分かれた後もスイスに止まって制作を続けた。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2010-11-24 15:02
| 現代アート(国外)
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