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北陸の田舎の蔵を整理していたところ、古い木箱の中に収められた、それぞれ5客揃いの3種類の皿が出てきた。箱は立派な漆塗で、3段に仕切られていている。
皿の表面写真は↓。 ![]() 底をみると、↓。 ![]() ![]() ![]() いつの時代に入手したものか不明であるが、少なくとも明治生まれの祖父や父の時代以前のもののようである。よく見ると実際に使われていた跡が残っている。決して立派な美術品とはいえないかもしれないが、雪深い北陸の地で長年にわたって、大切に使われてきたものであることには間違いがない。 これらの古伊万里の皿を見ながら、豪雪の故郷を想った。 美術散歩 管理人 とら
2012年1月31日の横浜美術館コレクション展(愛称:ヨココレ)も盛り沢山。いくつかメモを残しておく。
1.横浜開港から昭和までの洋画 チャールズ・ワーグマン《室内》・《御茶漬屋》・《舟遊び》・《日傘の女》・《座る婦人》、その弟子の五姓田義松《細川護成像》や高橋由一《愛宕山より品川沖を望む》、義松の妹の渡辺幽香《幼児図》・《銅・石版画集『大日本風俗漫画』》、彼女の夫の渡辺文三郎《松島内雄島より二児島》ら日本の洋画黎明期の代表的な画家の作品は何回見ても良い。 その後の洋画家としては、岸田劉生《椿君之像》、有島生馬《女学生》・《背筋の女》、河野通勢《崖》・《自画像》、岡鹿之助《橋》など多数が出展されていたが、今回のマイベストは、長谷川潔の油彩画《修道院の古塔(ラグラス)》↓。これは1929年の作。彼の黒い銅版画{以前の記事はこちら)と違い、どこまでも明るい。 ![]() 2.タゴール生誕150周年「タゴールと三溪ゆかりの日本画家たち」 2011年は、アジア初のノーベル賞受賞者(文学賞)で、インドの詩聖と称されるタゴール(Rabindranath Tagore、1861-1941)の生誕150年。 1902年にインドを訪れた岡倉天心との出会いをきっかけに、タゴールは生涯に5度日本を訪れている。初来日の際は、三溪園に2か月半逗留した。 ![]() ![]() ・荒井寛方《一遍上人》、《稚児文殊》・《観世音菩薩》《どんど焼》、《魚籃観音》↓ ![]() ・鏑木清方《春宵怨》 ・下村観山《辻説法》↓、《闍維》、《小倉山》、《弱法師》↓↓、《雪松》、《四季草花図(小下絵)、三溪園所蔵品》 ![]() ![]() ・平櫛田中《岡倉天心胸像》 見おわって、カフェでお茶。家内はキャラメルラッテ、とらはココア。ケーキが「ちょうど売り切れ!」ということで、家内のご機嫌が急に斜めに・・・。 美術散歩 管理人 とら
一年ぶりで横浜美術館を訪れた。「みなとみらい」駅の美術館出口付近工事のためかなり迂回させられた。美術館の前の人通りは非常に少なく、灰色の葬祭場のような雰囲気であり、一瞬「今日は休館日だったかな」と同行の家内にむかってつぶやいたほどだった。
![]() チラシによると、「この展覧会は、現在、その活動が最も注目される画家のひとり、松井冬子(まつい・ふゆこ)の、公立美術館における初の大規模な個展です。横浜美術館では、2006年に「日本×画展 しょく発する6人」において、日本の古典絵画が受け継いできた美意識や主題、様式、技法などのうち、近代になって「日本画」の概念が成立する過程で捨て去られたものに、新たな価値や創作のてがかりを見いだし制作にとりくむ若手のひとりとして松井冬子をとり上げました」となっている。 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻の卒業制作《世界中の子と友達になれる》が今回のチラシのヴィジュアルとなっており、本個展の副題ともなっている。 上記のチラシを再び引用すると、これは「芸術表現が呼び起こす精神的肉体的な『痛み』を始点として、恐怖、狂気、ナルシシズム、性、生と死などをテーマに挑発的とも言える作品を制作してきた松井冬子の原点と言える作品です」となっている。 藤の花を凝視すると、無数のスズメバチがおり、女性の足や手から出血までしている。右奥には空のゆりかごが置かれているが、その意味は一見不明。本人の弁によれば「堕胎」を暗示しているとのことだが、こういう謎解きは困る。 とにかく、この非現実絵画あるいは幻想絵画に意味を求めること自体がむなしい。感覚的には美と醜の対比、それも「主体の醜を強調するために従属している美」ととらえてみた。 題名の《世界中の子と友達になれる》とは、松井が画家を志した子供の時の気持ちのようだったが、この画を描いた際にもこの画で《世界中の子と友達になれる》と信じていたとは思いたくない。 幽霊画のように、足がなく、長い髪を強調した女性の絵がいくつも出ていたが、円山応挙の幽霊画のような品格がなく、例えば《夜盲症》では幽霊の女性が死んだ鳥をぶら下げている。この鳥で靉光の作品を想起したが、これはあくまで個人的な感想。 若い女性の身体を割って、内臓を露出させた絵が、《浄相の持続》以下、沢山出展されており、そのデッサンや下絵も出ていた。このことは、内臓を醜悪なものと捉え、これを若い女性の裸体の美をアクセントとして強調するという計算に基づいて制作されたものであれば、まことにおぞましい。 内臓のデッサンや本絵をしっかり観察してみたが、これは医学の解剖図を引き写したもので、実際の臓器を見て描いたものではない。これは「圧痕は交錯して網状に走る》のための写生腑分け図:卵管」の女性生殖器のスケッチを見れば明らかだった。 本来、正常人の解剖は医学の進歩のために行われ、人類の福祉に役立ってきているものである。解剖に付される遺体は、生前の本人の意志に基づいて大学医学部に寄付され、故人のその芳志に基づいて医学部学生が解剖を行っている。病気の人に対して行われる病理解剖も、医学の進歩のために家族の芳志によって許可されて初めて実施されている。解剖を開始するにあたって、実施者が遺体に対して敬意を表して深く頭を下げるのはこのためである。 解剖図を描いた画家としては、まずレオナルド・ダヴィンチがあげられるが、彼の場合にはあくまで科学者としての解剖であって、その画稿のなかの心臓弁などは現在の医学水準からみても素晴らしいものである。ミケランジェロも解剖のスケッチを残しているが、これは筋肉を正確に制作したいという芸術家としての気持ちに沿ったものであった。レンブラントの局所解剖図もあくまで医学者たちのアクティヴィティの表現の一部であった。 これに対して、前述したように、松井冬子の臓器は実見されたものではなく、美術解剖学の教科書あたりからとったものであると考えられる。 美術解剖学会のホームページを参照すると、「今日の美術解剖学は、このような骨格、筋の運動機構を中心とした内部構造と外形との関係、動きにともなうかたちの変化、比較解剖学、発生学からのかたちの由来を学ぶ芸用解剖学を教育的側面としてもっています。同時に、研究分野としての広がりが加わりました。芸術表現として人のすがたがもつ美しさや、生物のかたちがもつ意味を考察すること、人体とかかわるものの関係を研究する応用解剖学的研究もあります。人間、そして人体に関わる関連諸学との有機的な関わりの中で、美術解剖学の研究範囲は広範なものとなっています」となっている。 この美術解剖学会の役員を調べると、松井冬子が含まれていたので驚いた。そうだとすると、現在の美術解剖学には、遺体を提供していただいた篤志者への感謝の気持ちはなく、生前その篤志者の一部であった内臓は「醜悪なるもの」として扱うことを許容していることにもなる。 入場してきた際には、会場は閑散として、寒々とした作品だけが並んでいた。ところが、途中から大勢の高校生の団体が入ってきた。皆、驚いたようで、声も立てずに見入っていたが、高校生の美術の演習に松井冬子展が適切であるとは思えない。高校生や中学生の興味本位の刃物殺人が多発している現況では、むしろ問題があるのではなかろうか。 これは学校の問題であるが、だといって学校や担当教師を責めるのは酷である。問題はこのようなこのような問題を引き起こしかねない現在の「公立美術館」の在り方であろう。 現在、公立美術館には強い逆風が吹いている。横浜美術館でも「指定管理者制度」が導入されたが、当時の横浜市長・中田宏氏は、「この美術館も工夫が足りているとは言えない。改革のために刺激が必要だ」と述べている。 このため、積極的な美術館では企業のように「経営改革」を掲げて「個性化」や「独自性」を意識した取り組みで動きだしている。「横浜美術館」では、明確な「目標」のもとに、「具体的な取り組み」や「指標」を掲げ、「企画展」の来館者の達成数字目標までもはっきりあげている。そして「横浜美術館」では、地元のショッピングセンターやホテルと一緒に多数のイベントを行っている。 今回の「松井冬子展」もこのような「イベント性の強い企画展」である。出展作の所蔵先を見ると、成山画廊がもっとも多く、今回の展覧会イベントの協力者となっていた。それよりも驚いたことは、所蔵先の個人名が沢山リストに記されていたことである。例えば、月や枯葉が描きこまれた幽霊画《咳》の所蔵者は今を時めく「山下裕二」氏である。この辺にも、新しいビジネスマインドが感じられるが、その正体は知りたくもない。 松井冬子の作品の題名が難解なのは、ダリの前例があるから「まあ良い!」としよう。しかし、キャプションの精神分裂的表現は、本人に任せたものではなかろうか。この点においては、横浜美術館はその教育的任務を放棄していた。 結局のところ、会場でストンと胸に落ちた作品は、穏やかな《盲犬図》、タイムリーな《陸前高田の一本松》、ヤゴから《生れる》トンボぐらいだった。才能のある画家だけに・・・と思った。 この会場を出てほっとして、椅子で休んだ。続いて、コレクション展の会場に移ったが、こちらは良い企画があり、大勢の観客が松井冬子の桎梏から解放され、①横浜開港から昭和までの洋画、②タゴールと三溪ゆかりの日本画家たち、③写真展などの企画を楽しんでいた。 これらについては写真も撮ってきたので、別報とするが、「美術鑑賞は自分が楽しむためのものである」ということを再確認した。 美術館は visiter-oriented のものでなければならない。bisiness-oriennted の美術館は消えてほしいし、早晩消滅するであろう。 美術散歩 管理人 とら
今年の寒さはひどい。こういう時にはTVが一番。これは、2012年1月30日(月)午後9:00からの放送のメモ。
近年、酒井抱一の評価が高まっていると感じるのは、多分私だけではないだろう。これは、東博での大琳派展で、光琳との対比が鮮明にされ、抱一の優位性が再確認されて以来のような気がする。最近でも、姫路市立美術館・千葉市美術館・細見美術館で「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展が開かれ、抱一ブームを継続させている。 1.嵐山光三郎氏の抱一《夏秋草図屏風》の解説 ![]() ・左隻: ススキ、葛の赤い花、からまる蔦。風に舞う蔦の紅葉。 2.嵐山光三郎・玉蟲敏子両氏の光琳《風神雷神図》(表絵)・抱一《夏秋草図屏風》(裏絵)のレプリカ拝見 @三溪園 ・光琳=金 vs 抱一=銀 ・光琳=天 vs 抱一=地 ・光琳=雷 vs 抱一=雨にうたれる夏草 ・光琳=風 vs 抱一=風にふるえる秋草 ◎逆折りになった抱一《夏秋草図屏風》では、「右隻では水が流れ出し、左隻では紅葉が飛んでいく」ことが強調される。 3.抱一による光琳の模写・模倣 ・《波濤図屏風》、《八橋図屏風》、《琴高仙人図》 ・抱一による「光琳遺墨展」の開催 ・抱一による「光琳百図」の制作 4.抱一による光琳を超えた独自性の追求 ・アートディレクター・結城昌子氏による抱一《紅白梅図屏風》の解説: 光琳の《紅白梅図屏風》と異なり、中央に川が描かれていない。華やかであるが、どこか引いている。 ![]() ・抱一は50台になってから独自性を発揮し、銀にこだわった。彼の総銀地は、しっとりとして、物寂しい。これは光琳の《波濤図屏風》を超えた抱一の夜の海の絵《波濤図屏風》から始まった。それは抱一が銀によって光琳を乗り越えた記念碑的作品で、その波は寒風吹きすさぶ波である。 ![]() 4.アメリカ人日本画家・ アラン・ウエスト氏の金地作品と銀地作品の比較 ・金地の作品が暖かいのに反し、銀地のものは渋く、冷たい。 5.石川賢治氏の月光写真(クリック推奨) ・満月の際には、花の色も見える。月光では見え過ぎないので別な表情になる。一時間以上の長時間露光で、すべての景色が神秘的な青に写る。 ・八ヶ岳山中の小さな滝と紅葉のある風景を、満月を待って2時間かけて撮影をした写真が提示された。美しかった。 【とらの妄言】 装飾美術の観点から見た「光琳 vs 抱一」論は、今回のTVによくまとめられていた。しかしこの放送には、両者の歴史的背景への考察が欠けていたのは残念だった。 光琳(1658-1716)は、菱川師宣とともに元禄美術(1688-1704)の旗手であり、抱一(1761-1829)は化政美術(文化・文政 1804-30)に含まれる。 いずれも町人文化であるが、元禄文化は、上方から江戸へとバトンタッチされていく商人文化で、勢いのある時代空気を反映している。 これに対し、化政文化は、浮世絵版画のような大衆化した文化が中心である。抱一に端を発する江戸琳派は、文人画と同じく知識人を核とした文化の最後の光芒と捉えるべきものではなかろうか。 そういう意味で、大名家出身の抱一が描いた「月光に輝く総銀地装飾画」は、過ぎゆく上流階級文化へのオマージュと理解される。 翻って、奇跡の復興を成し遂げた昭和が遠くなっていく平成の日本は、財政的に破綻への道を辿り、V字回復を計るべき政治やメディアの劣化は覆いがたい。 ジャパンマネーで世界の美術を買いあさったバブル経済は、はるか過去の「金の時代」のもので、現在はせめて暗い中にも光を見出すことのできる「銀の時代」に留まってほしいという切なる願望が日本人の心の中に残っている。 こういった平成人の心が抱一の「月光の銀」に共感するのだろう。 【関連展示】「琳派の美学:1800代から近代まで」展 場所:メトロポリタン美術館:サクラー・ウィング・ギャラリー 会期:2012年5月26日~2013年1月12日 美術散歩 管理人 とら
今回の番組案内はこちら。
放送済みの「欧州美の浪漫紀行」および放送済み/予定の「欧州美の浪漫紀行2」のリストは、こちらの記事の下部に【参照】として載せておいた。 スイス・チューリッヒ近郊の人口10万人の小さな街ヴィンタートゥール。かつて産業革命で繁栄し、現在は20近い美術館のある芸術の街として知られている。 Ⅰ.オスカー・ラインハルト・コレクション(アム・レーメルホルツ) 郊外の森の中にあるオスカー・ラインハルト・コレクション(アム・レーメルホルツ)は大富豪が遺した邸宅美術館。 1958年に国に寄贈されたこのコレクションは門外不出で、印象派の作品が有名。 以下の作品が番組内で紹介された。 ・クールベ《ハンモック》 ・ドガ《楽屋の踊り子》 ・ゴッホ《アルルの療養院の庭》 ・ゴッホ《アルルの療養院の病棟》 ・ルノワール《ラ・グルヌイエール》↓。同名の作品をストックホルム国立実術館↓↓で見た(こちら)。これらはいずれもモネとイーゼルを並べて描いた画(参照)。それぞれに対応するモネの画は、ロンドン・ナショナルギャラリーおよびMETに所蔵されている。 ![]() ![]() ・コロー《本を読む女の子》 ・マネ《カフェにて》 Ⅱ.オスカー・ラインハルト美術館(アム・シュタットガルテン) 2011年世田谷美術館で「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール展」が開かれた(記事はこちら)。これはこの美術館の工事にあわせたものだった。 このオスカー・ラインハルト美術館(アム・シュタットガルテン)もオスカー・ラインハルトが国に寄付した美術館であるが、上述の邸宅美術館とは別物。 ドイツ絵画・スイス絵画が中心をなしており、この番組で紹介されたのは、ベックリーン《葦の中の牧神》、フリードリッヒ《月明かりの港》、ホードラー《シャンペリー付近》↓。 ![]() 別な邸宅美術館としては、ハンス・ローザ夫妻の邸宅美術館「ヴィラ・フローラ」が出てきた。 夫人の好きだったというヴァロットンの絵が紹介されていた。 Ⅳ.ザンクト・ガレン修道院 番組では、近くの街の「ザンクト・ガレン」も紹介された。世界遺産ザンクト・ガレン修道院のバロック天井画、修道院付属図書館の16万冊に及ぶ古くからの蔵書は見ものだった。 美術散歩 管理人 とら
大相撲初場所千秋楽の日に両国に行ってきた。今場所は優勝が早々と決まったので、前から考えていた江戸博行きとした。2時ごろに駅を降りるとなんとなく賑やかな雰囲気が伝わってくる。博物館までの道すがらお相撲さんとも行き会う。
大河ドラマ「平清盛」も2回目まで終り、この日の夜が第3回目というところ。新聞には、某県知事が「汚いドラマだ」といったとか、視聴率が低いとか、あまり評判は芳しくない。一方、NHKは日曜美術館で江戸博のこの展覧会をバックアップ。 ![]() 後で図録をみたら、板橋区立美術館の安村敏信館長がこの展覧会に関わっておられたらしく、上記のキャッチフレーズはまさしく安村流だったのだということが判明した。 閑話休題。以下、展示の流れに沿って感想を・・・。 第1章 平氏隆盛の足跡 まず、平清盛が白河法皇の落胤だったという証拠の文書、滋賀・胡宮神社蔵の《仏舎利相承系図》が出てきた。今回の大河ドラマは、この文書に準拠していたようだったが、系図くらい信用できないものはないことは大方の知るところ。 次は、保元・平治の乱の絵。 これらの複雑な登場人物を、折角復習していったのだが、豆粒大の人物の同定はきわめて困難。保元合戦図屏風(↓)はその一つ。 ![]() この中での今回のお気に入りは、MIHO MUSEUMの《六波羅合戦巻断簡》(↓) ![]() 《平家物語絵巻》では、土佐佐助筆・林原美術館蔵の第2巻と第6巻を見ることができた。なかなか美しい絵巻だった。これは36巻すべてが残っている貴重な絵巻とのことだが、帰って図録を見たところ、画像が載っているのは第3巻・第5巻・第11巻で、私が見たはずの第2巻・第6巻の画像は載っていない。 どうしたことかと図録を見ると、この展覧会は、東京の他に、神戸・広島・京都でも開催されるということが分かったが、図録の最後のリストを見ても、どれがどこで出展されるのか記されていない。 さらに云えば、図録の解説は「短小」で、例のキャッチコピーだけが幅をきかせている。板橋区立美術館のキャッチコピーは会場内に限られ、図録には書かれていないので、いつもリストにメモしてきていたのだが、今回の図録にはそれと対照的に「軽薄」な記載が幅を利かせており、内容の「重複」も目立っている。 「築島に三十人に人柱。その身代わりになった松王丸の物語」というキャッチコピーの付いたきれいな奈良絵の貼交屏風が2点出ていた。ストーリーは勉強になったが、肝心の奈良絵は会場でも図録でも小さくて残念。 第2章 清盛をめぐる人々 桃山-江戸時代の鳥羽法皇・美福門院像や、鎌倉時代の後白河法皇像や北面の武士でありながら出家して漂泊の人生をおくった西行法師像はじっと見てきた。ただ、平重盛、平敦盛、高倉天皇などの江戸時代の肖像画の信憑性はどのように担保されるのだろうかと疑問に思った。 お気に入りは、《西行物語絵巻(サントリー美術館)》↓や浮田一慧《雪中常磐図(三井記念美術館 ![]() 第3章 平氏の守り神-厳島神社 清盛が長寛 2 年 (1164) に一門の繁栄を願って奉納した、善美を尽した装飾経「平家納経」は4点出展されていた。その中の清盛自筆の《平清盛請願文》(↓下)の見返し絵の鹿(↓上)は、1602年に33巻のうち何巻かが当時の安芸守の福島正則の命によって補修されており、このとき俵屋宗達が表紙絵と見返し絵を描いたとされる3巻のうちの一つである。 ![]() その他の出展品は《法華経信解品第四》、《法華経法師功徳品第十九》、《法華経羅尼品第二十六》↓。 ![]() 田中親美の大正時代の摸本も出ていたが、その一部は大倉集古館でも見ている(記事はこちら)。 《金銀荘雲龍文銅製経箱(平家納経納置)》は見事。いつものように爪を数えてみると四爪(↓)。五爪の龍を天子の象徴とし、一般の使用を禁じたのは、元時代の1297年(大徳元年)以降であったのだし、さらに日宋貿易は主として民間ベースだったのだから、ここは中華思想や冊封制度とは関係がないのだろう。 ![]() ![]() 厳島神社の古神宝類では、《双鳳文螺鈿平塵飾太刀鞘》、《松喰鶴文様蒔絵小唐櫃》、《古檜扇》が見事だった。 平重衡所要と伝えられる《七弦琴》からは雅な音が聞こえてきそう。 第4章 平氏の時代と新たな文化 鎌倉時代の個人蔵《愛染明像》や平安時代の京博《十二天像のうち月天》、醍醐寺《閻魔天像》などの良い仏画が見られた。これらは、私が行った1月22日で展示終了となるのでラッキーだった。 清盛が宋との交易を進めたことで先進的文化がもたらされたことは、宋から重盛に贈られたという青磁碗《馬蝗絆》や、交易拠点であった博多・神戸・京都出土の貿易陶磁などで紹介されていた。 第5章 平家物語の世界 「平家物語」としては、大東急記念文庫蔵の延慶本が出ていた。平家琵琶《千鳥》も良かった。 平家物語を題材にとった木曽義仲、一の谷、屋島、壇ノ浦合戦などの絵画をいくつも見ることができた。 その中でのお気に入りは、《一ノ谷合戦図屏風》↓ ![]() ![]() 《那須与一射扇図屏風(個人蔵)》↓も良かった。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
最近の新聞にはやたらと広告が多い。今日の朝日新聞朝刊のPACHINCOの広告には、美人たちの写真とともに漢詩が二編載せられていた。
![]() ![]() ![]() 江碧鳥逾白 江(こう)は碧(みど)りにして、鳥は逾(いよい)よ白く 山青花欲然 山は青くして、花は然(も)えんと欲す 今春看又過 今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ 何日是帰年 何の日か是れ帰る年ぞ 老婆心ながら、前半部に関する「新唐詩選」の説明を紹介しておく。 (第1句) ・江=揚子江の本流であってもよい、支流であってもよい、西南中国の大きな川の大きな川は、みな江という言葉で呼ばれる。 ・碧=碧玉のようなふかみどり。ふかみどりの水面のひろがりを、日本の川のはばで想像してはいけない。瀬戸内海の諸海峡くらいのはばで考えるとよい。中国は大国である。自然の規模が日本とちがう。 (第2句) ・青=さみどり。「碧」が沈静な青さであるのに対して、「青」はいきおいのある青さ。 ・然=燃 「新唐詩選」には野暮な和訳はないが、H.A.Gilesの英訳(↓)が引用されていた(Chinese Literature,p.153)。 White gleam the gulls across the darkling tide, On the green hills the red flower seem to burn; Alas! I see another spring has died・・・・・・ When will it come – the day of my return! 新聞広告の第二の漢詩は明代の高啓(1336 - 1374)の「尋胡隠君」である。この詩も高校の教科書にあったので、声を出して読むことができた。 渡水復渡水 水を渡り また水を渡り 看花還看花 花をみ また花を看る 春風江上路 春風江上の路 不覺到君家 覚えず君が家に到る この詩は、「いくつもの川を渡り、あちこちの花を見ながら、春風そよぐ水辺の道を歩いていくと、気付かぬうちに隠棲中の胡君の家に着いてしまった」という意味などで分かりやすい。 高啓のこの詩の第2句に「看」という字が繰り返し出てくるが、この字は前述の杜甫の詩の第3句にも出てくる。これについて、吉川幸次郎は「新唐詩選」のなかで、次のように解説している。 ところで注意すべきは「看」の字である。自然の推移に敏感である人間は、反射的にそれに抵抗して推移をおしとどめたく思う。それは徂(ゆ)く春を惜しむという風流の心からばかりではない。すくなくとも杜甫の場合は、そうではない。季節の変化によって示される自然の推移、それとおなじ時間の上にのって、おのれの生命も推移していく。かくおのれの生命をも巻き込みつつ推移していく世界の推移、それを少しでもおしとどめようとする意欲、それは、風景に対する熟視となって現れる。しかしながら、それはむなしき熟視であって、じっとみつめる杜甫の目の前を、自然は冷淡に音もなく推移してゆき、春ははや半ばをすぎんとする。「今春看又過」の「看」の字には、そういう感情がこもっているのである。 高啓の詩の中の「看」にもそういう意味が含まれているのではなかろうか。 話は変わるが、自宅の前の蝋梅が満開である。これは20年以上前に、園芸店で買ってきて自分で植えたものであるが、なかなか立派な花をつけず、「いつになったらしっかり咲くの!」とからかわれてきた。それが今年は、突然、沢山の花をつけ、咲きにおっているのである。今日は東京でも雪。花からは冷たそうな水滴が・・・。それにもめげつ健気に咲いているこの蝋梅の花や蕾をしっかりと「看」た。 ![]() 蛇足ながら、「年年歳歳花相以 歳歳年年人不同」の出てくる劉廷芝の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)」については困っていることがある。大分前のことだが、何を血迷ったか、この詩(↓)を毛筆で書いて嫁に行っている娘に渡したことがある。娘の方は、これも何を血迷ったか、額装して家の中に掛けているのである。マズイ!!! 何せ娘の義父は長年書道をたしなんでおられ、見事な字を書かれるのだ。いまさら「返せ」ともいえないし・・・。 洛陽城東桃李花 洛陽城東桃李(とうり)の花 飛来飛去落誰家 飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つ 洛陽女児惜顔色 洛陽の女児顔色を惜しむ 行逢落花長嘆息 ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す 今年花落顔色改 今年花落ちて顔色改まり 明年花開復誰在 明年花開いてまた誰かある 巳見松柏摧為薪 巳(すで)に見る松柏くだけて薪となるを 更聞桑田変成海 更に聞く桑田変じて海となるを 古人無復洛城東 古人また洛城の東に無し 今人還対落花風 今人還(かえ)って対す落花の風 年年歳歳花相似 年年歳歳花あい似たり 歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず 寄言全盛紅顔子 言を寄す全盛の紅顔子 應憐半死白頭翁 憐れむべし半死の白頭の翁 此翁白頭真可憐 この翁白頭真に憐れむべし 伊昔紅顔美少年 これ昔紅顔の美少年 公子王孫芳樹下 公子王孫芳樹の下(もと) 清歌妙舞落花前 清歌妙舞落花の前 光禄池台開錦繍 光禄池台錦繍を開き 将軍楼閣画神仙 将軍の楼閣神仙を画(えが)く 一朝臥病無相識 一朝病に臥せば相識る無し 三春行樂在誰邊 三春の行樂 誰が邊(へん)にか在る 宛轉蛾眉能幾時 宛轉たる蛾眉の能く幾時ぞ 須臾鶴髪亂如絲 須臾にして鶴髪亂れて絲の如し 但看古來歌舞地 但看る古來 歌舞の地 惟有黄昏鳥雀悲 惟(ただ)黄昏鳥雀の 悲しむ有り 美術散歩 管理人 とら 、
最近は、テレビに沢山の美術番組が組まれている。デジタルTVのおかげで、素晴らしい画像を居ながらにして拝見できるので、このように寒い時期の美術散歩には最適である。その一つが、BSジャパンの「欧州美の浪漫旅行2」シリーズ。今回はドイツの3都である。
1.クロナッハKronach ドイツ・ルネサンス画家クラーナハ Lucas Cranach the elder は、1472年ドイツ、バイエルン州クロナッハで生まれた。現在の人口は1700人。古城街道沿いの街である。自分の名前のLucasは街の守護聖人の名からとったとのこと。 町には「ローゼンベルグ要塞 Fortress Rosenberg 」が残っているが、ここは16-17世紀の宗教改革による宗教戦争の舞台となったところである。その一角に、クラーナハの作品を沢山所蔵する「フランケン・ギャラリー Fränkische Galerie」があるが、これはミュンヘンにあるバイエルン博物館の分館ともなっている。 フランケン・ギャラリーにあるクラーナハの作品としては、民衆が石をつかんでいる《キリストと姦淫の女》、女が銭入れに手を突っ込んでいる《ふさわしくないカップル》、有名な蜂に刺されている《ヴィーナスと蜂蜜を盗んだキューピッド》↓、《ヤコブの泉とサマリア人の女》が出てきたが、いずれも素晴らしい。 ![]() ここは以前に中欧美術旅行の際に寄ったので、懐かしい場所である。 クラーナハは、この地に工房を構え、領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世以下3代に御用絵師として仕えた。 ルターは、1498年、アイスレーベンに生まれたが、1502年からはヴッテンベルグ大学で聖書の講義を行っていた。ローマ教会がバチカンの修理のために免罪符を売り出したことに反対し、城内教会の門に「95か条の論題」を張り出した。前述の旅行の際にも、この論題の門の写真を撮ってきた。 クラーナハは商才があり、薬局・印刷屋・書店に関わり、この地の市長にまでなっている。一方でクラーナハは、ルターの結婚の立会人になるなどルターと親密で、多数の宗教画を残しただけでなく、ルターとその家族の肖像↓を多く残している。カトリックでは、このように修道女と結婚することなどは夢にも考えられなかった。 ![]() ![]() ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリッヒ↓は、1547年のミュールベルグの戦いに敗れ、クラーナハは次男とともにワイマールに移り、最後の数年をこの地で過ごした。彼の墓もそこに残っている。 ![]() ワイマールは、ゲーテ、シラー、リストなどの文化人で有名だが、クラーナハも当然その一人に加えられる。 本人と次男の共作であるヘルダー教会の祭壇画↓は初めて見たが、キリストの胸から噴出する血の勢いに驚いた。この画の右側には黒い服装のクラーナハと聖書を持ったルターが並んで描きこまれている。 ![]() 【参考1】 BSジャパン:欧州浪漫紀行 1.トレド:サンタクルス美術館 2.ハーグ:マウリッツハウス美術館 3.ナポリ:カポディモンテ美術館 4.ニュルンベルグ:国立ゲルマン博物館 5.パリ:オランジュリー美術館 6.プラハ:プラハ国立美術館 7.ザルツブルク:レジデンツギャラリー 8.パリ:ルーヴル美術館 9.ワルシャワ:ワルシャワ王宮、ショパン博物館 10.サン・モリッツ:セガンティーニ美術館 11.ヴェネツィア:アカデミア美術館 12.ウィーン:オーストリア美術館 13.ベルリン:ベルリン絵画館 14.ブルージュ:グルーニング美術家、メムリンク美術館 15.マドリッド:プラド美術館 16.デンマーク・スケーエン:スケーエン美術館 17.オッテルロー:クレラー・ミュラー美術館 18.リスボン:ポルトガル国立古美術館 19.ドイツ・グライフスヴァルト:ポメルン州立博物館 20.ブリュッセル:ベルギー王立美術館 21.グラナダ:アルハンブラ宮殿 22.ハーレム:フランス・ハルス美術館 23.リスボン:カールスト・クルベンキアン美術館 24.コペンハーゲン:コペンハーゲン美術館 ・年末スペシャル:「クレラー・ミュラー美術館」、ドイツ「絵画館」、ベルギー「グルーニング美術館とメムリンク美術館」、ポルトガル「カルースト・グルベンキアン美術館」、デンマーク「コペンハーゲン国立美術館」、スペイン「プラド美術館」 ・新春スペシャル:ドイツ「アルテピナコテーク」、フランス「グラネ美術館」と「トゥールーズ=ロートレック美術館」、オーストリア「レオポルト美術館」、スロヴェニア「スロヴェニア国立美術館」、イタリア「ボルゲーゼ美術館」、トルコ「アヤソフィア博物館」 【参考2】 BSジャパン:欧州浪漫紀行2 1.ブダペスト:ハンガリー国立西洋美術館 2.ルブヤナ:スロベヴェニア国立美術館 3.ドレスデン:アルテマイスター 4.ロンドン:コートールド美術館 5.アントワープ:MAS美術館 6.ミュンヘン:アルテピナコテーク 7.ベルン:パウル・クレーセンター 8.イスタンブール:アヤソフィア博物館 9.南仏:ロートレック美術館、グラネ美術館 10.ローマ:ボルゲーゼ美術館 11.ウィーン:レオポルド美術館 12.アテネ:国立考古学博物館 13.ドイツ三都:フランケンギャラリー 14.ロンドン:テート・ギャラリー 15.パリ:マルモッタン美術館、モネ美術館 16.ウィーン:ウィーン美術史美術館 17.バーゼル:バーゼル市立美術館 18.カッパドキア:ギョレメ野外博物館 19.ベルリン:新博物館 20.パリ:オルセー美術館 21.ロンドン:大英博物館 22.フィレンツェ:ウフィツイ美術館 美術散歩 管理人 とら
フランス南東部に位置し、絹織物の産地として有名なリヨンは、ローマ帝国属州の首都として繁栄した古都。現在はフランス第3の都市のリヨン美術館は、広く美術史を見渡すことができるので、「小さなルーブル」と呼ばれている。
ルネサンス絵画としては、まずはペルジーノのサン・ピエトロ多翼祭壇画《キリストの昇天》↓ ![]() ![]() バロック絵画では、ルーベンスの《キリストの怒りから世界を守る聖ドミニクスと聖フランチェスコ》、レンブラントの処女作《聖ステパノの石打ち》など。 いずれ劣らぬ名画が並んでいる。こうした画はこの美術館を作ったナポレオンによってリヨンにもたらされたもの。 リヨンの絹商人がイタリアにいたプッサンに注文した《エジプト逃避》↓はフランスの国宝になっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 第三の見どころは、図案職人の参考に集められた沢山の花の画である。美術学校の教師だったベルジョンの《柳細工の籠に入った花と果物》↓には、メロンに止まったハエや水滴まで描かれている。 ![]() 象徴主義の画としては、ルイ・ジャンモがあげられる。彼の《野の花》も良いが、10年かけて描いた連作《魂の詩》↓はまことに見事である。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
この展覧会のチラシをみると、プラド美術館から出品されている油彩画は25点で、それも既に見た画が多い気がして、この展覧会はパスしようと思っていた。国立西洋美術館など国内の美術館が所蔵する版画51点が含まれているということも、腰が引けていた理由だったかもしれない。
しかし、1月2日初日の北京故宮博物院展の目玉作品を見るため、当日午後遅くに東博に入ったほうが良いと考えて、時間調整のためこのゴヤ展をサット見ることにした。確かに油彩画はサット見られた。 ところが、プラド美術館から素描画が沢山来ていて、素描画の前では必ず足を止めることになってしまった。 ![]() 普段日本国内でゴヤの油彩画をまとめて見るのは難しいが、多くの美術館がゴヤの四大版画集「気まぐれ Los Caprichos」、「戦争の惨禍 Los desastres de la Guerra」、「闘牛技 Tauromaquia」、「妄 Los DisParates」を所蔵しており、ゴヤの主な版画を国内ですべて見ることが可能であり、ネットでも画像を閲覧することができる。今回の展覧会でもこれらの版画を沢山見ることができたが、もう少し厳選して展示した方が、観客の疲労が少なかったと思う。 一方、ゴヤの8つの素描帖(A-H)には、世界中に散らばっており、国内で見ることは非常に困難である。この点については、2001年にロンドンのヘイワード画廊で全550点中117点を集めた展覧会が開かれており、その記事が参考になる。今回の展覧会で素描帖 A, B, C, G, Hの一部を見られたことは幸いであった。 ということで、私は油彩画と素描に力を注ぎ、版画は流して見ることとなった。 Ⅰ かくある私―ゴヤの自画像 This is how I am-Self Portraits ・ゴヤにとっての自画像とは、アーチストとしての精神分析でありマニフェスト表現だったとのこと。だとすると、ゴヤの自画像は野心と自信のマニフェスト。 ・子供の時からの友人サバテール宛の1794年の手紙の中の顎の張ったマンガ的な自画像には”This is how I am”という言葉がついている。前年に重病によって聴覚を失っていながら、この手紙を書いた時には貴族や政治家から沢山の注文を受ける有名画家の頂点に達していた。 ・1799年に出版された第一の版画集「ロス・カプリーチョスLos Caprichos」の扉絵となっている自画像(↓)は、近代画家としてファッショナブルな服装に身を包み、斜めに構えた目つきをしている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・1815年の自画像(→)に描かれたゴヤはアトリエで仕事中。ボサボサの毛髪の天才画家のように描かれている。この時には70歳近くの高齢になっていたが、それでも創造力をうしなわない自分の姿を表している。この肖像画の署名"Goya, Painter/Aragonese"は、自己の天職と出自の誇りを示すものである。 Ⅱ 創意と実践―タピスリー用原画における社会批判 Invention and Execution ・故郷のサラゴーサで修業を受けた後、20代後半のゴヤは、マドリードに移り、宮廷のタピスリー原画(カルトン)を描きはじめた。カルトンの最初のシリーズは1775年に制作され、宮廷画家であったメングスならびに義兄バイェウの指導を受けたものだったが、翌年からゴヤは自分自身の考えに基づいた第2シリーズを発表したのだそうだ。このカルトン制作は1792年まで続くが、これによってゴヤはマドリードにおける画家の地位を確立した。 ![]() ![]() メングスの宮廷タピスリーの題材はスペインの理想的な日常生活だったが、ゴヤはこのような古い画家の優美かつ平穏なロココ的画風には満足せず、下層階級の視点からのより現実的な社会の姿を写したのである。宮廷を離れた街や田舎の状景を描き、マドリードのダウンタウンを歩くおしゃれな男女(マホやマハ)、労働者、子供、老人、金持ち、貴族が描かれた。このようなカルトンにも、ゴヤの人間に対する鋭いまなざしや現実に対する批判的な見方が表れている。 Ⅲ 嘘と無節操―女性のイメージ:「サンルーカル素描帖」から私室の絵画へ Falsehood and Inconstancy – Images of Women: from the Sanlucar Album to the Private Cabinet ・40代後半以降、ゴヤは合計8点の素描帖を制作しており、彼の画歴の重要な部分となっている。これらの素描帖にはゴヤ自身は名前を付けていなかったので、便宜上、アルファベット順にAからHと命名されている。 ・「サンルーカル素描帖」とも呼ばれるアルバムA(1794-95)とアルバムBには、女性たちが描かれている。多くは下層階級の女の姿で、日常の道徳感を表している。ゴヤは、彼女たちの魅惑的な姿だけでなく、彼女たちの行動の裏面に存在している誘惑・愛憎・欲望・悲しみといったものも描きとめている。これらが後の「ロス・カプリーチョス」や油彩の中の状景にも発展していく。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・今回展示されている《着衣のマハ》はゴヤの代表作で、対となる《裸のマハ》から少し遅れて描かれた。この2つの画は、王の寵臣だったゴドイの住いに飾られていた。これらの画は、肉体的な美が古代の女神の姿から扇情的な姿で横たわる世俗の女性に転換していることを示している。これらが異端審問の対象となったという事実は、ゴヤの置かれていた厳しい状況を示している。 Ⅳ 戯画、夢、気まぐれ―「ロス・カプリーチョス」の構想段階における自由と自己検閲 Caricatures, Dreams and Caprices – Freedom and Self-censorship in the Creative Process of Los Caprichos ・版画集「ロス・カプリーチョス」の発想は、1796-97年に制作された「夢Suenos」と呼ばれる26点の素描に端を発している。caprichoという言葉は、伝統的な規約の束縛、すなわちリアリズムの限界から離れた創作行動を意味する芸術用語であり、すでに17世紀からcaprichoの例が見られている。 ・「夢」における最初の素描である《普遍的言語》には、これらのエッチングの目的は「未開な偏見を取り除き、真実を証明すること」というゴヤの註解が含まれている。この見解は、18世紀後期におけるスペインの政治家たちによって称揚されていた「啓蒙主義」の理念に関連している。愚行をユーモアで非難するというゴヤのスタンスは、合理性という力で社会を改革していくという啓蒙主義の考え方と一致していた。 ![]() ![]() ・ゴヤは、とくに聖職者の堕落を非難した。その代表例は《かっかしている》(↑)であるが、「素描帖B」の最初の準備素描、「夢」の準備素描、「ロス・カプリーチョス」の校正刷りや最終刷りに至るゴヤの校正過程を見れば、作品の形式や構成だけでなく、法規に触れるような軽率な表現がないように「自己検閲」していたことが分かるとのことである。 Ⅴ ロバの衆:愚鈍な者たち―「ロス・カプリーチョス」における人間の愚行の諷刺 Asnerias – Satires of Human Behaviour in Los Caprichos ![]() ![]() Ⅵ 魔物の群れ―「ロス・カプリーチョス」における魔術と非合理 The Metaphor of Wiyches – Witchcraft and Senselessness in Los Caprichos ・1798年、ゴヤはオスナ公爵夫妻のために6枚の魔女連作を描いた。その一つが《魔女たちの飛翔》↓である。これらとほぼ同時期に制作された版画集「ロス・カプリーチョス」の中にも魔女や悪魔がしばしば登場する。ゴヤはこの主題に関心を抱いており、啓蒙主義の立場から、社会における不合理や悪徳の象徴として魔女の図像を使用した。 ![]() ![]() ![]() ・しかし「ロス・カプリーチョス」の中には、こういった悪を追い払う希望を表した版画もあり、その場合には昼の陽光が夜の闇に隠れている悪魔を照らし出している。 この場合には、輝く光は人類を混迷から救い出す象徴となっている。18世紀後半のスペイン啓蒙主義者たちにとっては、合理主義の考えや科学の進歩は人間性にとっての救世主とみなされていた。 Ⅶ 「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」―心理研究としての肖像画 From the King and Queen Downwards – The Portrait as a Psychological Study ・1780年に、ゴヤはサン・フェルナンド美術アカデミー会員となり、肖像画家としての経歴を積みだした。最初の注文主はフロリダブランカ伯爵であったが、引き続きカルロス3世の弟ドン・ルイスやオスナ公爵夫妻などからの注文もあって、ゴヤは当時第一の肖像画家とみなされるにいたった。 ・1789年には宮廷画家に任命されたが、彼の肖像画は単に対象人物の社会的地位を表すだけでなく、小さなしぐさや表情をとらえて、相手の性格や気持ちまでも表現していた。啓蒙主義的な政治家であるホベリアーヌスの肖像画(↓)は素晴らしい傑作である。事務所で物思いにふけっている姿からその人格がにじみ出ている。 ![]() ![]() Ⅷ 悲惨な成り行き―悲劇への眼差し Fatal Consequences – The Tragic Gaze ・フランスのナポレオン・ボナパルト皇帝の野望によって、1804年、それまで平和だったスぺインは、突然戦争と混乱の惨禍に投げ込まれた。フランス軍侵攻後のクーデターによって、1808年に、カルロ4世は退位し、息子のフェルナンド7世が即位した。その後ナポレオンによって、この2人の王は収監され、ナポレオンの兄ジョセフ・ポナパルトが即位した。このフランス支配に対して市民の反乱が勃発し、独立戦争(半島戦争)に発展した。その後の数年間、スペインは戦争の恐怖とたたかわなければならなかった。 ・ゴヤの故郷サラゴーサは、1808年の戦闘で荒れ果てていた。ゴヤはこの地で実際に見た経験から、版画集「戦争の惨禍Los desastres de la Guerra」を制作しはじめた。その完成には数年を要したようであるが、これが版画集として日の目を見たのはゴヤの死後であった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ・「闘牛技」の33点の版画は制作順に並べられ、古代からルネサンスに至る闘牛の歴史から始っている。次には、18世紀以後の闘牛士たちの偉業が示され、最後に、当時の人気闘牛士ペプ・イーリョの悲劇的な死が描いたている。ここでのゴヤの暴力と死の表現は「戦争の惨禍」の場合に似ている。人間は、自己の相手と理性を忘れて対峙し、不必要な死を招くのである。この版画集も人間の本性の深部に潜む暴力と非合理性をテーマとている。 ・また版画集「闘牛技」は、その時代の闘牛の合法性についての議論も反映している。啓蒙主義者は、この「国の祭り」を時代遅れで、野蛮な見世物であるとして非難していた。一方、ゴヤは若いころは闘牛の愛好者だった。版画集「闘牛技」は、ゴヤの他の作品と同様に、単一の動機から制作されたのではなく、当時のスペイン社会の構造と複雑に絡み合っているものであると理解すべきであろう。 Ⅹ 悪夢―〈素描帖C〉における狂気と無分別 Nightmares – Madness and Irrationality in the Drawings in Album C ・「素描帖C」は、1808-14年にかけて制作されたものであるが、これは半島戦争の勃発から紛争後に復位したフェルナンド7世の反動統治開始の時期に相当する。126点の作品の対象は広範であり、日常生活から夢幻、聖職者に対する非難、刑務所内部の状景に及んでいる。「素描帖C」は、混乱期の多様な面を反映しており、ゴヤ芸術の複雑性を表しているといえる。 ・大多数の素描はゴヤ自身が目撃した現実の姿を扱ったものだったが、9点の素描では、同一の夜に見た3つの夢に現れたグロテスクなものが表現されていた。ゴヤの時代の幻影は常に恐ろしい悪夢に関連していた。 ・これら9点の図像が、実際にゴヤの夢に出てきたものなのか、あるいは覚醒時におけるゴヤの経験の寓意だったのかは明らかではないが、当時の軍人、貴族、百姓、聖職者、若者、老人など社会各層の馬鹿げた行為を描いたものである。そしてこれらは当時の社会規範に対する批判の表れであるともいえる。 ⅩⅠ 信心と断罪―宗教画と教会批判 Devotion and Condemnation – Images of Piety, Images of Criticism ![]() ![]() ・ゴヤが近代美術の先駆者として教会に対しては批判的な立場であったという事実は彼の宗教画に対して影を投げかけている。しかしながら、実際にはゴヤは生涯にわたって宗教画を描き続けていた。《荒野の若き日の洗礼者ヨハネ》(→)はその一例である。 ・ゴヤの宗教画に対するアプローチは啓蒙主義的だった。彼の合理主義的な立場は人間の情緒的表現とは相いれなかった。聖人や神格は、その精神性を深く考慮して、簡潔かつ虚構なく表現されていた。 ![]() ⅩⅡ 闇の中の正気―ナンセンスな世界の幻影 Lucidity in the Darkness – Visions of a World of Folly ![]() ![]() ・これらの22点のアクアチント版画は、全体として薄気味悪い雰囲気で、非常に暗い。その主題は、恐怖、非合理性、男女関係などである。しかしここでは、社会を改革しようという重要な註解はなくなり、その代わりに、馬鹿な人間の本性や現実世界の非合理性といったことは教化不能であるとしているようである。しかしながら、一部の版画には、闇の代わりに光があり、多少の希望も残っていることを表している。 ⅩⅢ 奇怪な寓話―「ボルドー素描帖G」における人間の迷妄と動物の夢 Grotessque Fables – Human Folly and Animal Dreams in the Bordeaux Album G ![]() ![]() ・ボルドーで制作した「素描帖G」の全図には説明書きがついている。 ・ここではゴヤは醜悪に変形したものを追求しているが、これは写実と劇画が混合した「ロス・カプリーチョス」に端を発している。この異様な図像は、いまや高齢となったゴヤの記憶や想像から生まれたもので、観る者に人間の愚かさを想起させる。この「迷妄」でも、「悪夢」の場合と同様に、狂気と不条理が切られた首として象徴的に表されている。ゴヤの作品は常に人間とその生命に焦点を当てていたが、時には、欲望、残酷は動物の形を借りた寓意で表現されている。 ⅩⅣ 逸楽と暴力―「ボルドー素描帖H」における人間たるものの諸相 Leisure and Violence – Images of the Human Condition in the Bordeaux Album H ![]() ・《暴力》に関するテーマがこの最後の素描帖に再登場してきている。強者対弱者、夫対妻、男対女の際限のない暴力である。ゴヤは、拷問や犯罪者の処刑といった暴力さえも、人間社会に遍在する負の因子として表現した。 ・二つの「ボルドー素描帖」に含まれている作品は、ゴヤの人間に対する鋭い観察をまとめたものである。馬鹿な行為によって快楽や欲望を満たしている老人の図像が多いことも興味を引く。ゴヤが、愚かな人間に対して絶望し、人間の本性として受容した結果、これらの強烈かつ時に悲喜劇的な図像が制作されたのである。 美術散歩 管理人 とら
今日の日曜美術館の放送は、今回の「北京故宮博物院200選展」の続報といっても良い。ちょうど連休だから、さぞ混雑するだろう。
この番組のゲストは、このブログの前々報・前報でも述べた浅田次郎氏。まさに適材適所の人選である。 以下に、この番組の内容を紹介させていただく。 北京故宮博物院の中から門外不出の名品およそ200点が、日本で初公開。特に名品中の名品といわれるのが12世紀初頭に描かれた「清明上河図」。春の清明節の一日、北宋の都「開封」の賑わいと、庶民の日常の様子を克明に描いた絵巻。これほど当時の人々の姿をいきいきと描いた絵は、世界でも類を見ない傑作である。 ここでこの絵巻の細部にわたる紹介がなされたので、その順序に従って画像をアップしていく。 1.清明節の花の運搬 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 浅田氏のこの神品に対する感想は、「1.案外小さかった。2.微細な線に驚いた。3.面白くて、楽しくて、寝付かれなかった。4.橋の上の人間のそれぞれのドラマを感じた。5.本店と支店の描き分けがおもしろかった。6.突然終わっているが、初めが緩やかに始まっていることを考えると、これには続きがあったと思われる」といったものだった。 徽宗の時代は、中国史上最も華やかな芸術の黄金時代だった。宮廷内に画院がつくられ、中国最高の汝窯青磁を生み出した。NHKのこの青磁の写真は、図録と異なり、正確な色調が再現されていた。まさに雨後天晴色である。 その後も、芸術を愛する皇帝たちが、故宮の名品を集め、また名品の誕生に力を注いだ。13世紀に景徳鎮で生まれたコバルトを使った「青花磁器」。その華やかな装飾は、西アジアにまで広がる大帝国を創り上げ、東西文化の融合を成し遂げた元の皇帝フビライ・ハンの功績によって生まれたものだった。銅の紅を組み合わせた「釉裏紅磁器」もこの時代に開発されたもので、青磁と釉裏紅を組み合わせたものもある。これらによって、「絵柄が自由に表現できる」という磁器の革命がおこったのである。 浅田氏によると、「宋から清までの間の支配6民族のうち、漢民族は2つだけで、異民族が4つを占めていた。異民族の持っていた文化コンプレックスが漢民族以上のものを作り出す原動力となっており、外来者はそれまでの文化を客観的に見て、新しいものを作り出していった。また定住していなかった異民族の行動や発想に自由度が高かった」とのことである。 また、故宮コレクションの礎を築いたのは、18世紀清の時代の皇帝・乾隆帝。少数民族が、多民族国家中国を支配するために、歴史的な芸術作品の収集に情熱を燃やした。さまざまな古典を集めるだけでなく、宮殿内に工房「造弁処」まで作り、さまざまな工芸品を生み出した。象牙で編み上げた作品、宝石をちりばめた盆栽、ヨーロッパの技術を取り入れた琺瑯などがこれにあたる。 さらに、養心殿のこと、《是一是二》図のこと、コレクションリスト《石渠宝汲》のこと、王献之の書を見るための小部屋のこと、趙孟頫の《水村図巻》が気に入っていたことなどの紹介もあった。 浅田氏によると、「乾隆帝は、自分で十全老人といっていまうほどのパーフェクトな人であった。中国生まれではありながら、出自の満州族に欠けていた中国美術に対する憧れを持ち続けているという微妙な時代の人間だった。中国の美術の良さを十分に理解していながら、自分だけのものとはしなかった」とのことである。 いずれにせよ、これら3人の皇帝が情熱を注ぎ、生み出した悠久の美が今回の展覧会の魅力である。 美術散歩 管理人 とら
第1報、第2報に続き、いよいよ最終第3報。
この展覧会の目玉は何といっても《清明上河図》。中国でも公開されることはめったにないほどの超一級文物。「神品」といわれている。東博では、ブログまで作って宣伝に努めている。 初日の2日は待ち時間が多く長蛇の列だったのであきらめて他のものを見て、4日に出直して、約1時間行列してようやく見ることができた。 縦24cm、長さ5m程の絵巻には、北宋の都開封の都城内外に住む人々の生活が、克明に生き生きと描かれている。家の中の人物、店で買い物をしている人、橋を渡っている大勢の人、旅人、食堂、酒宴をしているところなど・・・。人物は2cmくらいなのだが丁寧に衣装や顔が描かれていて驚く。700人くらいいるそうだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 作者の「張択端」なる北宋の画家、よほど目が良かったのだろう。まさに天才画家の描いた「神品」。 この張択端《清明上河図》は北京・故宮博物院所蔵のものであるが、描かれたのは北宋・徽宗の時代とのこと。徽宗は政治的にはダメ皇帝で、1126年に起きた「靖康の変」に際には「金」の捕虜となってしまうが、自分自身で書画を良くし、もっとも豊かな北宋文化の頂点に立っていた。 明代、清代には数多くの模本が作られ、乾隆帝も《清院本 清明上河図》↓を作らせている(1736年に完成)。皮肉なことに、この清院本」は現在、台北・故宮博物院に伝来するもので、私自身、直接見る機会があった(記事はこちら)。台北では、バーチャル‧マルチメディアエリアに展示されており、今回のような混雑はなかった。台北の画像は、こちらで見ることができる。 ![]() 蛇足を少々・・。東博西門で、約束していた旧知のブロガーTakさんたちと新年のあいさつを交わしたのち、家内ともども、タクシーで自宅へ帰った。あたりはすっかり暗くなっていた。 そのタクシーの運転手に行き先を告げると、「どうしてこんな淋しいところでクルマを拾うのですか?」という質問。「展覧会を見おわったところだ」と答えると、納得したようだったが、この場所でクルマを捕まえる客はめったにいないらしい。 「お宅の営業所はこの辺?」と聞くと、「足立区」との答え。よく見ると、その運転手は、白髪で、相当な歳。「お宅は何年生まれ?」と聞くと、私の1年後輩。「終戦の時は国民学校2年生だね」というと、「疎開したのですか?」と逆に聞いてくる。ひとしきり戦争中の話をした後、運転免許証の話になった。 昨年夏に更新を済ませたばかりだった私は、「高齢者になると痴呆テストが入ってくるし、ゴールドでも3年で更新だ」とぼやくと、運転手君は突然「最近、高齢の個人タクシーが事故で何千万も請求されたという報道があり、自分もこの3月でタクシーから降りることになった」と話し出した。 そこで、「止めたあとの趣味は?」と訊くと、「スポーツ」という答え。「どういうスポーツ?」と重ねて訊くと、「狩猟です」という思わぬ答え。「旦那さん(私のこと)、狩猟には案内人が必ず要るので、結構物入りなんですよ」と懇切丁寧な解説が始まった。 その間、クルマは上野ー後楽園ー外苑ー渋谷という経路で走っていたが、これは私が以前によく通っていた道で、ひどく懐かしい気がした。 自宅の前まで、クルマをつけてもらって、「お元気で」と声を交わして別れたが、家内は『完全に浅田次郎のシュールな世界だった』とひとしきり感心していた。 浅田次郎の「メトロに乗って」という小説のような「タクシーに乗って」の世界だったというのだ。 ![]() 【追 加】 浅田次郎氏出演の本展の日曜美術館メモはこちら。「清明上河図」の詳細図をアップした。 美術散歩 管理人 とら
前報に引き続いての第2報。
第2室の途中から、第Ⅱ部「清朝宮廷文化の精粋ー多文化のなかの共生」。 まずは、第1章 「清朝の礼制文化ー悠久の伝統ー」 カスティリオーネが描いたと思われる《乾隆帝像》は、即位して間もない25歳の像。出自である満州族の服装である。漢族の2%しかいない満州族が、中國を直接支配したのであるから、漢族に対する並々ならぬ配慮が必要であったが、正式な場面では、この肖像のように満州の礼装をつけている。 ![]() ![]() 第2章は、「清朝の文化事業ー伝統の継承と再編ー」 この章は《乾隆帝像ー是二図軸》から始まる。 ![]() この画には中国伝統の服装の乾隆帝が紙と筆を持って座っているが、後ろの衝立には同一人物の肖像画が掛けられており、周囲の卓上には沢山の骨董品が載せられている。すなわち、この画は古代からの中国の美術品を鑑賞している乾隆帝を、肖像画の乾隆帝がこのような美術鑑賞に溺れることの無いように見張っているという自戒的な内容をふくんでいる。 この画の中に登場している美術品がすべて展示されていた。とても良い考えであり、感心した。 《乾隆帝古装屏》の乾隆帝も漢民族の高士の姿であった。 ![]() 有名な「三希堂」が、内部の文物そのまま会場に再現されていたのには、驚いた。前室のカスティリオーネの《だまし絵》にも驚いた。 第3章は、「清朝の宗教ーチベット仏教がつなぐ世界ー」 《乾隆帝文殊菩薩画像》がまず登場し、後期密教であるチベット仏教関連品が多数故宮に保存されていたことが分かる。 ![]() 第4章は、「清朝の国際交流ー周辺国との交流ー」 まずは《乾隆帝大閲像軸》。西洋風の画。ヴァン・ダイクの《チャールス1世騎馬像》などを知っているはずのカスティリオーネが描いたのだろう。 ![]() 余談になるが、昨年秋に読んだ浅田次郎の大作「蒼穹の昴」を思い出した。清朝末期の西大后の時代に、春児という貧しい農村の少年が宦官となって出世していく物語であるが、その前半には乾隆帝やカスティリオーネのことも出てきていたのである。この物語は、その後NHKでドラマ化されたようで、こちらにその詳細が載っている。 次ぎは最終回の第3報。 美術散歩 管理人 とら
1月2日と4日の2回に分けて見ることとなった。この展覧会には、「中国が世界に誇る至宝、ついに国外へ 神品《清明上河図》」という大げさなキャッチフレーズがついており、初日の正月2日から大行列。混雑情報をみて、初日は閉館時間に近い午後3時ごろに平成館に行った。館前には行列はなく、しめしめと思ってエスカレータを上ると、そこには「神品」コーナーへの大行列。これを見て、神品以外の一級文物を見ることにした。それでも時間が足りなくて、最後は駆け足になってしまった。
この展覧会の「神品」以外の見どころは、次のようになっている。 1.門外不出の宋・元時代の書画全41件のうち。39件が日本初公開 2.知られざる名品。空前の規模の北京故宮展。出品作品の約半数が国宝級(一級文物)。 3.皇帝コレクションの粋。宮廷美と壮大な世界観。 ![]() 北京は仕事で3回行っているが、最初に行った2002年に、「紫禁城」の観光をした。その時の案内書は→であるが、なるほどこの本は「故宮博物院内紫禁城出版社」の刊行となっている。この時には、良い美術品はほとんど台北に行ってしまったといわれたが、まだまだたくさん残っていたのである。 まず第1会場に入ると、第Ⅰ部は「故宮博物院の至宝‐皇帝たちの名品-」。 その第1章には、書画が並んでいる。 図巻のお気に入りは多数で、とても書ききれないが、中国絵画の至高の時代といわれる北宋時代の燕粛の《春山図巻》↓は華北山水画。 ![]() ![]() ![]() ![]() 書では、北宋の蘇軾、蔡襄、米芾、黄庭堅、徽宗、南宋の呉琚、元の趙孟頫、鮮于枢などが印象的。とくに黄庭堅(↓)の狂草は完全なアートであり、徽宗(↓↓)の痩金体は性格を表した細い楷書。 ![]() ![]() 第Ⅰ部、第2章は、工芸。 まずは青銅器や玉器は軽く流して、 陶磁器へ。大好きな青磁が2点出ていた。実物の色あいが図録の色と大分違っている。↓(左)は汝窯青磁(雨後の天青色(伝世品は世界で74点のみ。うち台北・故宮博物院に21点、北京・故宮博物院に15点)。図録の青過ぎる写真をちょっと修正してみたが、完璧とはいえない。↓(右)は大阪市立東洋陶磁美術館の「北宋汝窯青磁」の図録からとったものであるが、これほど極端ではないが、このように少し灰色がかっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() 【註】 第2報、第3報 美術散歩 管理人 とら
1月1日
・午前中の年始: 孫娘1名、息子1名 客間の今年の屏風は、狩野即誉の《琴棋書画図》↓。右から2扇目に見られる「龍」は三本爪。即誉は加賀藩の御用絵師だったのだから、当然と言えば当然。 ![]() ヨセフ・シュトラウス「ポルカ:燃える恋」の際に見られたバレーが圧巻。舞台はベルベール宮殿のクリムト《抱擁》↓の前。 ![]() ヨハン・シュトラウス「ワルツ:人生を楽しめ」では、アカデミック絵画の間、ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」では古典美術の間。これらのバレーも良かった。 ルンピーの「コペンハーゲンの機関車」のシュシュという音を出す楽器らしくない楽器や指揮者がピーと鳴らす笛、ヨセフ・シュトラウス「鍛冶屋のポルカ」での少年合唱団と指揮者の金鎚、エドワルト・シュトラウスの「カドリューユ:カルメン」のビゼーからの引用など面白い趣向もエンジョイした。 1月2日 ・朝TVーNHKBSプレミアム「若冲ミラクルワールド決定版ー驚異の光の絵師」 若冲の金色には、金が使われていない。画の表面に白、裏彩色に黄土、さらにその奥に黒という三層構造で「金色」が表現されているものであることが明らかにされた。水平面の色彩混合の印象派と異なり、矢状面の色彩混合。現在のレイヤー構造に相当する時代を超えたテクニックだったのだ。 ![]() この笑顔はアートだ。 ![]() 《着衣のマハ》がメイン。版画が多くて疲れる。詳報は後日。 ![]() 目玉の神品は大行列なのでパスして、他のものを見た。それでも大変。この詳報も後日。 ![]() 東大寺大仏殿の四天王のデジタル再生ー醍醐寺の「大仏殿図」で位置、金剛峯寺の「四天王像」=「大仏殿四天王の雛形」で形、海住山寺の「四天王像」↓で色彩を知って、塑像を作って3Dデータ計測、塑像を平面上に展開してデジタルで色つけ、人間を入れて大きさが分かるように再現CGを作成。 ![]() 《東都三ッ股の図》のスカイツリーのようなタワーは、井戸掘りの櫓。国芳の童子画や北斎の富嶽三十六景にも出てくるが、明らかに高さを誇張して見るものの視線を引き付けている。この櫓もスカイツリーも三本足なのは三ッ股辺りの土地の形のせいだけなのだろうか。昼、東博からもスカイツリーが見えていた。 ![]() ・昼食 長男夫妻と孫娘2名+長女夫妻と孫娘1名+とら夫妻=合計9名。賑やかだった。 美術散歩 管理人 とら ・ ![]() 【年頭所感】 昨年は思い出したくないようなひどい年でした。「女性は未来に生き、男性は過去に生きる」という言葉を読んだことがありますが、男性である私も、今年は「過去を忘れて、少なくとも現在に生きる」ことをモットーとしたいと思います。 ビッグバンで生れた宇宙の中のわれわれの太陽にも寿命があり、いずれはブラックホールとなっていきます。時間は一方向性で、すべては有限です。日本人の平均寿命は3万日ですが、私の場合、すでに2万7千日を使っています。残された一日一日を大切に生きていきたいと思います。 美術散歩 管理人 とら
辻惟雄著「日本美術の歴史」でも、「黄檗美術と明美術の移入」には1章がさかれている。そこには、「1654年に、中國黄檗山より僧隠元が来日し、かっての鑑真の来日にくらべられるほどの熱狂的な歓迎を受けたことや、寺内の諸堂には渡来仏師『范道生』による《韋駄天像》など新奇な仏像が安置され、日本の仏師らにも影響をあたえた」ことが記されている。
今年2011年は今日でおしまいであるが、黄檗宗大本山である萬福寺が創建されてから350年ということなので、大晦日を押してこの展覧会を見に行ってきた。 ![]() 実際に、絵画を見ると、派手な赤と緑が目立ち、佛像は異色のいでたちであり、書の字体も狂草に近く、時代の推移を感じさせる。 ここでは、お気に入りをいくつかあげて本年最後の記事としたい。 1.隠元の頂相: 3点出ていたが、これは(→)ユーモラスなもの。前述のように、赤と緑が目立つ。獅子がいるのは文殊菩薩像を踏襲したものだろうか。![]() ・《韋駄天立像》(↑)は、今回のハイライト。中国製だが、このキンキラキンの派手な美男子は一度見たら忘れられない装飾的な仏像。足の速い韋駄天が、釈迦涅槃の際に仏牙を盗んだ足の速い悪鬼「捷疾鬼」を捕まえて、取り戻したというストーリーは有名。 ・范道生《十八羅漢像》がいくつも出ていたが、道教の神が取り入れられたものである。ここでは、その中、明年の干支である龍を左手に持っている尊者の画像をアップする。右手には龍からもらった宝珠を掲げている。 ![]() ![]() ・《唐子図》(→)拄杖と団扇を持って得意そうに立つ唐子と、唐子に頭を踏まれ苦笑気味の童子の図。とても面白い構図である。 ・《隠元豆・玉蜀黍図》(↓) この画は以前にも見ているが、右幅の「隠元豆」はなるほど隠元禅師ゆかりのもの。隠元豆の莢は美しく、虫はユーモラスである。 隠元は、隠元豆の他に、西瓜・蓮根・煎茶普茶料理・明朝体フォント・原稿用紙を持ち込み、寒天の命名者となるなど、多様な面で日本文化を豊かにしている。 鎖国下の江戸時代においては、萬福寺は海外への扉だったことが今さらのように実感される。 ![]() 若冲は、晩年、伏見の黄檗寺院、石峰寺門前ですごしている。境内には若冲がデザインした石仏たちが今も残っている。この図は木版画で、若冲下絵の版木原版が焼失したため、復刻したものである。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
家内は茶道のHPを持っており、その中に「和の美術めぐり」というページ(①2005-2007、②2008-2010、③2011-2013 )を作っています。今年の「ベスト3」は下記です。リンクをクリックしていただければ、それぞれの記事に飛びます。
2011年 1) 狩野一信 五百羅漢展、2) ホキ美術館開館記念特別展、3) 歴代沈寿官展 ![]() 【註1】 和の美術めぐり ベスト3: 2007-2010 2010年 1) 国宝 土偶展、2) 長谷川等伯展、3) 上村松園展 2009年 1) 国宝 阿修羅展、2) 皇室名宝展、3) 日本美術館名品展 2008年 1) 対決巨匠達の日本美術展、2) 三井家の茶箱茶籠展、3) 国宝薬師寺展 2007年 1) 仙厓センガイSENGAI展、2) 金比羅 書院の美展、3) 川崎小虎と東山魁夷展 【註2】 「とら」の「2011年の美術展ベストテン」はこちら。 美術散歩 管理人 とら
2004年に始めた「美術展ベストテン」も今回で8年目となりました。いつもは展覧会名と観覧年月だけのシンプルなものでしたが、今回は記事のなかからちょっとしたコメントを拾ってコピペしておきました。東日本大震災の影響を受けて中止された展覧会や自分の都合で見逃した展覧会もありましたが、それでもベストテンを選ぶのに十分な数の展覧会があり、結構迷って決めました。
![]() この展覧会は待ち望んでいたものであるが、東日本大震災によって博物館の空調設備に障害が発生し、開催日が1月以上も延びてしまった。(中略)なかなか面白かった。そのうち大混雑になるだろう。 2.ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 @東京都写真美術館 11.5 今回の展覧会は、「プラハの春」を終わらせた1968年8月のソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻の際に、兵士に抵抗した市民の姿を残した写真展である。(中略)感動的な写真が会場にあふれていた。 3.写楽 @東京国立博物館 11.5 自分としては写楽の第一期の作品はすべてを見てきたが、第二期以降の作品は系統的には見てこなかったので、今回はそれを整理する良い機会だった。もう一つの楽しみは上質な保存状態の海外からの作品に出合うことだったが、この点も満足することができた。 4.モダン・アート、アメリカン @国立新美術館 11.12 フィリップス・コレクション。以前に、ルノワールら印象派をはじめとする西欧絵画の大規模なコレクション展を見ているが、今回はダンカン夫妻が収集した同時代のアメリカ人画家の作品の展覧会。肩の力を抜いて、サラリと見られた。 5.運慶ー中世密教と鎌倉幕府 @神奈川県立金沢文庫 11.1 「日本のミケランジェロー運慶」の個展が開かれるとはまさに奇跡。数少ない運慶の仏像6躯が一堂に会している。さらに運慶作品の制作背景を示す資料が展観され、中世密教と鎌倉幕府の関係が示されている。(中略)これは素晴らしい展覧会。絶対のお勧めである。 6.アルプスの画家 セガンティーニ-光と山-@損保ジャパン東郷青児美術館 11.11 東日本大震災により東京開催が延期されていたこの展覧会は大好きなセガンティーニの国内33年ぶりの回顧展。(中略)本年のベストテンに必ず入る展覧会であることは疑いがない。 7.ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 @国立新美術館 11.6 夏休み中は小中学生の入場料は無料とのこと。さぞかし混むことでしょう。セザンヌの素晴らしい作品が印象的だった。 8.フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 (①、②)@BUNKAMURA 11.3 フランクフルトのフェルメール《地理学者》が、11年ぶりに日本にやってきた。シュテーデル美術館が工事中のためとのこと。(中略)アールト・ファン・デル・ネールの夜景が綺麗だった。 9.マリー=アントワネットの画家 ヴィジェ・ルブラン展 @三菱一号館美術館 11.3 最も美しい肖像画を描いた女性画家の作品を沢山見られる機会がやってきた。この画家は家内の一番のお気に入り。展覧会のサブタイトルは「華麗なる宮廷を描いた女性画家たち」である。(中略)とにかく「ベルばら」世代には見逃せない展覧会といえるだろう。 10. 磯江毅=グスタボ・イソエ @練馬区立美術館 11.7 展覧会のサブタイトルは「マドリード・リアリズムの異才」。高校卒業後、単身スペインに渡り、油彩によるスーパーリアリズム絵画を追求した。(中略)印象深い回顧展だった。お勧めします。 参考: 2004-2011年の「美術展ベストテン」 美術散歩 管理人 とら
「干支の西洋画」をホームページのほうにまとめはじめて今年で9年目。一昨年から、このブログに本文と画像をあげて、ホームページからリンクすることにした。
中国や日本の美術作品には龍は数限りなく出てくるが、西洋の場合には物語に関連している場合が多いようである。そして空想上の動物である「ドラゴン」と「怪獣」や「悪魔」との境界はやや不明瞭なのだが、あまり細かいことにはこだわらずに干支の「龍」に相当する画をピックアップした。 1.聖ゲオルギウス: 白馬にまたがるこの聖人の龍退治・王女救出の場面を描いた画は無数にある。これはキリスト教による異教征服を象徴しているとのこと。ちなみに聖ゲオルギウスはカッパドキア出身とのこと。 ・ウッチェロ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・デューラー ![]() ・ラファエロ ![]() ・アングル: 海辺の岩に繋がれ、海獣の餌食にならんとする中国の王女アンジェリカを救うサラセンの騎士ルッジェロ。彼がまたがるのは半ば鷲、半ば馬というキメラ。 ![]() ・ヨハン・ボーデ ![]() ・サルバトール・ローザ ![]() 美術散歩 管理人 とら
今回の展覧会にはフェルメールは3点。↓左から、
・《手紙を書く女と召使い》 1670年頃 @アイルランド・ナショナル・ギャラリー、ダブリン ・《手紙を読む青衣の女》 1663-64年頃 @アムステルダム国立美術館 ・《手紙を書く女》 1665年頃 @ワシントン・ナショナル・ギャラリー ![]() 今回の展覧会は、17世紀オランダ風俗画家の作品なかで、コミュニケーョンをテーマにしたものを集めたものである。外国人がキュレータらしく、フェルメール以外の展示作品には個人蔵のものが多く、ほとんどが初見のものだった。 上記のフェルメール3点を含め合計41点が、4章に分けて展示されていた。作品数が少ないが、これぐらいの方がそれぞれの画を集中して見ることができる。以下にお気に入りを列挙する。 1.人々のやりとりーしぐさ、視線、表情 ・テル・ボルフ《音楽の仲間》個人蔵: ヴィオラ・ダ・ブラッチャを弾く男と歌いながらヴァージナルを弾く女との合奏。家庭内音楽会。モデルも画家の弟と妹。 ・テル・ボルフ《眠る女とワインを飲む女》個人蔵: 若いハンサムな兵士が飲み過ぎて寝てしまい、欲求不満の女性がワインをぐっと空ける。 ・デ・ホーホ《トリック・トラック遊び》アイルランド: 居酒屋で賭けゲームをしている2人の兵士とスコアを付けている女。17世紀オランダでは居酒屋と娼館を区別することは難しいそうだから、この女は多分・・・。 ・ウェイク《宿屋の室内》オランダ文化遺産庁: 赤ん坊連れの夫婦がくつろいでいる宿屋に犬を連れた狩人が入ってきたところ、きたない宿屋ですね。 ・ヤン・ステーン《生徒にお仕置きをする教師》アイルランド :書き殴りの作品を教師に提出して手を木のヘラでたたかれている少年。それを見ている少女たち。 ![]() 2.家族の絆、家族の空間 ・ヤン・ステーン《アントニウスとクレオパトラの宴》個人蔵: クレオパトラが高価な真珠の耳飾りを酢に溶かして飲んでしまった。虚栄は美徳ではないという教訓画だそうだが、巧い歴史画のようだ。 ・デ・ホーホ《中庭にいる女と子供》ワシントン: この画家はこのような中庭の画を少なくとも12点は描いているとのこと。その中でもこの画は良い。 ![]() ・ヤン・ステーン《老人が歌えば若者が笛を吹く》フィラデルフィア: 家族の幸せなパーティ。「若い者は年寄の真似をする」という諺が下敷きになっているとのこと。大笑いしているステーン自身が描きこまれている。 3.手紙を通したコミュニケーション ・フェルメール 上記三点 ・ファン・ミーリス1世《手紙を書く女》アムステルダム: ヤポンス・ロックを身に着けた女性が羽ペンで手紙を書いている。置かれたリュートは愛のシンボル。犬は忠実・献身の象徴。 ![]() ・オホテルフェルト《ラブレター》メトロポリタン: 髪をとかしてもらいながら手紙を読む女性。ここにも犬が・・・。 4.職業上の、あるいは学術的コミュニケーション ・ボル《本を持つ男》個人蔵: レンブラント顔負けの優美な表現の髪や服。 ・ヤン・リーフェンス《机に向かう簿記係》個人蔵: 素晴らしいレンブラント光線。ヒゲや手の静脈は絶品。 ![]() ・ダウ《執筆を妨げられた学者》個人蔵: 学者のキットした顔。そこに当るレンブラント光線。机のうえには沢山の品々。見ているだけで楽しい。 ・ダウ《羽ペンを削る学者》個人蔵: 面白いジイサンの学者。ずり落ちそうな金縁の老眼鏡を鼻にかけて、羽を削っている、こうやって羽ペンを作ったのだ。 美術散歩 管理人 とら
第7話「新しい時代」は、20世紀の始まりから現代まで。都市化、産業化、交通通信の発達などにより、人々の生活は良くなるかに見えたが、その前に二度の世界大戦を経験しなければならなかった。
今回の記事内の画像は著作権の問題があるので、当該WEBへリンクを張る形とした。ご面倒でしょうが、それぞれの箇所をクリックしていただけば画像が見られます。是非というものについてはアイコン画像を載せさせていただいたが、この点については関係者のご寛容をお願いしたい。 1.第一次大戦・ポール・ナッシュ Paul Nash (1889 – 1946)の戦争画 @帝国戦争博物館 1914年に始まった第一次大戦は、予想を越えて4年以上続いた。技術の進歩は、機関銃のような人名を奪う道具まで生み出した。 ロンドンの帝国戦争博物館 Imperial War Museum にあるナッシュの《メニン道路の戦い Menin Road 》の画像はこちらであるが、爆弾によって幹だけとなった木々が立ち並んでおり、塹壕の間を進む4人の兵隊が描かれている。戦場のあまりの悲惨さに、この時代の画家の多くはその状景をリアルに描くのではなく、自らが感じたものを絵にしたのである。藤田嗣治をはじめとする第二次大戦の際の日本の戦争画家が戦場をリアルに描いたのとは対照的である。日本人画家より英国人画家のほうが人間らしいというしかない。 2.第一次世界大戦終結後の豊かな英国社会 ・自動車―オースチン7の登場 ・ラジオの出現 @BBC放送会館および科学博物館 3.第二次大戦 ・ヘンリー・ムーアHenry Moore (1898-1986)《地下鉄内の眺めTube Shelter Perspective 1941》@テート・ギャラリ-第二次世界大戦が始まると、爆撃を避けるため、市民は地下鉄の駅へと避難した。彫刻家ヘンリー・ムーアはこれを主題とした画を描いている。画像はこちらで見られる。このような状態で、夜を地下鉄内で過ごしても、翌朝には空襲の後片づけに出て行ったとのこと。ちょっと愛国的な内容だが、BBCの放送だから仕方がない。大体、東京大空襲の際には、それほど沢山の人間を収容できるだけの地下鉄はなかった。 4.第二次大戦終了後 二度の世界大戦の苦難を国民が分かち合い、何とかやり繰りする生活から、福祉国家という考え方が生まれた。さらに、国民健康サービス制度が実施され、誰でも医療が受けられるようになった。 ・バーバラ・ヘップワースBarbara Hepworth(1903-75)《手術スケッチ》 ![]() 娘が病気であった彫刻家バーバラ・ヘップワーが描いた100点以上の《手術スケッチ》のなかの医師や看護師の目や手は聖者のようであり、また患者を治す力とチームワークの強さが示されている。この画も福祉国家イギリスの創設を大いに支援したという。 その画像はこちらであるが、是非クリックしてみてもらいたい。 なお、医学雑誌British Medical Journalにはバーバラの手術スケッチに関する論文が載っている。 ・フランシス・ベーコンFrancis Bacon(1909-1992)《磔刑像の下の人物のための3つの習作》 @テ-トギャラリ- 戦争が終わり、歓楽街ソーホーが発達する。そのソーホー文化の中心がバーであった。夜な夜なバーに集まる芸術家たちのなかには、フランシス・ベーコンらもいた。放送された《磔刑像の下の人物のための3つの習作》の画像はこちらであるが、クリックを特にお勧めしない。人間が人間に対して行う行為の残酷さを強調するグロテスクな画である。頻繁に「叫ぶ口」が現れるのも気持ち悪い。 ・現代彫刻家のアニッシュ・カプーアの作品 インド出身のアーチストで、色鮮やかな作品である。放送中には、赤いワックスを大砲で画面に向かって打って作品を作る場面が紹介されていた。「売れないからといって価値がない」とはいえないのだそうだ。 ・ダミアン・ハーストDamien Hirst (1965-) 《神の愛》For the Love of God 高価な有名な作品として有名である。画像はこちらであるが、イヤラシイですね。このダイヤの骸骨は500万ポンド(65億円)で売れたが、なにせダイヤの代金は1200ポンドだったという。本当だろうか。いずれにせよ、複雑で難しいという現代美術の陰には、このような莫大な金が動いているのである。まことに世も末である。 放送内では、ダミアン・ハーストが、蝶の型紙を回転する機械に張り付け、上から絵具を噴射して色を付けるというアートの実演があった。「これでいくら取れるの?」という質問に対する答えは、「オークションで決まる」であった。まことに市場原理主義の世界である。 (このシリーズを見おわって) 7回にわたるイギリス芸術の歴史散歩を見おわった。なかなかの大作である。回ごとに多少の出来不出来はあるものの、とても勉強になった。 番組案内を参考にして、TVを見ながらメモをとっただけでブログ記事を書いたので、聞き間違いがあるかもしれない。遠慮なくご指摘いただければ訂正いたします。 この長丁場をお付き合いいただいた方には「お疲れさまでした。まことに有難うございました」と申し上げます。 美術散歩 管理人 とら
第6話「帝国の時代」では、18世紀に、イギリスが世界中に植民地を広げる中、イギリス人がそれをどのように受け止めたか、そして先住民や現地の人々はどのような反応を示したかに焦点を当て、「大英帝国」を振り返る。
1.ブリタニア像 @に英国外務省(ロンドン、ホワイトホール) ここには大英帝国の象徴のブリタニが東洋からの富を受け取っている画 Artwork depicting Britannia in a government building, Foreign Office, Whitehall, London, England がある。 2.世界地図のジグゾーパズル @キュー宮殿 ジョージ3世とシャーロット王妃が住んだこの宮殿には、キャビネットの中に子供たちが遊んだジグゾーパズルがある。子供たちは、これによって大陸名を覚え、王の支配下が及んでいる地域名を学んだ。オーストラリアとニュージーランドは未発見だったので、このパズルには入っていない。 3.ウィリアム・ホッジズ《クック海峡のステフェンス海峡の眺め》 @国立海軍博物館(グリニッジ) ![]() 4.アメリカの植民地化と独立 ・ベンジャミン・ウェスト《北米ペンシルバニアを発見したウィリアム・ペンとインディアンの協定》 @ペンシルベニア美術アカデミー ![]() ・アメリカ独立宣言の署名と「自由の鐘」 @ペンシルベニア 5.インドの植民地化 アメリカに独立を許したイギリスは、これを不名誉と考え、今度はインドに目を向けた。当初は平和な貿易相手であったイギリスは支配者になっていった。 ・《ティプ・スルタンの虎》 @ビクトリア・アルバート美術館 ![]() ・旧総督府公邸 @コルコタ(インド) リチャード・ウェルズリーは、支配者となって君臨しようとし、壮大な館を建てた。中には、ライオン像が両袖についている椅子があり、これにウェルズリーが王様のように坐っていたという。 1857年には、イギリス人に反感を抱いたインド兵士が反乱を起こしたが、2年間で、イギリス側の勝利に終わった、 ・ハウラ駅 @コルコタ(インド) 鉄道は、インドの植民地支配の要であった。当時のインドの悲惨な状況は正確に絵に描かれず、淡い色の画であったので、イギリス本土にインドの状況が知られなかった。 6.アフリカの植民地化 ・チャールズ・ゴードンの遺品 @ケント州の公兵博物館 ゴードンは、トルコ、インド、中東、アフリカを征服し、スーダンで命を落とした。ジョージ・ジョイの《死に臨むゴードンの肖像》 George W. Joy's portrayal of Gordon's death には、上からアフリカ人を見下ろしており、英雄として描かれている。 ![]() ここには、当時最新鋭であった連射式の全自動機関砲も展示されているが、ゴードン殺害の復讐として、機関銃によって、アフリカ人が多数殺されたことを示す戦争画が残っている。 ・ベニン王国彫刻 @大英博物館 素晴らしいレベルの彫刻がアフリカのベニン王国でつくられていたが、イギリスは征服時に略奪した。イギリスの征服後には、イギリス支配下で美術品として制作が続けられていた。これらは、ネットで見ることができる(こちら)。 7.ヴィクトリア女王記念碑 @バッキンガム宮殿前 ![]() 美術散歩 管理人 とら ![]() 序章.逍遙する人—《落葉》と代々木の菱田春草 彼の代表作の《落葉》や《黒猫》も、彼が眼を病んで移り住んだ代々木で制作されたとのこと。《落葉》には合計5バージョン(永青文庫蔵、福井県立美術館蔵、滋賀県立近代美術館蔵、茨城県近代美術館蔵、個人蔵)あるが、この展覧会の後期に、滋賀県立美術館所蔵のものが出てくる。前期の今日は、永青文庫蔵らしき《落葉》がパネル展示されていた。 Ⅰ章.岡田三郎助と伊達跡画家村 岡田は、現在、恵比寿ガーデンプレイスとなっている場所の東南の伊達跡に住んでいた。ブリジストン美術館にある岡田の《婦人像》が三越の第17回新柄陳列会のポスター《むらさきしらべ》に採用されていた。 うらわ美術館で開かれた「誌上のユートピア」展で見た杉浦非水の三越のポスターにも再会した。 ![]() 辻永という素晴らしい画家を初めて知った。岡田と同じく伊達跡に住んでいて、岡田の影響を受けたとのこと。そこで山羊を飼っており、「ヤギの画家」として有名だったようだ。 ![]() Ⅲ章.切通しの道と草土社—岸田劉生の風景 岸田の代々木の切通しの画はあまりにも有名だが、近くで何枚も力の入った風景画を描いている。 ![]() Ⅳ章.束の間のユートピア—村山槐多の終焉 村山槐多が、大正12年に、スペイン風邪で死んだのは、渋谷区の画家コロニーに移ってまもなくだった。 Ⅴ章.竹久夢二のモダンとおんな 竹久も三番目の妻「お葉」と宇田川町に住んでいた。夢二がお葉に宛てた手紙が出ていたので読んでみた。優しい言葉と美しい字だった。最後に三円送るという所帯じみた言葉があった。 夢二が作詞した「宵待草」の楽譜の女性は↓ ![]() あまりなじみのない画家。 Ⅶ章.フォービズムの風—独立美術協会の周辺 児嶋善三郎の《おさげの少女》や林武の《梳る裸婦》、野口弥太郎の《門》もよかったが、今回の展覧会のマイベストは《雪山と樵》。海老原ブルーの山の画だが、よく見ると樵と子供と犬が見える。ところで、これはどこの山? ![]() お気に入りは石井鶴三の《東京近郊の家 代々幡 日本風景版画第九集》と恩地孝四郎の《明治神宮 新東京風景》。 Ⅸ章. 同潤会アパートメントに住む―蔵田周忠と型而工房 代官山にも同潤会アパートがあったのですね。型而工房のバウハウス調の椅子が出ていた。 Ⅹ章.安藤照とハチ公と塊人社—昭和前期の彫刻家たち 現在のハチ公像は二代目。初代は安藤照の作。これは戦争中、昭和19年に金属供出され、現在のものは息子の安藤士の昭和23年の作。 ご存知のように、ハチ公は東京帝大農学部の上野英三郎教授の愛犬。ハチ公は初代の像ができた時にはまだ生きていて、自分の銅像の除幕式に出席している。その翌年に、ハチ公は死んだとのこと。 出展リストにない作品が一点出ていた。渋谷区所蔵の《ハチ公陶製の像》。これは安藤家に残っていた鋳型をもとに京都で複製したもの。そのストーリーが面白い。第二代ハチ公像の制作にあたって、台座名が募集された。一等賞は「忠犬ハチ公」と名付けた当時「渋谷区上原小学校」の生徒だった佐々木(羽鳥)敦子さんだったが、その副賞としてこの複製が与えられたとのことである。 終章.都市の遊歩者—谷中安規と《街の本》 有名な渋谷駅の版画が掉尾を飾っている。地下鉄と玉川線!当時、私がすっかりお世話になった線路。前者には、まだお世話になっている。 ![]() 美術散歩 管理人 とら
第5話「市民の時代」では、18世紀初め、イギリスが世界で最も豊かで強い国になりつつあるなか、人々の生活様式が変わり、新たな中産階級が誕生したことにスポットを当てる。
1.最初期の銀行券 @ロンドンにあるイングランド銀行 17世紀末に創設され、その銀行券にはブリタニアが印刷されている。 2.《ジョン・ジョセフ・マーリンの肖像画》 @ケンウッドハウスのコレクション 18世紀初め、イギリスでは中産階級という新しい階級が登場し、彼らの肖像は当時の多くの絵画に残された。マーリンは一般市民で、ローラースケートの発明者。その肖像画には、金貨を測る計器が描きこまれている。 3.ウェッジウッドの傑作とその工房 @ストーク・オン・トレント 商業と貿易が栄え、運河によって原料と物の移動がスピードアップした。このチャンスをつかんだ実業家の一人にジョサイア・ウェッジウッドがいる。彼は後に陶芸の父と呼ばれるが、実験を重ねて、透明感のある美しい陶磁器を作った。例えば、古代ローマのガラスで作られたポートランドの壺の再生を5年がかりで成功させた。 4.家具職人トーマス・チッペンデールの作品 @ヨークシャーのノステル修道院 彼の家具は、カタログで選ばれ、当時の豪商たちの豪邸を飾った。中国風の家具やミニチュアの家も見られた。 5.文化的中心としてのスコットランド 1707年の連合法で、スコットランドがイギリスに統合され、グレート・ブリテンとなった。スコットランドは繁栄し、ヨーロッパの知的中心地となる。新市街ができ、科学者や哲学者が多数輩出した。 6.商業の中心地としてのロンドンの裏側 ・ウィリアム・ホガース《放蕩息子一代記》A Rake's Progress @サー・ジョン・ソーン博物館 これは8点の画からなるシリーズ。油彩は 1732–33年に制作され、 1735以降版画にもなっている。内容は、金持ちの商人の放蕩息子トム・レークウェル Tom Rakewell が、ロンドンに出て、買春や賭け事に明け暮れて、全財産を使い果たし、結果として逮捕、収監され、さらには精神病院に入れらるという没落の物語。 (第1図)遺産相続 ![]() (第2図)贅沢なパーティ ![]() (第3図)ワイルドなパーティ ![]() (第4図)逮捕寸前 ![]() (第5図)金目当ての結婚 ![]() (第6図)賭博 ![]() (第7図)刑務所 ![]() (第8図)精神病院 ![]() ・母親たちが捨てた子供に託した形見 @ロンドンのファウンドリング養育院 ホガースは孤児院の設立にも尽力した。ここには、優れた芸術家たちが寄付として納めた作品も展示され、入場料を取っていた。これはイギリス初の公共美術館であるといえる。 6.王立芸術院 王立芸術院の設立によって、芸術家たちはもっと幅広い人々に作品を観てもらえるようになった。 7.斬新なやり方でアピールした画家 ・フィリップ・ジャック・ドゥ・ルーサーバーグの《アイドフューシコン》 @ビクトリア・アルバート美術館 動く仕掛けのある画。音楽も使い、大自然の心をつかもうとする人々の心をとらえた。 ・トマス・ゲインズバラの《のぞきからくり》 奥にローソクの灯りをともし、中央にガラス絵を入れ、手前の拡大鏡で覗く。 8.芸術作品の複製 銅版画によって複製作品が大量生産されるようになった。そして諷刺画が流行した。ジェームス・ギルレーがその代表者で、風刺の対象は、王室、首相、銀行家、ファッション、痛風のような病気、さらにはフランス革命に及んだ。 9.ネルソン提督の墓 @セントポール大聖堂 ![]() 美術散歩 管理人 とら
第4話「革命の時代」が取りあげるのは、17世紀。1600年代半ば、ピューリタン革命が起き、革命によってクロムウェルの共和制が誕生する。しかし、その後、チャールズ2世が再び王位につき、王政が復活した。
1.チャールズ1世 17世紀始め、チャールズ1世は父ジェームズ1世の後を継ぎ、スチュアート朝第2代の王となった。 ・チャールズ1世の上着 @ロンドン博物館 博物館の地下に保存されている上着には血がついている。彼が1649年1月30日に処刑されたときに着ていたもので、斬首による出血の痕である。 ・ルーベンス《天井画》@ホワイトホールのバンケティングハウス ![]() ・ヴァン・ダイクの肖像画 1630年代、アンソニー・ヴァン・ダイクが肖像画家として迎えられた。テート・ブリテンなどには沢山の肖像画が残っている 《チャールズ1世の騎馬像》↓は、背の低かったこの王様を馬に乗せて堂々とした姿として描いているが、顔は穏やかである。手綱をしっかりと握り、馬をゆっくりと歩ませているのは、実際に乗馬が巧かったのだろう。アーチや紋章が印象的。 ![]() ![]() 1642年、財政問題、王と議会の対立などから内戦が起きる。ピューリタン革命と呼ばれた、この内戦は、市民を巻き込んだ。そして次第に過激化・大規模化していく。 ・バーニー家の記念碑 @クレイドンハウス ピューリタン戦争のとき、当時の主だったエドモンドとその長男ラルフが国王派と議会派に分かれて戦い、父が命を落とした。その時には、エドモンドの旗を持った腕だけが残っていたという。生き残った議会派の息子は、一族の教会に彼らの記念碑を建てた。父親夫妻を上に、自分たちを下に彫らせている。一族は今もここに住んでおられ、悲劇的な当時のラルフの弟からの手紙やエドモンドの指輪を見せてくれた。 ・チャールズ1世の断頭図 公開処刑の画であるが、彼の最後の言葉は、「自分は不滅の王国に旅立つ」というものだったとのこと。 ・オリバー・クロムウェルについての記録 @大英図書館 ・クロムウェルの肖像画 @ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー ![]() 3.王政復古 1658年、クロムウェルが死亡。その2年後、亡命していたチャールズ2世が、議会派に招かれて即位し、王政が復活した。 ・ピーター・レーリーの肖像画 @ハンプトンコートパレス チャールズ2世が宮廷画家として雇ったピーター・レーリーは、チャールズ2世の寵愛を受けた多数の女性たちの優美な肖像画(参照)を描いた。とくに有名なのは美人で貪欲な愛人《バーバラ・ヴィラーズの肖像》だそうだ。 ・グリニッジ天文台 チャールズ2世は、科学の進歩が国を発展させると信じ、自然界の神秘に興味を抱き、自然科学を奨励した。グリニッジ天文台はチャールズ2世が建設させた施設で、初代館長のジョン・フラムスティードは毎晩の星の観測により天球図を作成し、現在では経度ゼロを示す緑色のレーザー・ビームがこの天文台から発射されている。 ・クリストファー・レン《セントポール大聖堂の再建》 ![]() 美術散歩 管理人 とら
第3話「王と権力の時代」が取りあげるのは、ヘンリー8世が即位した1509年から、シェークスピアが彼を題材に「ヘンリー8世」を執筆した1600年始めまでの約100年間。この時代はチューダー朝と呼ばれ、芸術が権力を表現する道具として使われた。
1.ヘンリー8世の時代 ・ヘンリー7世夫妻の肖像墓 @ロンドンのウェストミンスター寺院 ![]() ・英仏和平条約締結記念式典の画 @ハンプトンコート ![]() ・カトリック教会との決別 妻との離婚をローマ法王に認められなかったヘンリー8世は、自ら「イングランド国教会の長」となり、カトリック教会と決別した。ヘンリー8世は《キリストの弟子がローマ法王に石を投げている画》を掛けていたとのこと。また、ノーフォーク州の小さな教会では、壁のカトリックの絵画を塗りつぶし、チューダー朝のシンボルを描かせている。 ・ホルバインの肖像画 @ロンドンのナショナル・ギャラリー ヘンリー8世の宮廷画家を務めたホルバインによる肖像画が展示されているが、なかでも有名なのは《大使たち》である。対象を細部までとらえた写実的な肖像画でありながら、斜めから見て初めて分かる骸骨などにヴァニタスの意味を込めている。さらに地球儀など科学の時代に入ったことも示されており、十字架のキリストはカーテンの陰に小さく描かれている。 ・ホルバイン《ヘンリー8世の肖像画》 @ケンブリッジのトリニティ・カレッジ ![]() ・ヘンリー8世が最後に使用した鎧一式 @ロンドン塔 ヘンリー8世は1547年、55歳で死亡しているが、晩年には太ってしまい、この鎧は着られなかったらしい。 ・ランべス聖書 @ランべス宮殿図書館 ヘンリー8世は活版印刷で8000部の聖書を刷らせた。現在残っているその聖書の見開きには、神の前にヘンリー8世が大きく描かれている。 2.エリザベス1世の時代と海外雄飛 ・エリザベスの肖像画 @ハットフィードシャーのハットフィールドハウス ![]() ・ウォルター・ローリーは、ダート川を下って、アメリカ大陸のヴァージニアに上陸している。ヴァージニアとは生涯結婚しなかった処女王エリザベス女王にちなんでいる。この旅に同行した画家ジョン・ホワイトが、亀、鰐、先住民↓などの画を描いている。 ![]() ・フランシス・ドレークは、世界一周を果たして、持ち帰った数々の財宝をエリザベス女王に献上している。 ![]() ・ジョージ・ガワー George Gower 《アルマダの海戦時のエリザベス1世の肖像》 @ウォバーンアビー Wobum Abbey ![]() ・16世紀には、宝石、香料などが、世界中からイングランドにもたらされた。1912年、建設現場から発見された多数の宝石は、当時の栄華を忍ばせている。 3.シェークスピア シェークスピアが執筆した歴史上の人物を題材とした作品を数多く上演したグローブ座で、コメンテーターがシェークスピアの「馬をくれ、彼には王国をやる」という「リチャード3世」、「もう一度城壁を突破せよ」という「ヘンリー5世」の名句を紹介し、最後に、ナビゲーターが「リチャード2世」のイギリスの未来像の予言を朗読した。 美術散歩 管理人 とら
第2話「騎士たちの時代」が取りあげるのは、教会が権力を持っていた12世紀後半から、王権が強まった14世紀後半までのおよそ200年間。この間、イギリスでは騎士道が花開き、信仰と戦いが融合された。
1.中世初期における世界の概念 ・へレフォード大聖堂の地図 Hereford mappa mundi: この地図には、神話や迷信も描きこまれている。中心はエルサレム。 ![]() ・ベケットの奇跡を描いたステンドグラス@ケント州、カンタベリー大聖堂 1170年12月29日、トマス・ベケット大司教は、ここで国王の意を汲んだ騎士たちに暗殺された。この事件によってこの大聖堂は巡礼地となり、石の階段も擦り減っているほど多くの人が訪れたことが分かる。美しいステンドグラスには、ベケットが死後に行った奇跡が描かれている。画像はこちらを参照。 ・最後の審判を描いた壁画 @コベントリーのホーリー・トリニティ教会 この頃、教会は社会全般に影響を与え、人々の考えや行動をも支配しようとしていた。この壁画は高さ12メートルのところにあり、ザイルを使って撮影した画像が見られた。棺桶から出てくる死人も右側では天国に昇り、左側では恐ろしい罪を受けている。 3.修道士から職人への芸術の担い手の変化 ・ベリー聖書 @ケンブリッジ大学の図書館 900年近く前に作られ色鮮やかな挿絵が描かれた芸術性の高い聖書。画家ヒューゴの作品である。絵具に卵白が混ぜられ、輪郭は鮮明に描かれている。 4.騎士道の誕生: 教会と王室とを結びつける新たな行動規範 ・エドワード1世が作らせた巨大円卓 @ウィンチェスター城のグレート・ホール ![]() ・テンプル騎士団の墓を飾る彫像@ロンドンのテンプル教会。 この教会は、エルサレムのものを模した円形。十字軍に参加して命を落とした騎士たちを刻んだ彫像で、今にも動き出しそう。この肖像墓は「ダ・ヴィンチ・コード」にも登場してましたね。 ・エドワード1世が王妃の死を悼んで建てた記念碑@ノーサンプトンシャーのゲディントン 王妃カスチリアのエレアノーラが旅先で死んだことを嘆き悲しんがエドワード1世が、ロンドンへの帰途12箇所の作らせた記念碑のうちただ一つ残っているものである。騎士道では、女性に献身することも求められた。 ・エドワード3世の大剣 @ウィンザー城の礼拝堂 1340年代、エドワード3世はガーター騎士団を創設し、ウィンザー城をその本拠地とし、そこに自分の剣を掛けた。騎士道の二大要素である戦いと信仰が融合している。 ・黒太子の墓 @カンタベリー大聖堂 ![]() ・リチャード二世の最初の王妃の王冠 @ミュンヘンのレジデンツ宮殿 ![]() ・ウェストミンスター・ホール @ロンドン リチャード2世はまた、このホールをフランス風からイギリス風のものに改築し、自らのシンボルの白い鹿で埋めつくした。26人の天使が彼の紋章を手にしているのである。 ・英語文学の誕生 リチャード2世の時代には、それまではノルマンディー風にフランス語で書かれていた詩が英語で描かれるようになった。イギリスは独自の芸術をはぐくむようになったのである。チョーサーの「カンタベリー物語」は、金で飾られた美しい絵本で、大聖堂に向かう巡礼者が描かれている。 ・《ウィルトンの二連祭壇画》@ロンドンのナショナル・ギャラリー ![]() ![]() ナショナル・ギャラリーのガイドブックでは、『この二連祭壇画においては、幼子キリストが聖母に代わって、「地球儀、あるいはイギリスの雛形」である宝珠を受け取り、王に祝福を与えるために天使にそれを手渡した』となっている。 美術散歩 管理人 とら
BS朝日、午後8時から「BBC地球伝説」という番組がある。昨日たまたま見たのが「イギリス・華麗なる芸術の旅」。今週から来週にかけて(2011年12月12日(月)~16日(金)、17日(月)、18日(火))7回にわたって見られるようだ。
1 征服の時代、 2 騎士たちの時代、 3 王と権力の時代、 4 革命の時代、 5 市民の時代、 6 帝国の時代、 7 新しい時代 イギリスの歴史を7つの時代に区分し、残存する芸術作品を手がかりに、ひもといていく。案内役は、BBCのコメンテーターのデビッド・ディンブルビー。 第1話「征服の時代」が取りあげるのは、西暦40年代から1000年代に至る、およそ1000年間。 1.古代ローマの支配: 西暦55年~ ・クラウディウス帝がイギリスを征服したことを称える碑文: ローマのコンセルバトーリ宮。 ・ローマの属州イギリスは「ブリタニア」という女神の姿に擬人化: 現在のイギリスの50セント・コインの表はエリザベス女王だが、裏はブリタニア女神。 ・ブリタニアがクラウディウス帝に組み伏せられた場面の大理石彫像↓: トルコ西部のアフロディアシス。 ![]() 2.ローマが撤退(5世紀初め)とアングロサクソンの侵略 ・アングロサクソン語と頑固な国民性をもたらす。 ・6世紀のアングロサクソンの王墓: 1939年、イーストアングリアのデベン川沿いのサットン・クールで出土した船の王墓内の装飾品: 眉と鼻が鳥の形をした王の兜↓、ガーネットヤ金で作られたマントの留金、蛇の模様のベルトのバックル、狼のデザインの財布。大英博物館に収蔵。 ![]() ・西暦563年、聖コルンバと12人の弟子たちがアイルランドから渡海し、スコットランドで布教を開始。 ・石造りの十字架: アイオナ島に残存。このような十字架は信仰の中心で、協会の役割を担っていた。丸はケルト人の「太陽の力」、マリア、キリスト、ダビテ、フルートを吹く人物が彫られている。 ・ノーサンバーランド(イングランド北部): 北からの聖コルンバの弟子たちと南からの聖アウグスティヌスの合流した学問の中心地。この地のウェアマウス・ジャロー修道院長が716年に作った500頭の羊の皮に書いた彩色画入り聖書。院長はこれをローマ教皇に届けるためにイタリアに向かったガ、フィレンツェで客死。これは完全なものとしては世界最古の聖書。初めにこれを描いている聖者の画↓、新約聖書の部分の初めにはキリスト・天使・マタイ・マルコ。ルカ。ヨハネが描かれている。 ![]() ・唯一侵略を跳ね返したウェセックスのアルフレッド大王ゆかりの宝飾品: オックスフォード大学の附属アシュモリアン博物館所蔵。 ・アルフレッド大王自身が英語に翻訳したラテン語のグレゴリウス一世の書籍: オックスフォード大学の附属図書館。 5.ノルマンディ公ウィリアム(征服王)のイギリス侵略(1066年) ・アベ・オ・ゾンム修道院: ウィリアムが故郷のカーンにその地の石で建てたロマネスク様式の修道院。 ・バイユーのタペストリーLa Tapisserie de Bayeux: ウィリアムのイギリス征服の様子を記録した60メートルの大絵巻。麻布の毛糸の刺繍。驚くべき作品である。船↓、馬↓、鍋料理、逃げ惑う女子供、首を切られた兵、エドワード懺悔王の死後、新王となったハロルドの死などが描かれている。 ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
バロックの巨匠カラバッジオは、巧みなキアスクーロ表現と破天荒な生涯で有名である。その作品の数は限られており、フェルメール同様、世界を旅してカラバッジオ巡礼を試みる美術愛好家も少なくない。
2011年12月23日からBUNKAMURAで開かれる「フェルメールからのラブレター展」で、フェルメールの《手紙を書く女と召使い》が出展されるが、これは1690年頃の作品で、現在 アイルランド国立美術館に収蔵されているものである。 時を同じくして、昨日2011年12月9日にBS朝日で放送されたBBS「よみがえった名画の謎~天才画家カラバッジオが描くキリスト」に登場したカラバッジオの《キリストの捕縛》も現在はアイルランド国立美術館に所蔵されているものである。 フェルメール巡礼にせよ、カラバッジオ巡礼にせよ、ダブリンは遠くて、なかなか行きにくい場所である。そのようなダブリンに存在している名画2点の話題が揃って登場してきているのだから日本もまだまだ捨てたものではない。 さて、カラバッジオがローマ時代に描いた《キリストの捕縛》は、200年間、行方不明となっていたのであるが、この作品が1990年にダブリンで発見され、幻の名画として一躍有名になった。今回のTV番組はその発見の物語を解説したもので、きわめて興味深いものだった。 ![]() この作品はカラヴァッジョが描いた宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれている。主題は「ユダの接吻」である。ユダがローマ兵に「自分が接吻する者こそ、キリスト!」と告げ、ユダの接吻を機にローマ兵がキリストを逮捕する瞬間である。キリストの左には福音者の聖ヨハネ、右にはユダ、ローマ兵が続き、一番右の頭が露わになっている人物はカラヴァッジョ自身である。暗い背景の中、いくつかの光源によって登場人物の表情がきわだたされている。 この画の注文主は、イタリア貴族チリアコ・マッティCiriaco Matteiであるが、1614年の彼の死後、息子のジョヴァンニ・マッティが相続し、1623年のジョヴァンニの遺言では甥のパオロ・マッティに遺贈されている。以前にはこの画は有名だったらしく、沢山の複製画が作られている。 パオロには息子がいなかったため、6枚の画がマッティ家から売りにだされた。しかし、その目録では、この画はオランダ人画家ホントホルストの《キリストの捕縛》になってしまっていた。 1802年に、イタリア旅行に出かけたスコットランド貴族のニスベットWilliam Hamilton Nisbetがマッティ家からこの画をホントホルストの作品として購入し、1920年代までニスベット家の邸宅の食堂に飾られていた。 1921年に、コンスタンスMary Georgina Constance Nisbet Hamilton Ogilvyが亡くなり、ニスベット家直系が絶えた際、スコットランド国立美術館に寄付される可能性もあったのだが、結局この美術館は引き取らなかった。残念なことをしたものだ。 結局、この画はホントホルストの作品としてオークションにかけられ、画廊経営者ジョン・ケンプ・リチャードソンが落札した。 一方、1920年、アイルランドの警官リリア・ウィルソンが恨みを買って殺されるという事件が起こった。妻の小児科医マリーが、夫の追悼のため教会にステンドグラスを寄贈しようとしたが、当時有名なステンドグラス職人がたまたまスコットランドに出かけていたので、マリーはスコットランドに行き、そこでこの《キリストの捕縛》に遭遇した。マリーはこれを購入して、ダブリンに持ち帰り、1930年に、イエズス会修道院に寄贈した。 その後、この画はずっとイエズス会の修道院の宿舎の食堂に飾られていた。この頃にはこの作品はホントホルスト自身の作品ではなく、その複製と認識されていた。 1990年、たまたまこの画の修復依頼を受けたアイルランド国立美術館の絵画修復士セルジオ・ベネデッティSergio Benedettiは、その直感で、本当の作者がカラバッジオであると考えた。 この作品がカラバッジオの真作であることを証明するため、ロンドンのナショナルギャラリーに持ち込まれた。そこで最新の技術を駆使し、カラバッジオの特徴と照合するために絵の具や筆使いを科学的に徹底して調べあげた。その結果は、これはカラバッジオの真作であることが確認された。 その後、この画はアイルランド国立美術館に無料で貸し出され、展示されている。一度実物を拝見したいものである。 参考 ・よみがえった名画の謎~天才画家カラバッジオが描くキリスト ・Caravaggio's Taking of Christ by FrancescaCappelletti ・Mythomorph: Beyond the Lost Caravaggio 美術散歩 管理人 とら
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